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とあるブログから引用。木綿も無いのに帆があるはずがない、というのは盲点だった。筵(むしろ)を帆にするのは小舟では可能でも大船には無理だろう。

古代の大海戦 白村江の軍船は?

古代の大海戦 白村江の軍船は?_c0041039_1750745.jpg 「日本と朝鮮半島の2000年」というテレビ番組で古代の朝鮮半島で起こった大海戦「白村江の戦い」の場面に出てくる軍船のCGが気になっていた。

 そんな時、神戸市立博物館で《東アジアから神戸 海の回廊=古代・中世の交流と美》という海や船に関わる展覧会が開催されていたので見学してきた。

 しかし、古代船の記録はなく、古墳などから出土される埴輪や遺物に描かれた船の絵から想像するしかない。

 日本列島では古墳時代から活発になる中国・朝鮮半島との交流に欠かせなかった船が、大阪・奈良を中心にした中小規模の古墳から船形埴輪としてよく出土されている。そしてこれらの古墳の主はヤマト王権中枢に近い実務型の豪族ではないかと考えられている。朝鮮半島・中国との交渉窓口であり時には遠征用の軍船をだす役割も担ったのかもしれないという。

古代の大海戦 白村江の軍船は?_c0041039_14455033.jpg 左画像(1)の埴輪は大阪・長原高廻り2号墳出土の船形埴輪だ。船底部は丸太の刳舟で舷側板を組み上げて2層になって船首と船尾を竪板でふさいで耐航性や積載能力を増やす工夫をしている。

 平成元年に大阪市は考古学・船舶工学など関連学者を動員して可能な限りこの船形埴輪に忠実に準構造船を復元した。この埴輪の櫂をこぐ支点の間隔から船底部の長さを12mと割り出し、寸法比(L/W)と用材から幅を2mと決めたそうだ。

 また、画像(2)西都原古墳からはゴンドラタイプの船形埴輪も出土している。大きな楠材が豊富に取れた古代では船底部は長さ20mで幅2mは充分あったと思われます。ことによると長さ30m、幅3mの可能性もあったと思われる。ゴンドラタイプは古墳時代後期、6世紀にはこちらの方が多くなってきたようだ。どちらの船形埴輪には帆走のための帆柱はなく漕走が主であったのだろう。

 これらの古墳が造られた5~6世紀から百数十年後の飛鳥時代。

 661年、中大兄皇子が滅亡した百済の再興の為の援軍を朝鮮半島に送ることになり北九州から、そして瀬戸内・難波の海からも大勢の兵士を乗せた軍船が朝鮮に向かった。

■第一派:661年5月出発。1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫。豊璋王を護送する先遣隊。
■第二派:662年3月出発。2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
■第三派:1万余人。指揮官は廬原君。(出展:ウィキペディア)

 663年8月、戦場になった朝鮮半島西岸、白村江(はくそんこう)には待ち受ける唐と新羅連合軍の大型軍船170隻、兵力1万2千人。一方倭国軍は軍船800隻、兵力4万余人と圧倒的な兵力で激突したが、たった2日間の戦闘で、倭軍は軍船の半分400隻と兵1万人を失い大敗北したとなっているが、倭軍がどんな軍船で闘ったのか興味があるので少し想像してみる。

古代の大海戦 白村江の軍船は?_c0041039_1448204.jpg テレビのCG(左)は倭軍の軍船は船形埴輪(1)タイプで2層式の準構造船が帆柱に白い帆を揚げて進んでいるものである。波の大きさからみると船の長さは20mはありそうだ。しかし倭国水軍は800隻とかなりの船は集めたが、これほどの船は少く、殆どはもっと小さい運送船のような船だったという説もある。それに、櫂で漕いでいたのにCGにはマストがあり、木綿もないのに白い帆なんて考えられないなあ。

古代の大海戦 白村江の軍船は?_c0041039_15111756.jpg それでも追風の時は風を利用していたとするならば右の画像のように両舷に帆柱を立て、その間に「むしろ帆」を揚げていたかもしれない。
(右画像は江戸時代にアイヌ民族が用いた舟)

