なるほど、こういう顔が「整形顔」なのか、と分かる。
特に目と口に特長がある。目はいかにも「作りました」という造形だが、口が例の「アヒル口」というか、実際の口幅を、両端を縫って小さくした感じである。
(以下引用)
【訃報】アイドルの望月めるさんが死去 家族がツイッターで報告 美容整形に600万円かけた“炎上系アイドル”で一躍話題 [Anonymous★]
1: Anonymous ★ 2021/05/21(金) 15:05:54.22 ID:CAP_USER9
https://ytranking.net/blog/archives/52298
アイドルの「望月める」さんが昨年の冬に亡くなっていたことが、家族のツイートによって明らかになりました。
家族らがツイッターで報告
今月21日、望月めるさんの家族を名乗る人物が、望月めるさんのツイッターアカウントを通じて「2020年冬に望月めるが永眠しました」と投稿。
その約1時間後、「ミスiD」(登録者数1.6万人)の編集者である小林司氏も「ご家族のツイート通り、望月めるさんが逝去されました。心よりお悔やみ申し上げます」とのツイートを投稿し、望月めるさんが亡くなっていたことが明らかとなりました。
望月めるさんの家族は、ツイートを通じて「親しくしていただいた方、支えていただいた皆様、ありがとうございました」とファンへの感謝の言葉も綴っています。
望月めるさんは、過激な発言でたびたびファンを驚かせる“炎上系アイドル”として一躍脚光を浴び、テレビ出演も果たしていた人気アイドル。
2019年には“新しい時代にふさわしいまだ見たことのない女の子を発掘し育てる講談社主催のオーディション”「ミスiD」に出場し、「きみがいる景色が、この世界~夜~」賞を受賞していました。(参考:ミスiD「望月める」)
関連スレ
【望月める】整形に600万かけたアイドルがグループ脱退 心身回復へ活動休止中も「多大な迷惑を悔いる日々」 [臼羅昆布★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1593161255/
せめてどのアイドルグループだったかぐらい書いてほしい
加工のせいなのか最近インスタでこういう顔ばっかり見かける
整形じゃなくて金型成形だろう
芸術家気どりの建築家たちの「脱構築」建築という狂気を見事に説明している。
何かを「構築」するのが建築なのだから、脱構築建築とは、生きている死者のような矛盾である。
(以下引用)
新国立競技場の建設コンペをめぐる議論について 2
新国立競技場の建設コンペをめぐる議論について 3
新国立競技場の建設コンペをめぐる議論について 4
新国立競技場の建設コンペをめぐる議論について 5
新国立競技場の建設コンペをめぐる議論について 6
新国立競技場の建設コンペをめぐる議論について 8
新国立競技場の建設コンペをめぐる議論について 9
新国立競技場の建設コンペをめぐる議論について11
新国立競技場の建設コンペをめぐる議論について12
新国立競技場の建設コンペをめぐる議論について13
“大きさ”以外にも欠点、逆風の新国立競技場
神宮外苑は風致地区。槇文彦氏が再考を訴える
東洋経済 2013年11月2日特大号
http://toyokeizai.net/articles/-/22805
「11月中旬ごろをメドにJSCや東京都などに対し、新国立競技場の建設計画の見直しを求める要望書を提出する」
まあ、確かに。見直しした方がいいでしょう。
ザハ・ハディドさんの設計デザインについてなのですが、
上記記事だけでなく多くの一般紙メディアでは、
建築物のカタチについて流線型とか躍動感とか、いったように
うまくその特徴というか建築の意味をとらえられていない、表現できていない。
というのも、「流線型」というのは非常に便利な言葉であって
ある種のプロダクトが多少丸くなっていれば、この数十年間ずっと流線型なんです。
他に言葉がない、初期の新幹線だって流線型だったし、
戦前のタトラだって流線型だった。
そこからして、ザハがわかっていない。
ザハの建築物がどういう意図でああなっているのか
なぜ、ザハが国立競技場の設計者としてダメなのか
もしくはじゃあなんでザハが世界的建築家としての評価を受けているのか
それは「脱構築」によるといいました。
「脱構築」というのは哲学用語で建築の言葉ではない、ということも
ジャック・デリダが「脱構築」でいったことというのは、
西洋哲学の伝統というか発展継続過程で、
哲学って自分らが思ってるほど素晴らしくないんじゃないか、
カッチリしてないんじゃないか
そんなに偉いのか、、哲学ってドヤが過ぎないか?
