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どうでもいい、些細な話なのだが、評論文の中に突然「伝法な口調」を混ぜる、というのは吉本隆明がエッセイでよく使う語法というか、文体なのだが、「紙谷研究所」のこの

「~と熊沢蕃山が言っているぜ」(と森は小説で記している。)

が、それを想起させて気持ち悪い。最近、時々紙谷氏はこの文体を使うようだ。
私自身は紙谷氏の頭脳や知識を高く評価する者だし、その判断はだいたい真っ当だと思う。
しかし、この文体は大嫌いだ。森鴎外がこんな下品な文章を書くわけはない。では、ここでこういう口調にした理由、あるいは心理はどんなものだろうか。それは吉本隆明がこういう口調を使う理由と同じだろうか。吉本の場合(私は吉本の使い方も大嫌いなのだが)は、「江戸っ子を気取る」カッコ付けだろうと思うのだが、紙谷氏は江戸っ子なのか。それとも吉本の真似か。

(以下引用)


 最近読んだ森鴎外の小説で、森と思われる主人公が日常の小さな仕事を自分の本来やるべき大きな仕事ではないと考えるのに対して、やはり医師である父が日常の仕事に真剣に向き合っている様を見て、父を尊敬し直すというくだりがある。

父の平生を考えて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。(森鴎外カズイスチカ」/『山椒大夫高瀬舟』所収、KindleNo.364-366)

 日常の与えられた仕事に向き合うことが、実は「天下国家の仕事」に通じるものだと熊沢蕃山が言っているぜ、と森は小説で記している。

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あさりよしとおのツィートで、作者側の注意点だろうが、映画などの「見せ方」も同様だろう。アクション映画などで、誰が何をやっているのか分からない、という映画(漫画も同じ)がある。黒澤明の映画のアクションではそういうことがほとんど無い。しかも画面構図がどの場面でも素晴らしい。
推理小説の「密室物」「謎の館物」などだと最初に事件現場の見取り図などが提出されるが、それがほとんど無意味な場合が多いと感じる。

(以下引用)

船など限定された世界が舞台になる場合、まず全体をうろついて、全体と各部を把握させる。
自分の頭の中で、それらを細部まで作ってあるつもりでも、外に出して他人がそれを認識してからがなんぼのもの。
その辺上手くやっている作品を見ると、自作の事がフラッシュバックして、毎度冷汗が出る。
「笑いの考察」は、創作活動の上で必須に近いものだと私は思っているので、参考までに「紙谷研究所」から記事の一部を転載する。もちろん、筒井のこの文章はずっと昔に読んでいるが、下の引用記事のほうが正確だろう。
「風刺」で笑うというのは、「権威が攻撃されているのが気持ちいい」という快感、ある意味では下品な精神のためだろう。嫌いな人間がいじめられているのを傍観する小学生の心理だ。ただ、いじめは弱者が対象だが風刺は強者が対象であるという違いである。
だが「パロディ」はたとえば「提灯に釣り鐘」という対比に似ている。対比そのものから生まれる「頭脳の浮遊感覚」を楽しむのである。べつに提灯にも釣り鐘にも畏怖や軽蔑の気持ちを持つ必要は無い。単に「似た形のものが、同じように『ぶら下がっている』こと」を発見した喜びである。つまり、科学者の発見の喜び、あるいはその発見を知って知識が増える喜びに近い。風刺とパロディどちらが高級な精神であるかは自明だろう。
もちろん、風刺が無用だとか無意味ということではない。昔から笑いは敵を攻撃する武器でもあったのである。スィフトのように、人間存在そのものを風刺の対象として冷然と切り捨てた巨大な風刺家は、最大級の哲学者以上の知性である。



(以下引用)

 筒井康隆の風刺・パロディ論争を思い出す(「笑いの理由」/筒井『やつあたり文化論』、新潮文庫所収)。

 最近「差別語」論争について振り返る機会があって久々に読み返していたために、記憶に残るところがあったのだ。

 

 

 筒井は風刺とパロディを区別して、パロディにおいて「原典の本質を理解していない」という批判を厳しく批判する。

なぜかというと、原典の本質を衝いているというだけでは創造性に乏しいことがあきらかで、ある程度以上の文学的価値は望めない。そこで途中から原典をはなれ、その作品独自の世界を追求したり、自分の主張をきわ立たせるために原典を利用する、などというパロディもあらわれた。パロディの自立である。(筒井前掲書KindleNo.3035-3038)

 そして筒井自身の作品について触れ、原典の本質とも細部ともかかわりなく、「むしろ遊離している」とさえ主張する。「原典の本質理解」に拘泥することを、衒学趣味、悪しき教養主義だとするのである。

 他方で、風刺についても述べる。

 筒井は、笑いにおける精神的死の典型は、大新聞社の紙面を飾る1コマ風刺マンガだとする。実際に「面白くもおかしくもない」とのべ、「時にはカリカチュアライズした似顔絵だけの漫画」などとこき下ろす。このようなものを新聞社がありがたがる理由について、笑いの中核には「現代に対する鋭い風刺」が必ずなければならないという貧しい信念が大新聞社的良識があるからだ、とした。“チャップリンの方が、マルクス兄弟よりも高級だ”という風潮をあげながらこう述べる。

なぜこういう誤解があったかというと、常識の鎧を身にまとった人間というものは、笑う際にも意味を求め、意味のある漫画しか理解できない傾向があり、これはあの事件のもじりであろうとか、なるほどあのひとは誇張すればこんな鼻をしているとか、そういった卑近な連想によってのみ笑う(筒井前掲書KindleNo.2853-2856)