 大海戦なので旗艦にはジャンク型の遣唐使船のような構造船がいて指揮をとっていたと考えたいが、倭国にはまだそのような渡海船の建造能力はなかっただろう。
 しかし、白村江の戦いの前に倭国は遣唐使船を派遣しているが、それは航海が易しい北路をとっているので準構造船でも充分航海できたはずだ。それに対して、大きく版図を広げようとしていた唐はすでに外征用の大型渡海船を多数持っていたといわれている。

【参考Web】1:白村江の戦い 『ウィキペディア(Wikipedia)』
【参考Web】2:神戸市立博物館 特別展「海の回廊」 
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新羅による半島統一は、ある意味唐に対する「二枚舌」の勝利であり、英国の外交戦略とよく似ている。
なお、私が疑問に思っていたこの当時の軍船の乗員数というか、積載能力だが、60人程度と見てよさそうだ。問題は、動力だが、帆船だったのか、櫓や櫂で漕いだのか不明だ。まあ、櫓ではないだろう。昔のローマの軍船のような多重櫂だったのではないか。

(以下引用)

倭国による百済救援[編集]

百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋を擁立しようと、倭国に救援を要請した。

中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。

661年、斉明天皇は自ら九州へ出兵するも那の津にて急死した(暗殺説あり[要追加記述])。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。

だがこの時点で、百済陣営は全く統率が取れていなかった。豊璋は戦乱への自覚が足らず、黒歯常之ら将は当初から豊璋を侮る状態であった。道琛は鬼室福信によって殺害され、鬼室福信は豊璋によって殺害された。

軍事力[編集]

唐・新羅連合軍[編集]

総兵力は不明であるが、森公章は総数不明として、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと推定している[12]。また唐軍は百済の役の際よりも増強したともされる[3]。当時の唐は四方で諸民族を征服しており、その勢力圏は広かった。この時参加した唐の水軍も、その主力は靺鞨で構成されていたという。

水軍

水軍7,000名、170余隻の水軍。指揮官は劉仁軌杜爽、元百済太子の扶余隆

陸軍

不明。陸軍指揮官は孫仁師劉仁願、新羅王の金法敏(文武王)。

倭国軍[編集]

戦いの経過[編集]

661年5月、第一派倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人だった。

662年3月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。

663年天智2年)、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。

百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍7,000名を派遣した。唐・新羅軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁願及び新羅王の金法敏(文武王)が指揮した。劉仁軌、杜爽及び元百済太子の扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃した。

一方の大和朝廷側は強力な権限を持った統一指揮官が不在であり、作戦も杜撰であった。唐と比較して対外戦争経験も乏しく、加えて全体兵力も劣っていた。前述されたように、百済側の人員も意思統一が全くされておらず、この時点で内紛を起こしているような状態であった。

海上戦[編集]

倭国・百済連合軍は、福信殺害事件の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、663年8月28日、唐・新羅水軍に大敗した。

この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めてずさんなものであった(『日本書紀』)。

陸上戦[編集]

同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊した。

白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上した。九州の豪族である筑紫君薩夜麻土師富杼氷老大伴部博麻が唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許された、との記録がある。

白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。

援軍が近づくと豊璋は城兵らを見捨てて拠点であった周留城から脱出し、8月13日に大和朝廷軍に合流したが、敗色が濃くなるとここも脱出し、数人の従者と共に高句麗に亡命した。

戦後の朝鮮半島と倭国[編集]

唐側の勝利に終わった白村江の戦いは、中国史上屈指の大国として歴史に名を残した統一王朝である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる過程の中で起きた戦役であるといえる。以下、朝鮮半島および倭国における戦後の状況について解説する。

朝鮮半島[編集]

高句麗の滅亡[編集]