といった疑問というか批評をした人です。
哲学者が「あるものはこうである」と言い切ったその中に矛盾があるじゃないか
むしろ、「あるものはこうである」と言い切った瞬間に既にそうではないものを含んでいる。
そのことに気づいた前提でもっとお前ら謙虚になるべし、と言いました。
たとえば、「酒は百薬の長である」、「酒は万病の元」ともいいますよね。
呑み助が百薬の長と言い切った瞬間、飲み過ぎは体に毒だ、という認識もあっての自己正当化であるはずだ。といったようなことです。
哲学的なひとつの強い言説はその中に既に対抗概念をあらかじめ含んでいるから慎重にね!といった感じです。
その「脱構築」という言葉がブームになったときに、
上記の意味内容をバカだから取り違えたのか、
悪意で意図的に取り違えたのかわかりませんが
建築家の中でアヴァンギャルドを指向する人たちの中から、
「今までの建築の手法や構築性って権威的じゃないのか?」
「伝統的な様式っていうのはドヤが過ぎるんじゃねえの?」
「建築が機能的に構造的に整合するその中に既に矛盾があるんじゃん」
「ふつうの構築に異議申し立てをして批評したらどうよ?」
という大義名分を押し立てて、こんなのを作り始めた一派が出ました。
上、左からフランクゲーリー、ピーター・アイゼンマン、コープヒンメルブラウ
上右がコールハース、他は全部ダニエル・リベスキンド
これらはコンペの審査等により実際に建っているんですよ。
で、これらの本来ならまあふつうに建っていたであろうシチュエーションの建築物を、傾いた、壊れかけた、ねじれた建築としてデザインしてみんなをビックリさせてやろうという意図のもとに計画しています。その考えは本当に幼稚です。
脱構築というテーゼは掲げておりますが、実施の構造システムは案外見えないところに上手く仕込んであるため、倒れそうに見えますが倒れません。
あくまで表面形態的な処理により、ねじれ崩れたように錯覚させています。
できれば、まわりが普通であればあるほど、形態的な現代彫刻性が対比的に勝るので、古い街並みの中であえてこれをやることをことさら好んでいる連中です。
実際には、彼らはこれらの建築コンセプトについて、ポスト構造主義の哲学的言説を用いてもっともらしく語り我々を説得、納得させようとしますが、まともな教養があれば到底そうは受け取れない。
ビックリさせようとしているアーチスト気取りなだけと、取り合わないのが正解。
しかしながら、建築というジャンルは、敷地と施主と物件が一対一、そのときの一回性のものなので、一件の設計デザインが10万件建ったとか、100万ダウンロードとかいったことは起きません。
評価の仕組みの中に「大衆性」がない。
いわゆる売れる売れないとか、多くの人たちの支持によってチャート順位が変動するとかいった現象が起きないので、「良いものか悪いものか」とか「人気があるとかないとか」そういった第三者的な評価の軸が成り立ちにくいのです。
施主さんと一対一の了解性でもって成立するわけだから普遍性のない特殊解でもいっこうにかまわないはずなんですが、
それだけではイヤだ、もっと多くの人に褒められたいと強欲しています。
そのため、建築家という人たちはすでに大衆的評価の確立している他ジャンル、
ファッションとかアートとかそういったところに実はなびきやすい。
特にこの30年くらいは、建築学のみの独立した価値観で勝負しない傾向にあります。
そのため、特に包括的な価値観の元になっているであろう、その時代の哲学的テーマを借りて大義とする傾向が強いのです。
虎の威を借る狐ならぬ、哲学の威を借る建築なのです。
で、この人たちと同じ仲間だとされたいたのがザハです。
ザハは既存の建築の仕組みの中に、非常にアンバランスな構造とか、
速度をもった動きとか複雑な関係とか物体同士のネットワークを視覚的に
表現することで、「脱構築」をテーマとする建築家のひとりと位置づけられました。
現代の都市がもつ高速道路や鉄道ネットワーク、インフラストラクチャーや、
情報ハイウェイといったものが集積、離散するさまを動的にとらえたまま、
静止させた状態で建築するわけです。
そのことで、既存の建築物があらかじめ潜在的にもっているであろう、
見えないネットワークの構造をカタチにしてやろうといったことではないでしょうか
