中国の製鉄技術史
- 「中国(漢民族)の場合のみは、すでに戦国時代(紀元前400ー200年頃)に、鍛鉄とならんで銑鉄(鋳造用の鉄)を生産し、各種の鋳鉄製品を製作していた。・・・・革命後の考古学による多くの発掘によって、おびだたしい数の斧・鎌・鋤・包丁・鍬などの農工具が出土し、しかもその大半が鋳鉄製品であることが実証されるようになった。続く漢代に入ると、鉄は国家による専売制の下で、銅よりもはるかに安い価格で、ますます大量に生産されるようになる。」大橋周治『鉄の文明』岩波書店、1983年,p.10
古代ヨーロッパでは、青銅器は鍛造されていた。しかし古代中国では新石器時代の末期頃から鋳造で製造されていた。
- 「
- この鋳造技術が一応の確立をみたのは、夏(か)時代(商時代の前、B.C.約1766年)である。商時代初期からほとんどすべての青銅器は鋳造で製造され、商時代は鋳造技術の最盛期となった。現代人が驚くような複雑なものや大型のものも多数製造された。一般に中国は「鋳造の故里」といわれているが、これは中国で鋳造技術が創始され、高度に発展したことやその技術が後世に継承されたことを指すものである。周知のように、鋳造は鍛造よりも生産効率が高いが、高温度まで上げられる熔解炉などの設備と優れた技術者が必要である。古代の文献にも、「鉱石から銅を精錬し、鋳型に鋳込むことができるようになって、初めて金属文化が開花した」とあり、中国古代の金属文化の特徴とルーツを鋳造技術に求めることが多い。」華覚明(中国科学院自然科学史研究所教授)の講演記録「中国古代金属文化の技術的特徴」(田口勇『鉄の歴史と化学』裳華房,1988年,pp.24-25 所収)
- 「
- 。対象が鉄に変わったことによる技術的ギャップは、現在、想像するよりも容易に試行錯誤することによって乗り越えることができたと考えられる。
- 。」
- 華覚明(中国科学院自然科学史研究所教授)の講演記録「中国古代金属文化の技術的特徴」(田口勇『鉄の歴史と化学』裳華房,1988年,p.225 所収)より
- 華覚明氏は、『世界治金発展史』、『中国治鋳史論集』などの著書でもよく知られた中国古代治金史研究の権威者
中国で、鋳鉄が「生鉄」、練鉄が「熟鉄」(熟すとは、重要な成分が失われることを意味する)という言葉で呼ばれることにも、古代中国における鋳鉄技術の存在が示唆されている。
- R.K.G.テンプル『中国の科学と文明』河出書房新社、pp.85-88
- ニーダム『東と西の学者と工匠』上巻,p.84,pp.165-166,197-208
- 図のようにフイゴを使用して鋳鉄が製造されていた。
- 宗応星『天工開物』(1637)
- (大橋周治『鉄の文明』岩波書店、1983年,pp.10-11)。
- 「最初、鋳鉄は民間の投機家が独占し、彼らはそれによって裕福になった。しかし、
- 当時は、全国に46の国営鋳鉄所があり、政府の役人が鋳鉄製品の大量生産を管理していた。/古代中国における鋳鉄の普及には、多くの副次的な効果が伴った。農業の分野では鉄製の鍬やその他の道具とともに、鋳鉄製の犂先が開発された。小刀、斧、のみ、鋸、および突きぎりもすべて鉄製のものが手にはいるようになった。食物は鋳鉄の鍋釜で料理できるようになり、玩具まで鉄のものができた。」R.K.G.テンプル『中国の科学と文明』河出書房新社、p.73
- 11世紀頃には製鉄に石炭を利用、1270年頃にはコークスを高炉燃料に利用(原善四郎『鉄と人間』p.95)
(以下引用)
「青天を衝け」とか幕末物が最近キツくて見られない。がんじがらめの体制下にあって浮かび上がる見込みのない下士・郷士、三男坊・四男坊以下の飼い殺し組が、ある日「天皇」「神国」という概念に触れて、いきなり偉大なるものと心で結びついてしまう。昔なら草莽の志士だけど、要は今でいうネ○○〇。
引用文は、漫画を読めない人が、「漫画を読める」とはどういうことかについて丁寧に分析した、面白い文章である。自分が直面している問題をこれほど明晰に分析できる頭脳は、かなり優秀だろう。
マンガって読むの難しくないですか?