白村江の戦いと並行し、朝鮮半島北部では唐が666年から高句麗へ侵攻(唐の高句麗出兵)しており、3度の攻勢によって668年に滅ぼし安東都護府を置いた。白村江の戦いで国を失った百済の豊璋王は、高句麗へ亡命していたが、捕らえられ幽閉された。高句麗の滅亡により、東アジアで唐に敵対するのは倭国のみとなった[20]

渤海の建国[編集]

698年靺鞨粟末部は高句麗遺民などと共に満州南部で渤海国を建国した。建国当初は唐と対立していたものの、後に唐から冊封を受け臣従するに至った。また日本は新羅との関係が悪化する中で、渤海からの朝貢を受ける形で遣渤海使をおこなうなど、渤海とは新潟北陸などの日本海側沿岸での交流を深めていった。

新羅による半島統一[編集]

戦後、唐は百済・高句麗の故地に羈縻州を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示した。新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた。670年、唐が西域で吐蕃と戦っている隙に、新羅は友好国である唐の熊津都督府を襲撃し、唐の官吏を多数殺害した。[要出典]他方で唐へ使節を送って降伏を願い出るなど、硬軟両用で唐と対峙した。何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の清川江以南の領土を新羅に管理させるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一(現在の朝鮮半島の大部分)がなされた。





壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[注釈 1])に起こった古代日本最大の内乱である。

天智天皇の太子・大友皇子(1870年明治3年)に弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱であった。

名称の由来は、天武天皇元年が干支壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。

乱の経過[編集]

660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子に立てていたが、天智天皇10年10月17日671年11月23日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、自ら出家を申し出て、吉野宮(現在の奈良県吉野町)に下った。そして天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れたとされる。

12月3日(672年1月7日)、近江宮の近隣山科において天智天皇が46歳で崩御した。大友皇子が後継者としてその跡を継ぐが、年齢はまだ24歳に過ぎなかった。大海人皇子は天武天皇元年6月24日7月24日)に吉野を出立した。まず、名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司は出兵を拒否した。大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族の信を得ることに成功した。続いて伊賀に入り、ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が兵約500で参戦した。そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で長男の高市皇子の軍と合流した(鈴鹿関で合流したとする説もある)。この時、大海人皇子は近江朝廷における左右大臣と御史大夫による合議のことを述べているが、大海人皇子は近江朝廷が既に破綻していたことを把握していたと考えられる[1]。さらに伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ向かった。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子は東海道東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は7月2日7月31日)に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。

近江朝廷の大友皇子側は、天武元年(672年)6月26日には、大友皇子が群臣に方針を諮ったとあるが、近江朝廷の構成から考えて、その相手は左右の大臣と3人の御史大夫のみであり、既に大化前代以来のマヘツキミ合議体はその機能を完全に喪失していたと見られる[1]。群臣の中の4人の重臣(中臣金以外か)は、諸国に使節を派遣して農民兵を徴発するという、当時の地方支配体制の成熟度からは非現実的な方策を採択したことになる[1]。結局、東国と吉備筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。特に筑紫では、筑紫率栗隈王が外国に備えることを理由に出兵を断ったのだが、大友皇子はあらかじめ使者の佐伯男に、断られた時は栗隈王を暗殺するよう命じていた。が、栗隈王の子の美努王武家王が帯剣して傍にいたため、暗殺できなかった。それでも近江朝廷は、近い諸国から兵力を集めることができた。7月2日7月31日)には、近江朝廷の主力軍が不破に向けて進軍したことが見える。しかし、内紛を起こし、総帥的立場にあった山部王蘇我果安巨勢比等に殺され、果安も後に自殺した[1]。また、蘇我氏同族の来目塩籠は「河内国司守」として近江朝廷軍を率いていたものの、不破の大海人皇子軍に投降しようとして殺されている[1]

大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。この方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍はたびたび敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して、吹負の窮境を救った。

近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。大海人皇子方と近江方を区別するため「金」という合言葉を用いた。[2]村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は、7月7日8月8日)に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して箸墓での闘いでの勝利を経て進撃を続けた。7月22日8月20日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌7月23日8月21日)に大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。美濃での戦いの前に、高市郡に進軍の際、「高市社事代主身狭社に居る生霊神」が神懸り神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と言いそうすれば大海人皇子を護ると神託をなした。[2]翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。