まあ、本来は映像でやるべきことで、建築で表現する必要のないテーマでしょう。
ただ、ザハは最初のころこうした断片的な物体を本当に支えなくして宙に浮かせたいと純粋に考えていたため、設計図上構造が成立しえなかったんです。
そのため、施工を担当するゼネコンが見えないところに通常の柱梁をもった構造体を、仕込もうとしましたが、ザハはそれでは建築の本来的意図がダイナシになってしまうので絶対に認めない!と突っ張っていました。
私がなぜそれを知っているかというと、私が20代のころ勤めていた設計事務所が、同時期にザハの施主さんからいくつかビル設計の依頼を受けていました関係で、ザハデザインのビルをどうにか実施に向けてアクロバットな状態のまま構造成立させるようにと、イギリスの構造家とお手伝いしていたからなんです。
どこかに当時の設計図あると思うんですが、部材の断面が鋭角だったりして
そりゃもう垂直な材も水平な材もない既製品の鋼材がほとんど使えないくらい尖んがった現代彫刻張りの建築、アンソニーカロとかの彫刻をそのまま巨大化したといった方がいいものでしたね。
今でこそ私も正気に戻りましたが、白状すると20代の当時はこのアバンギャルド全面押しでした。
普通の構築と比較するとこうなりますか、、赤い線が構造の構成です。
オレンジの点線は外観を決定する二次部材です。
だから、めったなことでは建たないし、建てようとするとエンジニアリングにも、
構造部材にも構成する建材にも莫大なお金がかかる。
建築があらかじめ持つ整合性に隠れているであろう潜在的な動的ネットワークをあらわにするわけですから、骨組みも内臓もバラバラにしたまま再構成して、脱構築を構築をするという、、、なんだかなあ、、、
結局、建たなかった。
しかし、同じ脱構築関係の建築家の人たちは徐々に実作をモノにし始めていた。
どうする?ザハ、建たないままで終わるのか!と思われたザハでしたが、
自己のコンセプトを大きく崩さないままで実作が可能な手法にたどりついたわけです。
それは、もっと大型の建築しかやらない!です。
大型の建築物であれば、断片化した部分というのが柱や梁などの部分ではなくてモノコック化されたひとつのボリュームになるから、
構造の整合性は見ためのデザイン性と一体ではなく、視覚的には下位になり、どこかで構造が成立するからです。
なので、ある意味過剰構造状態を是認することになります。
ザハの建築は構造的には必要最小限ではなく常にオーバースペックなはずです。
だから、見積もりが予想より大きくなるわけです。
↑ザハ設計の「箱をつなげて大きく跳びださせてみました」のイタリアの美術館
ボリュームがバカでかいので構造に寄与する列柱が細く見えて存在感消える。
ザハにとってもよかったのは、工事現場にコンピューターが入ってきて解析や図面化でCAD利用が進んだことも追い風でしょう。
設計図というのは。完成予想をするのではなく「次の人に伝えるため」のものなので、デザイン画をいくら描いても建築はつくれないんです。
建築の設計図とは最終的に現場の職人さんのとこまでつなぐリレーのバトンのようなものなので、表面のカタチや完成パースからだけでは、施工はできない。
鉄骨やコンクリートの型枠の角度や半径を算出したものでないと工場で加工できないんです。
CAD化が進むまでは、複雑な形状の数値化にはものすごく手間がかかったんです。ましてや三次曲面や楕円体などといったものは定規がありませんからね。
で、今回の新国立競技場の形状を見ると、、、、
なんか全部、半径の取れない自由曲線なんだよな、、、
それに加えて、2000年以降はザハにとって有利な状況が今度は哲学のエリアで起こりました。
つづきます。
なかなか終わりません。
これは、文章を書くのが楽しいと言うより、「字を書く」のが楽しいのではないか。
漫画家だから手先が器用で、字もおそらくきれいだろう。そういう字は書いていても楽しいと思う。
(以下引用)
文章仕事をもらった時、以前は400字程度でもエディタ使って書いてたんですよ。文字数も分かるし、文節ごとの移動や書き直しも楽なので、「こいつぁ便利だ!」って感じで。それが最近、昔ながらのコクヨの原稿用紙に鉛筆書きで原稿書いてみたら、あら!文章書くのが楽しいわ♩になって、
