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なぜ、建国間もない(人口も少なく社会インフラも整備されておらず、当然軍備も最初は貧弱だったはずである。)イスラエルが周囲を取り巻くアラブ諸国を相手に勝てたのか、これは歴史の謎だが、あまり誰も言及していない。
要は、イスラエル軍を英米DSが秘密裏に強力にバックアップしており、実際は「英米イ連合国」だったのではないか、と私は推理している。チェコスロバキアからの軍事物資購入も、DSの斡旋によるものだろう。すなわち、イスラエル対アラブ諸国ではなく、「DS対アラブ諸国」というのが第一次第二次中東戦争の真実だったのではないか。

(以下引用)

第一次中東戦争(だいいちじちゅうとうせんそう、ヘブライ語מלחמת העצמאות‎、アラビア語حرب 1948‎)は、1948年から1949年にかけて行われたアラブ諸国イスラエルとの戦争のこと。パレスチナ戦争ともいう。イスラエル側の呼称は「独立戦争」(ヘブライ語מלחמת העצמאות)で、アラブ側の呼称は「アン・ナクバ(大災害)」(アラビア語 النكبة )である。イスラエルはこの戦争に勝利し、独立国としての地位を固めた。

第一次世界大戦以降、パレスチナにおいてはパレスチナ人と入植してきたユダヤ人との間で嘆きの壁事件など、散発的な衝突が発生していた。第二次世界大戦中ユダヤ人はイギリスドイツ攻撃のため協力していたものの、大戦終結後にパレスチナにおけるユダヤ人国家建設に前向きでないイギリスに対し、武力闘争を開始する。

(略)

戦争準備[編集]

この内戦状態を見てアラブ側の義勇兵が各国より集まり、1948年2月にアミーン・フサイニーアブドゥル=カーディル・アル=フサイニー英語版などが率いるアラブ救世軍英語版が結成され、ファウズィー・アル=カウクジ英語版率いるアラブ解放軍英語版も結成された。また、結成間もないアラブ連盟の初代事務総長に就任したアブドゥル・ラフマーン・ハサン・アッザーム英語版はユダヤ系の商店やシナゴーグの破壊などの反ユダヤ主義行為を非難する人物で知られたが[3]、この状況について『個人的にこれは排除の戦争となってモンゴルの大殺戮や十字軍の戦争と並び称されるような危険な虐殺の戦いになると思う、ユダヤ人は我々に戦争を強いないでほしい。義勇兵はパレスチナの人口を遥かに超えると私は考えている』と懸念を示し[4]、あくまで自治権を視野に入れた一国家でのアラブ人とユダヤ人の平和的な共存を求めた[5]

ユダヤ人側も民兵組織ハガナーを中心に召集をかけ、また海外在住の従軍経験のあるユダヤ人にも勧誘を行い、7万人ほどを動員した。特に従軍経験のあるユダヤ人の参加は、ユダヤ人側の軍事的能力を大いに高めた。また武器については大戦終結直後の欧州各地より購入したり、詐欺まがいの方法で入手した。中でもイギリス軍から盗み出したM4中戦車およびクロムウェル巡航戦車計6輌は砂漠での戦闘を制するための貴重な機甲戦力となった。

1948年3月頃よりアラブ人部隊はエルサレムを包囲し、ユダヤ人の輸送トラックを襲撃するようになった。このためアラブ人部隊とユダヤ人部隊の衝突は続き、デイル・ヤシーン事件ハダサー医療従事者虐殺事件などの双方による虐殺事件も起きた。特にデイル・ヤシーン事件は当地在住のアラブ人に大きな恐怖感を与え、パレスチナからの脱出・難民の発生が始まった。

戦争推移[編集]

戦争の勃発[編集]