近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。

また論功行賞と秩序回復のため、新たな制度の構築、すなわち服制の改定、八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。

乱の原因[編集]

壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。

皇位継承紛争[編集]

天智天皇は天智天皇として即位する前、中大兄皇子であったときに中臣鎌足らと謀り、乙巳の変といわれるクーデターを起こし、母である皇極天皇からの譲位を辞して軽皇子を推薦するが、その軽皇子が孝徳天皇として即位しその皇太子となるも、天皇よりも実権を握り続け、孝徳天皇を難波宮に残したまま皇族や臣下の者を引き連れ倭京に戻り、孝徳天皇は失意のまま崩御、その皇子である有間皇子も謀反の罪で処刑する。以上のように、中臣鎌足と少数のブレインのみを集めた「専制的権力核」を駆使して2人による専制支配を続けた結果、大友皇子の勢力基盤として頼みにすることができる藩屏が激減してしまった[1]。また天智天皇として即位したあとも、旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指すなど、かなり強引な手法で改革を進めた結果、同母弟である大海人皇子の不満を高めていった。当時の皇位継承では母親の血統や后妃の位も重視されており、長男ながら身分の低い側室の子である大友皇子の弱点となっていた。これらを背景として、大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、絶大な権力を誇った天智天皇の崩御とともに、それまでの反動から乱の発生へつながっていったとみられる。

白村江の敗戦[編集]

天智天皇は即位以前の663年に、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵し、新羅連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため天智天皇は、国防施設を玄界灘瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済遺民を東国へ移住させ、都を奈良盆地飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。しかしこれらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、大きな不満を生んだと考えられている。近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。また白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれたとの説もある。これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派遣があるが、大海人皇子が天武天皇として即位して以降、大宝律令が制定された後の文武天皇の世である702年まで遣唐使が行われていないことから推察される(ただし、国内問題だけでなく、白村江の戦いの結果、日唐関係を含めた外交関係が全体的に不振に陥ったことは念頭に置く必要がある)。

額田王をめぐる不和[編集]

天智天皇と大海人皇子の額田王(女性)をめぐる不和関係に原因を求める説もある。江戸時代伴信友は、『万葉集』に収録されている額田王の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推察した。

「世界史の窓」から転載。
私は蘇我氏が大和朝廷の財政を司っていたことから、蘇我氏は楽浪郡の官僚の家柄で、楽浪郡の滅亡の後、(途中経過はあっても)日本に移住して大和朝廷の官僚のトップになったのではないかと推理している。
「家」の知的水準はその家の歴史や、家伝の書の有無によるものだと思うからである。官僚の家系だから、官僚的な技能が受け継がれたわけだ。財務官僚に必須の計数技能など、家伝の教育のためだろう。
なお、中臣鎌子が蘇我物部戦で物部氏に味方していることから、中臣鎌足(鎌子)の出自については再考するべきだろう。まあ、百済系渡来人の家系であるとは思う。だから、中大兄皇子に百済ひいきの影響を与えたのだろう。


(以下「世界史の窓」から転載)