私は大工用具店に行くと、そこに陳列された金槌やバールや得体の知れない棒状のものを見て、それらを武器として考える癖があるのだが、男はだいたいそうではないのか。特に、斧などはまさに武器であって、武器以外の使用はむしろ「用途外の使用」に見える。
服にはまったく興味は無いが、布やロープは「サバイバル道具」として見ている。
だが、棒一本でも(鉄棒でも鉄パイプでも)武器としては非常に魅力的なので、工事現場などは「宝の山」に見える。最近はカーテンレールなどに使う圧縮成形した木の棒などがあり、非常に硬くて、そのまま「棒術」に使えそうである。これは昔の武術者(棒術の名手)なら「国宝級」の貴重品だっただろうな、と思う。
(以下引用)
トレッキングポールは歩行が楽になるだけでなく、非常時にはロープなどと組み合わせて添え木・松葉杖・担架・簡易シェルターの支柱など、応用範囲が広いぞ。使うと歩行に上半身も動員するし、下山で膝を痛めないのでいいぞ。
まあ、単純に「既知情報による未知部分の数学的推定」と説明すればいいだろうか。長いwww
哲学用語にあるが「延長」でもいいのではないか。「論理的(類推的)延長」とか。
単純な例で言えば、「2,4,〇,8,10」と続く数列があれば、その規則性によって、〇の部分の数字は6だろうと推定するようなものか。
なお、「polation」は単語ではなく、語素とでも言うべきもので、「補完(下の説明は機械翻訳だと思うが、「補間」としている。まあ、数学的には「補間」が適切だろう。)」の意味のようだ。
補間 (v. )
1610年代、「新しい素材を挿入して(書き込み)を変更または拡大する」ラテン補間から、内挿の過去の部分は「変更、 PIEルート*pel-(5)から「スムージング、ポリッシュ、ポリッシュ」に関連する「間」から書き込みの「改ざん」を新鮮にし、磨く、「完全な布に」接続概念は「ワトキンス」です。
センスはラテン語で「改装」から「外観の変更」から「改ざん(特に新しい材料を追加することによって)」に進化しました。中英語も同様の意味で、インターポレン(15c.初期)を持っていました。関連:補間;内挿 .
(以下引用)
外挿
外挿(がいそう、英: extrapolation)や補外(ほがい)とは、ある既知の数値データを基にして、そのデータの範囲の外側で予想される数値を求めること。またその手法を外挿法(英: extrapolation method)や補外法という。対義語は内挿や補間。
なお、外挿補間という呼び方も広まっているが、本来、補間とは、既知のデータを基にしてそのデータの範囲の内側の数値を予測することであり、内挿の同意語であるから、外挿補間という呼び方は誤りである。
手法[編集]
この節の加筆が望まれています。
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当該数値データを、何らかの関数にあてはめ、数値データの無い範囲(外側)の値を推定する。最も簡単なものは、線形補間をデータ範囲の外側の点に対して適用する外挿(線形外挿、直線外挿)である。他にはリチャードソンの補外、エイトケンのΔ2乗加速法、ステフェンセン変換などがある[1]。
誤った使用例[編集]
外挿の信頼性はその予測信頼区間によって表示される。予測信頼区間は理論的にとりえない値を含む場合があり、このような場合に外挿結果をそのまま用いることは誤った結果を導く可能性がある。たとえば、有限の値しかとらない変数に対して無限大を定義域として含む関数(一次関数など)を選ぶ場合がそれに該当する[2]。
- 新しい病気の死亡率は当初急激に上昇するかもしれない。その時、死亡率のグラフを線形的に外挿すると、人口のすべてが数年内にこの病気によって死亡するという結果をもたらす場合がある。実際には、罹患者が死亡した後、生存者はこの病気にかかるのを避けるような行動をとるようになるので、新しく発見された病気の死亡率は低下するのである。さらにいえば、生存者が当初からこの病気に対して免疫をもっていることもありうるし、病気の流行に直面することによって後天的に免疫を得ることもありうる。病気の流行と死亡率の上昇を受けて、治療法も発達するかもしれない。
- 湖の水量が時が経つにつれ減少している場合に線形外挿を行った場合、ある将来時点で水量がゼロとなる。それ以後の期間はマイナスの水量が予測されるが、これは非合理的である。