菊が居間のドアをノックする。
須田夫人「お入り」
菊、お辞儀をして入る。
菊「何か御用でしょうか」
須田夫人「まあ、そこにお座り。ちょっと話があるんだよ」
菊、不安そうな顔でソファに座る。
須田夫人「話というのはね、お前もそろそろ結婚を考えた方がいい年頃だということだよ」
菊、驚いた顔になる。
菊「結婚など、まだまだ早うございます」
須田夫人「何をお言いだい。二十歳を超えたら十分年増ですよ。あと数年したら行かず後家です。せっかく養女にしたお前を行かず後家にはさせないよ」
菊、無言でうなだれる。
須田夫人「で、お相手だがね、お前も良く知っている人だよ」
菊の顔に、一抹の希望の色と、まさかそんな奇跡はあるまいという不安が浮かぶ。
須田夫人「ほら、うちによく来る、鳥居さんだよ」
菊の顔に絶望の色が浮かび、うなだれる。
須田夫人「おや、お嫌かい? そりゃああの人は、年はいっているけど、今でもなかなかの好男子だし、先生と人から呼ばれる、いわゆるインテリさね。不満を言ったらバチが当たるよ。それでも、お前、まさか好きな人でもいるんじゃないだろうね」
菊、顔を横に振る。
須田夫人「相手の年が気になるようだけど、これくらいの年の差は世間でよくあることさ。それにお前くらいのネンネには、人生経験の豊かな人のほうがいいのだよ。持参金はもちろん、私が出すし、結婚祝いに新築の家でも建てさせてあげるよ」
菊「恐れ多いことです。そこまでしていただくのは、心苦しゅうございます」
須田夫人「なら、承知だね」
菊「あまりにも急な話で、頭が混乱して。少し考えさせていただいてよろしいでしょうか」
須田夫人「まあ、考えるまでもないことだけど、お前がそれで気が落ち着くならゆっくり考えればいいさ。私としては明日にでもあちら側に話をしに行こうと思っているんだよ」
菊「済みません。部屋で考えてみます」
須田「いいよ。話はそれだけだ。ああ、銀三郎はお出かけかい?」
菊「はい。先ほど馬で」
・葉の大半が落ちたカラマツの林を馬に乗った銀三郎が行く。
・前方に小さな洋館が見えた時、林の間からひとりの男が銀三郎の馬の前に出て来る。
・馬を止める銀三郎。相手が浮浪者風の男だと見て不愉快そうな顔になる。
男(懲役人藤田)「へへへ、少しお待ちを、須田子爵様」
銀三郎「何だ、お前は」
藤田「名乗るほどの者ではございませんが、藤田と申すケチな野郎で」
銀三郎「藤田? 覚えがあるぞ。うちの小作人だったが、何かの罪で懲役刑になった男だな」
藤田「はい、よくご記憶で。その節はご迷惑をかけました。しかし、刑期も明けて、こうして戻ってきた次第で」
銀三郎「俺に何の用だ」
藤田「へへ、何しろ、懲役帰りだと、仕事を探すのも大変でして、少しお恵みいただけたらと思うんですよ」
銀三郎「カネか。今はさほど持っていない」
藤田「どれほどでも結構で」
銀三郎、懐から小銭入れを出し、そのまま相手に投げる。
藤田「さすがに気前がよろしくていらっしゃる。これで失礼しますが、もし私のような男が必要なら、いつでもお声をかけてください。たいていすぐ近くの炭小屋におりますから」
藤田は林の間に姿を消す。何か考えるように見送る銀三郎。
(このシーンはここまで)
・同じ夜、かなり遅い時間。桐井と佐藤の下宿の前の道。
・酔いつぶれた田端兄を富士谷と栗谷が肩で支えて歩かせてこちらに向かってくる。その後ろから兵頭(着物姿)がシガーを吹かしながら悠然と歩いてくる。
富士谷「そう言えば、ここが佐藤と桐井のいる下宿ですよ」
兵頭「まだ明かりのついている窓があるな」
栗谷「たぶん、桐井の部屋でしょう。あいつは、夜はほとんど起きているという話です」
兵頭「勉強家なのか?」
栗谷「いや、歩きまわりながら、一晩中考え事をしているらしいです」