 対比的に筒井は、自らの「ドタバタ喜劇」の目指すものを、人間の意識の解放、常識の破壊、想像力の可能性の追求などとしている。

私は高橋留美子のファンで、彼女を高く評価する者ではあるが、彼女の長編作品は、「めぞん一刻」を例外として、ほとんどはパターンの繰り返しだけで長く書き続けた印象がある。それで一定水準の面白さを維持できたのだから凄い才能だが、彼女を萩尾望都や山岸凉子や大島弓子ほどは高く評価はしない。まあ、比較するなら美内すずえに近いタイプだろう。
で、ここで論じるというか、考察するのは高橋留美子の「ユーモアのパターン」である。
簡単に言えば、彼女のユーモアは、キャラクターの「化けの皮が剥がれる」こと、つまりキャラクターが「そう見せたい自分」の化けの皮が剥がれて「現実のキャラ」の本質が暴露され、その「失敗による笑い」である。脇役キャラの中には毎回この失敗をする者もたくさんいる。老人キャラや子供キャラに多いが、「一見二枚目青年」や「一見強面キャラ」もその化けの皮を剥がれて笑いの対象になる。その点、「美少女キャラ」はその失敗があまり無いようだ。むしろ、女性キャラは男性キャラの「実際の姿」を見抜いて、それをちゃっかり利用する「現実主義者」が多い。
ここで、アニメ「サイ(字が面倒なのでカタカナにする)木楠夫のサイ難」の笑いと比較するが、このアニメでは外面的行為と内心の違いが即座に視聴者に分かる描写になっていて、即時的に笑いになる。つまり「化けの皮」が剥がれる必要は無い。そういう外面と内面の食い違いがあるキャラは当然失敗することが多く、その点でも「失敗による笑い」はあるが、それは特に「化けの皮が剥がれる」ことによる笑いというものではない。まあ、失敗というものは滑ったり転んだりでも笑いを生むのである。つまり、意外な事態による「人間の威厳の喪失」は笑いを生む。
それは、我々が「体面」や「自尊心」「虚栄心」に常に縛り付けられた生活を送っていることから、そうした失敗をする人間の心情(屈辱感)がよく分かり、それと同時に「あいつ、あんな失敗をしやがって」と意地悪な快感を覚えるからだろう。
もちろん、笑いには別の笑いもあるだろうが、ほとんどは「威厳の喪失」による笑いではないか。
ダグラスはそこで沈黙し、黙って赤い表紙のノートを閉じた。
「それで話は終わりかい?」
わたしは、たぶんそうだろうと思いながら聞いてみた。
「そうだ。彼女のノートはここで終わっている」
「では、その後、彼女がどうなったか、君は知らないんだな?」
ダグラスはまた黙り込んだが、やがて苦痛の色を顔に浮かべて言った。
「彼女は手紙一通で雇い主から解雇され、その屋敷を離れたらしい」
「マイルズの死についての責任は問われなかったのかい?」
「まあ、そうだ。死体には外傷は無かったから、心臓麻痺か何かだろうと診断されたという話だ」
「と言うと、君は彼女からその出来事について、いくらかは聞いていたのかい?」
「いや、それは彼女の死後に僕が少し調べたことだが、それ以上のことは知らない」
「まったく怖いお話ねえ。これまで聞いた怪談の中で一番怖かったわ」
その場にいたご婦人のひとりがいかにも怖がったような顔と声で言った。
「しかも、それが実話なんでしょう?」
もうひとりのご婦人が言った。
「まさか、幽霊が実在するはずはありませんわ」
もうひとりの、議論好きなところをこの集まりでしばしば見せていたご婦人が言った。
「だって、その『幽霊』を見たのは彼女ひとりなんでしょう?」
「だからこそ怖いんじゃない。自分にだけ幽霊が見えて、他の人には見えない。自分の言うことを誰にも信じてもらえない。こんな怖いことってある?」
「なるほど、それも一種の怪談ですな」
グリフィンが如才なく口を挟んだ。
「では、あなたは彼女が見た幽霊は何だったとお思いですか?」
私は議論好きなご婦人に言った。
「もちろん、彼女のヒステリーよ」
「要するに、彼女は幻覚を見たので、それは幽霊でも何でもなく、彼女の心が作り出したものだと?」
「決まってるわ。だって、そのノートに書いてあることは、すべて彼女の立場からしか書いていないじゃないですか。もしかしたら、彼女は自分が嘘をついているという意識も無しに、嘘を書いていたかもしれないでしょう。あら、ダグラスさん、御免なさい」
ダグラスは苦笑した。
「いや、かまいません。僕自身、そのノートを読んで、しばしばそうではないか、という疑問を持ちましたから。しかし、僕が会った彼女は誠実そのものの、嘘はつかない人でした」
「そこが問題なんだろうな。世の中には、自分が嘘をついているという意識も無しに嘘をついてしまうことはあるもんだ」
グリフィンが言った。
「まあ、今となってはすべては闇の中だ。僕は、このノートを読んだことを後悔している」
「君と彼女の美しい思い出を汚したと?」
私はダグラスの沈鬱な顔を気遣って言った。
「過去を掘り返すことは、美しい湖の底の泥をかき回すこともあるようだ」
ダグラスはそう言って、窓の外に目をやった。
ダグラスが(まだ60代だったが)重い病にかかって亡くなったのは、それからわずか一年後だった。

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