基礎能力に欠けている私
読み方がわからない
夏目房之助『マンガはなぜ面白いのか』
コマの謎
フキダシと言葉の層
オノマトペの衝撃
マンガは複雑なコードに満ちている
(以下引用)
要は、イスラエル軍を英米DSが秘密裏に強力にバックアップしており、実際は「英米イ連合国」だったのではないか、と私は推理している。チェコスロバキアからの軍事物資購入も、DSの斡旋によるものだろう。すなわち、イスラエル対アラブ諸国ではなく、「DS対アラブ諸国」というのが第一次第二次中東戦争の真実だったのではないか。
(以下引用)
第一次中東戦争(だいいちじちゅうとうせんそう、ヘブライ語: מלחמת העצמאות、アラビア語: حرب 1948)は、1948年から1949年にかけて行われたアラブ諸国とイスラエルとの戦争のこと。パレスチナ戦争ともいう。イスラエル側の呼称は「独立戦争」(ヘブライ語:מלחמת העצמאות)で、アラブ側の呼称は「アン・ナクバ(大災害)」(アラビア語: النكبة )である。イスラエルはこの戦争に勝利し、独立国としての地位を固めた。
第一次世界大戦以降、パレスチナにおいてはパレスチナ人と入植してきたユダヤ人との間で嘆きの壁事件など、散発的な衝突が発生していた。第二次世界大戦中ユダヤ人はイギリスにドイツ攻撃のため協力していたものの、大戦終結後にパレスチナにおけるユダヤ人国家建設に前向きでないイギリスに対し、武力闘争を開始する。
(略)
戦争準備[編集]
この内戦状態を見てアラブ側の義勇兵が各国より集まり、1948年2月にアミーン・フサイニーやアブドゥル=カーディル・アル=フサイニーなどが率いるアラブ救世軍が結成され、ファウズィー・アル=カウクジ率いるアラブ解放軍も結成された。また、結成間もないアラブ連盟の初代事務総長に就任したアブドゥル・ラフマーン・ハサン・アッザームはユダヤ系の商店やシナゴーグの破壊などの反ユダヤ主義行為を非難する人物で知られたが[3]、この状況について『個人的にこれは排除の戦争となってモンゴルの大殺戮や十字軍の戦争と並び称されるような危険な虐殺の戦いになると思う、ユダヤ人は我々に戦争を強いないでほしい。義勇兵はパレスチナの人口を遥かに超えると私は考えている』と懸念を示し[4]、あくまで自治権を視野に入れた一国家でのアラブ人とユダヤ人の平和的な共存を求めた[5]。
ユダヤ人側も民兵組織ハガナーを中心に召集をかけ、また海外在住の従軍経験のあるユダヤ人にも勧誘を行い、7万人ほどを動員した。特に従軍経験のあるユダヤ人の参加は、ユダヤ人側の軍事的能力を大いに高めた。また武器については大戦終結直後の欧州各地より購入したり、詐欺まがいの方法で入手した。中でもイギリス軍から盗み出したM4中戦車およびクロムウェル巡航戦車計6輌は砂漠での戦闘を制するための貴重な機甲戦力となった。
1948年3月頃よりアラブ人部隊はエルサレムを包囲し、ユダヤ人の輸送トラックを襲撃するようになった。このためアラブ人部隊とユダヤ人部隊の衝突は続き、デイル・ヤシーン事件やハダサー医療従事者虐殺事件などの双方による虐殺事件も起きた。特にデイル・ヤシーン事件は当地在住のアラブ人に大きな恐怖感を与え、パレスチナからの脱出・難民の発生が始まった。
戦争推移[編集]
戦争の勃発[編集]
イギリス軍がパレスチナから撤退する1948年5月14日に、ユダヤ国民評議会はテルアビブにおいてイスラエル国の独立宣言を行った。そして、この日、レバノン、シリア、トランスヨルダン、イラク、エジプトのアラブ連盟5ヶ国はイスラエルに対し戦争を宣言した(後にサウジアラビア、イエメン、モロッコも部隊を派遣)。アラブ連合軍は翌15日にパレスチナに侵攻し、第一次中東戦争が勃発した。