兵頭「それは面白そうだ。訪ねてみよう。君たちはそいつを宿に送り届けてくれ」(シガーを地に捨て、下駄で踏み消す)
玄関のガラス戸を叩く。
しばらくして、中から「誰だい、こんな時間に」と不機嫌そうな声がする。
兵頭「桐井君に至急の用だ。須田伯爵家からの使いだ」
・桐井の部屋の中、外からノックされる。
桐井「佐藤か?」(開ける。)
兵頭「失礼するよ、桐井君」(中に入ってくる。)
桐井「どなたですか。こんな夜中に」
兵頭「兵頭栄三という者だが、社会主義者の君なら私の名前は知っているだろう?」
桐井「ああ、アナーキストの。私はもう社会主義者じゃありませんよ」
兵頭「どうして社会主義者をやめたんだね」(勝手に、机の前の椅子に座る)
桐井「社会のことなどどうでもよくなったからです」
兵頭「自殺すると決めたからかい?」
桐井「自殺? 誰から聞いたんです?」
兵頭「まあ、そんなのはいいじゃないか。後学のために君の自殺論を聞かせてもらいたいね。僕の聞いたところでは、絶対の自由の証明は自殺だ、という論のようじゃないか」
桐井「そうです。それで終わりです。さあ、お帰りください」
兵頭「なぜ自殺が絶対の自由の証明になるんだい?」
桐井(面倒くさそうに)「神が存在すれば、人間は神の命令を聞くしかない、つまり神の奴隷であり、自由は無い。自殺することで、人間は自分が自由意思があり、神の奴隷でないことを証明できる。QED。はい、御帰りください」
兵頭「まるで証明になっていないとしか思えないな」
桐井「あなたはなぜアナーキストなんですか。アナーキズムの理屈を僕に説明できますか」
兵頭「君と根っこは同じさ。絶対の自由がほしいからだ。ただ、君のように神だとか何だとかには僕はまったく興味がない。神がいたとしても、神はこの世に関与していない。善悪も道徳も法律もすべて人間が作ったもので、それは人間を縛るものだ。その基盤が国家であり政府だ。つまり、国家や政府は人間から自由を奪う存在だ。ゆえに僕は無政府主義を主張する。QED」
桐井「あなたは法律や道徳をすべて破壊したいと?」
兵頭「極端に言えばね」
桐井「野獣のように力だけが支配する世界を作りたいと?」
兵頭「そうとも言える。政府や国家に陰険に縛られた世界より僕はそのほうが好きだ。何も闘争だけしなくても、穏健に話し合いで社会が作れるさ」
桐井「僕よりあなたのほうがはるかに夢想家だ」
兵頭「同じく自由を求めても、君は自分を破壊し、僕は社会を破壊する。それだけの違いさ」
桐井「まあ、警察に捕まらないように気をつけることです。さあ、お休みなさい」
兵頭「また議論したいものだね。もっと時間をかけて真剣にな」
桐井「これで十分です。あなたの考えはだいたい理解できたつもりです」
兵頭「そうか。ところで、君は須田銀三郎とは知り合いなのだろう?」
桐井(黙っている)
兵頭「須田銀三郎が田端という男に何か弱みを握られているという話は知らないか?」
桐井「どうしてです?」
兵頭「いや、田端が分不相応なカネを持っていて、それが須田銀三郎から出たカネらしいんだ。須田が田端にカネをやった理由が知りたい」
桐井「僕は知りませんね。興味もない」
兵頭「そうか。夜分お邪魔した。今日はこれで失礼しよう。SEE YOU AGAIN」(人好きのする笑顔。椅子から立ち上がる。)
桐井「もう来なくていいですよ」
・兵頭を送り出す。
(このシーン終わり)
とりあえず、
1:人間存在が何かに縛られていること、つまり「絶対自由」の存在でないことへの不快感。
2:「絶対自由」の証明は自殺であること。
3:自分の意思で自分をこの世界から消すことで、自分は単なる神の被造物でないことを証明する。
4:自分が仮に神の被造物なら、自分は神に従うだけの存在であり、どこにも自由は無い。
5:神が人間に自由を与えたなら、自殺の自由も与えたはずである。