イギリス軍がパレスチナから撤退する1948年5月14日に、ユダヤ国民評議会はテルアビブにおいてイスラエル国の独立宣言を行った。そして、この日、レバノンシリアトランスヨルダンイラクエジプトアラブ連盟5ヶ国はイスラエルに対し戦争を宣言した(後にサウジアラビアイエメンモロッコも部隊を派遣)。アラブ連合軍は翌15日にパレスチナに侵攻し、第一次中東戦争が勃発した。

開戦時のアラブ側兵力は15万人、対してユダヤ人は民兵合計3万人という圧倒的な差であった。アラブ側の主力は、アラブ軍団と呼ばれる精鋭部隊を持つヨルダン軍と、シナイ半島から進撃するエジプト軍である。対してイスラエル側は国連によって武力保持が禁じられていた為、ゲリラ部隊ハガナーチェコスロバキアから密輸(イスラエル=チェコスロバキア武器取引英語版)されていた小銃などで応戦していた。5月18日にヨルダン軍がエルサレムを包囲し、28日には旧市街のユダヤ人防衛部隊が降伏した。

しかし、エルサレム新市街はイスラエルが保持し続け、テルアビブの支持もあり徹底抗戦を行っていた。そこへの補給を巡り、ラトゥルン要塞などで激戦が行われた。結局、要塞はアラブ側が保持したものの、6月にイスラエルは迂回路を設定しエルサレム新市街への補給に成功する。

第一次休戦[編集]

ここで国連が停戦を呼びかける国連決議を可決、双方はこれを受け入れ6月11日より4週間の休戦となった。

この休戦期間中にイスラエル側は部隊の再編成を行った。この時点でのイスラエル武装組織は、主力のハガナーの他にシュテルンやレヒなど複数に分かれており、指揮系統が一本化されていなかった。そのためハガナーを中心にイスラエル国防軍を編成し、全武装組織の指揮系統を一本化することとした。しかし、これにイルグンが反発し、ついには武器輸送船「アルタレナ号」を巡り6月21日よりイスラエル国防軍と戦闘となった。イルグンは国防軍に制圧され、イスラエルは自軍の指揮系統の一本化に成功した。次いでチェコスロバキアからアヴィア S-199第二次世界大戦後にチェコスロバキアで製造されたメッサーシュミットBf109戦闘機を中心とした武器が到着し、さらにM4中戦車もスクラップの名目で世界中から大量に入手・再生し、反攻の準備を整えていった。

一方のアラブ側もアラブ連盟がヨルダンのアブドゥッラー1世に全アラブ軍最高司令官の地位を与えるもヨルダンの影響力を恐れた各国の思惑から指揮系統の統一は成功しなかった[6]

第二次休戦・戦闘再開[編集]

停戦終了の7月9日、イスラエル国防軍はアラブ軍へ反攻を開始、戦闘が再開された。これに対し国連は再び停戦決議を可決、7月18日より第二次休戦が行われた。しかし、この停戦はすぐに小競り合いをきっかけに消滅し、全面的な戦闘が再開された。第一次停戦期間中に再編成を行い軍備を強化したイスラエル軍は強力であり、アラブ側を各地で撃破していった。特に中古の戦闘機によって制空権が確保されたが、パイロットは第二次世界大戦アメリカ軍やイギリス軍の軍人として戦った経験を生かした。

その一方で、9月17日スウェーデン赤十字総裁のフォルケ・ベルナドッテがエルサレムでユダヤ人組織・シュテルンに暗殺される事件があり、国際世論がイスラエルに厳しくなる面もあった。

1948年12月にイスラエル軍は南部ネゲブ砂漠で攻勢に出て一時シナイ半島に侵攻したが、ここでエジプトを影響圏としていたイギリスの警告を受けてそこより撤退した。

停戦協定[編集]

1949年1月から、戦争に疲弊した各国はラルフ・バンチの仲介[7][8]休戦交渉を開始し、2月23日にイスラエルとエジプトの休戦協定が結ばれたのを始めとして、7月までに各国と停戦協定が結ばれた(en:1949 Armistice Agreements)。




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