開戦時のアラブ側兵力は15万人、対してユダヤ人は民兵合計3万人という圧倒的な差であった。アラブ側の主力は、アラブ軍団と呼ばれる精鋭部隊を持つヨルダン軍と、シナイ半島から進撃するエジプト軍である。対してイスラエル側は国連によって武力保持が禁じられていた為、ゲリラ部隊ハガナーがチェコスロバキアから密輸(イスラエル=チェコスロバキア武器取引)されていた小銃などで応戦していた。5月18日にヨルダン軍がエルサレムを包囲し、28日には旧市街のユダヤ人防衛部隊が降伏した。
しかし、エルサレム新市街はイスラエルが保持し続け、テルアビブの支持もあり徹底抗戦を行っていた。そこへの補給を巡り、ラトゥルン要塞などで激戦が行われた。結局、要塞はアラブ側が保持したものの、6月にイスラエルは迂回路を設定しエルサレム新市街への補給に成功する。
第一次休戦[編集]
ここで国連が停戦を呼びかける国連決議を可決、双方はこれを受け入れ6月11日より4週間の休戦となった。
この休戦期間中にイスラエル側は部隊の再編成を行った。この時点でのイスラエル武装組織は、主力のハガナーの他にシュテルンやレヒなど複数に分かれており、指揮系統が一本化されていなかった。そのためハガナーを中心にイスラエル国防軍を編成し、全武装組織の指揮系統を一本化することとした。しかし、これにイルグンが反発し、ついには武器輸送船「アルタレナ号」を巡り6月21日よりイスラエル国防軍と戦闘となった。イルグンは国防軍に制圧され、イスラエルは自軍の指揮系統の一本化に成功した。次いでチェコスロバキアからアヴィア S-199(第二次世界大戦後にチェコスロバキアで製造されたメッサーシュミットBf109)戦闘機を中心とした武器が到着し、さらにM4中戦車もスクラップの名目で世界中から大量に入手・再生し、反攻の準備を整えていった。
一方のアラブ側もアラブ連盟がヨルダンのアブドゥッラー1世に全アラブ軍最高司令官の地位を与えるもヨルダンの影響力を恐れた各国の思惑から指揮系統の統一は成功しなかった[6]。
第二次休戦・戦闘再開[編集]
停戦終了の7月9日、イスラエル国防軍はアラブ軍へ反攻を開始、戦闘が再開された。これに対し国連は再び停戦決議を可決、7月18日より第二次休戦が行われた。しかし、この停戦はすぐに小競り合いをきっかけに消滅し、全面的な戦闘が再開された。第一次停戦期間中に再編成を行い軍備を強化したイスラエル軍は強力であり、アラブ側を各地で撃破していった。特に中古の戦闘機によって制空権が確保されたが、パイロットは第二次世界大戦でアメリカ軍やイギリス軍の軍人として戦った経験を生かした。
その一方で、9月17日にスウェーデン赤十字総裁のフォルケ・ベルナドッテがエルサレムでユダヤ人組織・シュテルンに暗殺される事件があり、国際世論がイスラエルに厳しくなる面もあった。
1948年12月にイスラエル軍は南部ネゲブ砂漠で攻勢に出て一時シナイ半島に侵攻したが、ここでエジプトを影響圏としていたイギリスの警告を受けてそこより撤退した。
停戦協定[編集]
1949年1月から、戦争に疲弊した各国はラルフ・バンチの仲介[7][8]で休戦交渉を開始し、2月23日にイスラエルとエジプトの休戦協定が結ばれたのを始めとして、7月までに各国と停戦協定が結ばれた(en:1949 Armistice Agreements)。