6:人間は神の奴隷ではない。神と対峙できる存在である。つまり、個々の人間が神と同格である。
7:世界を否定することが自殺であるが、世界を肯定するがゆえに自殺できないとしたら、その人間は縛られた存在である。
8:ゆえに、絶対自由の証明は自殺できることである。
9:問題は、この証明は命を懸けてしかできないことである。偉大な勇者で、偉大な馬鹿にしかできない行為である。
10:自殺はひとつの世界を消滅させることであり、それは神と対等になることである。
11:何者かからの逃避としての自殺は、卑小な自殺であり、軽蔑されるべきである。
要は、
1:神は存在するか
2:存在するなら、それはどのような神だと知りえるか。
3:神が存在しないなら、倫理は単なる便宜でしかなく、すべては許される。
4:神が存在するなら、人間はそれに従うしかない、奴隷になる。
5:神が存在した場合、自分が神の奴隷でないことを証明するには自殺するべきである。
6:つまり、絶対の自由は自殺によって得られる。
兵頭栄三は、この論に対して、「愚論、あるいはキチガイの理論だ」としか思わない。彼は徹底的に現世を肯定し、神の存在の有無など問題にしないからである。彼の敵は現世で自分を抑圧する存在、国家や政府であり、世界そのものは肯定している。六郎の自殺論は、闘いから逃げているだけの詭弁だ、とする。「完全な自由を得たい」という志向においては、六郎と同じだ、と考える。だが、方向としては、「自分自身の絶対否定(自殺)」と「自分自身の絶対肯定(社会を否定し、改革に立ち上がる)」は正反対だ、とする。兵頭における「自由の追求」は、「法律や倫理道徳という束縛の否定」であり、「あらゆる行為を闘争のためには正当とする」姿勢となる。これが彼のアナーキズムである。
・曇り空の下、その通りを歩く佐藤富士夫と桐井六郎。
佐藤「何で田端なんかを訪ねるんだ? 俺はあいつが大嫌いなんだが」
桐井「それは俺も同じさ。会いたいのは妹のほうだ」
佐藤「妹? あの、ビッコのキチガイ女か?」
桐井「まあ、頭は少し狂っているがな。天使のように善良な女だ」
佐藤「あの兄の妹だぞ」
桐井「だから気が狂ったのだろう。まともでは、この世の中で生きていけない。それに、田端がなぜ突然この町に来たのか、知りたい。銀三郎の帰国と関係がありそうだ」
佐藤「いつでも死ぬ気でいるわりには好奇心もあるんだな」
桐井「俺は、田端ではなくその妹に興味があるのさ。キチガイから見たこの世界がどんなものか知りたい。銀三郎のような男から見てこの世界で生きることがどんなかも知りたい。好奇心の有無と、生死への執着は別の話だ」
・みすぼらしい木賃宿の前でふたりは立ち止まる。
桐井「ここだな」(ふたり、中に入る。)
・田端兄妹の泊まっている部屋。桐井がノックする。返事は無い。構わず、ドアを開ける。
・部屋の奥の窓の張り出しに田端の妹が腰かけている。貧しい服を着ていて、化粧が調子はずれだが、眼が非常に無邪気で美しい。微笑をたたえてふたりを見るが、この微笑はほとんどいつも彼女の顔に浮かんでいる。
桐井「お邪魔するよ」
麻里江、無言で微笑のままうなずく。
桐井「お兄さんはいないのか」
麻里江「外をうろついているわ」
桐井「久しぶりだね。変わりはないか」
麻里江「何かあったかしら。あ、そうそう、私、結婚したみたい」
桐井「結婚?」
麻里江「あら、あれは夢だったのかしら。夢でもいいわ。とても素敵な人。赤ちゃんも生んだような気がするわ。とても可愛い赤ちゃんよ。でも、その赤ちゃん、どこへ行ったのかしら」
佐藤「このことかな?」(足元に落ちていた人形を拾い上げる)
麻里江「その子も可愛いけど、私の赤ちゃんはもっと可愛いの。でも、夢でしか会えない。旦那様とも一度しか会っていない。どんな顔だったかも忘れたけど、とても素敵な人だった」