楽浪郡

漢の武帝が朝鮮半島に置いた直轄地である四郡の一つ。現在の平城付近に置かれ、漢・後漢・魏・晋の各王朝の朝鮮支配の拠点とされた。313年に高句麗によって滅ぼされた。

朝鮮・東夷伝

「東夷伝」による諸民族
黄色が郡県制支配が及んだ範囲
井上秀雄『古代朝鮮』p.57 をもとに作図

 衛氏朝鮮を滅ぼした漢の武帝は、前108年、その地に郡県制をしいて直接統治を行った。そのときおかれたのが楽浪郡、玄菟郡、臨屯郡、真番郡の四郡であるが、楽浪郡は現在の平壌付近に置かれた。他の三郡の位置ははっきりしないが、臨屯郡、真番郡はまもなく廃止され、玄菟郡もたびたびその管轄地域を変更しているのは、現地の朝鮮民族の抵抗があったためと考えられている。その後、楽浪郡が朝鮮半島支配の拠点として存続し、後漢でも継承された。
 楽浪郡のなかには行政区域として県が設けられ、郡には太守、県には令の役職があったが、いずれも漢人が任命された。楽浪郡は現在のピョンヤン(平壌)を中心に、直接的には朝鮮半島北西部を支配したが、その周辺の朝鮮系諸民族、北東の濊族や貊族(後の高句麗)、南の韓民族、さらに海を越えた倭(日本)からの朝貢使節なども受け入れ、漢の出先機関、あるいは漢文化のショーウィンドーの役割を担った。 → 平壌の項を参照

日本への影響

 前2世紀の末、漢の支配が朝鮮半島に及んだことは、当時弥生時代で農耕が始まり、国家の形成の段階に入っていた日本列島に大きな影響を与えた。『漢書』地理志に、「楽浪の海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以て来たり献見す」とあるのが日本人が中国の史書に現れる最初である。

帯方郡の設置

 3世紀の初め、遼東で独立政権となった公孫氏が、南半分を支配して帯方郡としたが、238年にはが公孫氏を滅ぼし、その支配を楽浪郡・帯方郡にも及ぼした。魏は帯方郡を東アジア支配の拠点とし、239年には邪馬台国の女王卑弥呼が帯方郡を通して魏に遣使したことが『魏志倭人伝』に記されている。

大陸情勢の変化

 魏はまもなく、司馬氏によってその帝位を奪われ(西晋)に交替する。晋はその後、265年に南方の呉を滅ぼして中国を統一、274年には中国東部から朝鮮北部にかけて、昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方の五郡を統治する平州を置いた。これによって東方諸族の馬韓・辰韓が晋に朝貢するようになった。
 しかし、晋は八王の乱の内紛によって混乱し、五胡といわれる北方民族が華北に進出し、311年には匈奴が都洛陽を占領するという永嘉の乱がおこり、華北は五胡十六国の動乱の時期となる。

楽浪郡の消滅

 このような情勢の中、朝鮮半島北部から満州にかけて有力であった高句麗が盛んに南下の勢いを示し、美川王は311年に遼東郡に出兵し、鴨緑江河口を占領、そのため中国本土と楽浪・帯方郡の連絡は絶ちきられた。
 高句麗の美川王は313年10月、楽浪郡を占領し、男女二千余人を捕虜にした。翌314年にはさらに帯方郡に侵入し、これを倒した。おそらく馬韓・弁韓なども帯方郡攻撃に加わっていたものと思われる。<井上秀雄『古代朝鮮』2004 講談社学術文庫 p.75-76>

楽浪郡・帯方郡滅亡後の東アジア

 楽浪郡・帯方郡が滅んだことは、中国の漢民族による朝鮮半島支配が終わったことを意味しており、東アジアの大きな変化をもたらした。まず、朝鮮南部の韓民族の馬韓・辰韓がそれぞれ統一されて百済新羅が成立、高句麗とともに三国時代を迎えることとなり、日本においても大和政権による統一が進み倭の五王の南朝への遣使が行われることとなる。
ⅴ キャラ設定

中大兄皇子:知能は高いが、思い込みが激しく、案外感情的。

大海人皇子:豪放に見えるが案外繊細な神経があり、勘がいい。

中臣鎌足:聖徳太子の処女妻が、兄の蝦夷との間に生んだ子供。山背大兄王の兄、入鹿の叔父に当たる。つまり、後世の藤原氏は蘇我氏本家の後裔になる。父の蝦夷や祖父の馬子を尊敬しているが、入鹿を嫌っている。

蘇我蝦夷:入鹿の所業と鎌足の処遇に困っている。
蘇我入鹿:蘇我家の馬鹿息子。

斉明天皇

孝徳天皇

額田王

豊璋

山背大兄王:聖徳太子(ホモ)の表向きの子だが、血のつながりはなく、馬鹿息子。
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