佐藤と桐井、顔を見合わせる。或る疑念が心に浮かぶが、それが本当とはとても思えない様子。
桐井「何か困っていることは無いかい。お金とか」
麻里江「何も困っていないわ」
桐井「お兄さんからぶたれたりしないか」
麻里江「あんな奴、何でもないわ。私をぶてるもんですか。臆病者の癖にいつも威張っているだけよ。あの人の前では揉み手をしてペコペコするだけよ」
佐藤「あの人って?」
麻里江「さあ、誰かしら。誰か、夢の中で見た人よ」
桐井「君の旦那さん?」
麻里江「そうかもしれない。でも、どうせ夢だと思うわ。私、いろんな夢を見るの。赤ちゃんの夢が一番好き。でも、その赤ちゃんはどこにいるのだろう」
麻里江、ふたりの客を忘れたように窓の外の空を眺め、白昼夢に戻った様子。曇り空から一筋の光が落ちて、彼女を浮かび上がらせる。
ふたりはその彼女を無言で眺めているが、その女の姿は絵のようにも見える。
(インサートショット:夜、安酒場で見苦しく酔いどれる田端兄の姿。「カネならいくらでもあるぞ。俺を馬鹿にすんなよ」それを離れた席から眺める兵頭と富士谷、栗谷の姿。席から立ち上がって、田端の席に行く。「お兄さん、ご機嫌だねえ。一緒に飲まないか」)
(このシーン終わり)
須田夫人「昨日の騒ぎは何だったの?」
銀三郎「つまらん話ですよ。説明する価値もない」
須田夫人「あの佐藤という青年は昔うちの使用人だった者の子供ですよ。華族であるあなたが平民に顔を殴られて抵抗もしないなんて恥ずかしいじゃないですか」
銀三郎「あの場で取っ組み合いでもしろと?」(冷笑する。)
須田夫人「警察に言って捕まえさせましょうか?」
銀三郎「不要です。それくらいならあの場で殴り返しましたよ。あの程度の虫けらをひねり潰すのは容易です」
須田夫人黙り込む。
居間の入り口に菊が現れる。
菊「よろしいでしょうか」
須田夫人「ああ、いいよ。お兄さんのことかい?」
菊「はい。昨日は兄がとんでもないことをいたしまして、お詫びのしようもございません」(頭を深々と下げる。)
銀三郎「気にしないでいい。お前とは関係の無いことだ」
菊「何か私から兄に申しておきましょうか?」
銀三郎「いや、何も言わんでいい。これはあいつと僕の間の話だ」(菊に微笑する。)
菊はその顔に安心した表情を浮かべる。が、それだけではない何かがその下にある。
須田夫人の心に疑惑が浮かぶ。
須田夫人「菊や、お茶のお替りを持ってきてくれるかい」
菊「はい、承知しました」
菊、部屋を出ていく。
須田夫人、銀三郎に鎌をかける。
須田夫人「あの子も年頃になったねえ。いつも近くにいるから気づかなかった」
銀三郎(無関心のまま)「そうですね」
須田夫人「そろそろ嫁入り先でも探してやらないとね」
銀三郎「そうですね」
須田夫人「昨日、お前に会わせた鳥居という人がいるだろう。あの人なんかどうかね」
銀三郎「(?)かなりな年配に見えましたが?」
須田夫人「年は関係ないさ。女として落ち着き先が決まればいいだけだし、大人しい男だから、嫁をいじめたりはしないだろうよ。まあ、持参金はこちらが出すことにして」(銀三郎の顔色を伺うが、相手は特に表情の変化は無い)
銀三郎「まあ、悪くは無いんじゃないですか。僕にはよく分からない話だが」
須田夫人「それじゃあ、鳥居さんにそう話してみるよ」
銀三郎は自分には関係の無い話だ、というように軽く肩をすくめるしぐさをする。
・ドアがノックされる。
須田夫人「お入り」
戸口にこの家の執事が現れ、一礼する。
執事「玄関に、銀三郎様にお目にかかりたいという方がいらっしています」
銀三郎「何と言う人だ?」
執事「はい、田端退役大尉と名乗っていますが、どう致しましょうか」
銀三郎、少し眉をひそめるが、すぐに
銀三郎「会おう。僕の部屋に通せ」
(このシーン終わり)