そして読者の脳内ライブラリーに頼って描写や説明が希薄化してゆくのは、そのジャンルが崩壊衰退してゆく予兆でもある。このへんは『倶楽部雑誌探究』巻末の小田光雄氏の文章など参照のこと。「繁華街」「絵に描いたような漁師の街」が「は、何これ?」と投げ出される日はそれほど遠くなく来るでしょう
「差分」とは「別バージョン」の意味
ゲームやアニメなどの業界では、「差分」はオリジナル作品から派生した別バージョンのことを指します。元となる作品の登場人物や構図は同じままでセリフを変えたり背景を変える差分や、構図は同じものの登場人物を変える差分、登場人物の衣装や髪形などを変えた差分など、さまざまな差分があります。
オリジナル作品に手を加えて新しい作品として作り出された作品のことも「差分」といいます。
「差分イラスト」とは原画にアレンジを加えたイラスト
「差分イラスト」とは元となる画像やイラストに変化を加えた画像のことです。
例えば、ある部屋の画像に朝から夕方などの時間の経過に合わせて変化をつけた画像を「時間帯差分」といいます。また家具などのものの配置を変えるパターンは「状態差分」と呼ばれます。
ジェネリク氏が小説に求めるのは何なのだろう。「描写」の無い小説は「説明」だけではないか。論文や教科書と何が違うのか
優れた作家の「描写力」は素晴らしいもので、たとえば江戸川乱歩のように通俗作家とされている人でも、「人でなしの恋」における女性の縁談から結婚、新婚生活での心理描写など、男の乱歩がなぜそこまで描けるのか、と驚嘆させられる。それに近いのが太宰治の「女生徒」の少女のモノローグだが、こちらは実は太宰が参考にした少女の日記があることを、北村薫がその作品の中で書いている。
国木田独歩など最近の人は読まないが、彼の「竹の木戸」や「窮死」における貧民生活とその庶民心理の描写、あるいは、「二老人」におけるふたりの老人の描写など、なぜ下層階級でもなく、若い独歩がこれほどありありと描けたのか、不思議なほどである。
唐沢なをきさんがリツイート
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唐沢なをきさんがリツイート
「読者の脳内ライブラリー」というのは、この人が馬鹿にする克明な描写があって形成されたもの。僕は現代アメリカ作家描くマフィアとギャンブルの世界が全くイメージできなくて読むのを断念したことがある。せいぜい映画のカジノしかイメージストックがなかったので、もうちょっと描写があればと思った
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唐沢なをきさんがリツイート
なぜ19世紀文学の描写や説明があんなに克明かというと、読者の側に知識もイメージもなく、映画も写真もなければ報道すら未発達で、唯一小説という媒体と作家の想像力だけが「世界」を描くことができたから。今メディアの進歩でその役割が薄くなったからといって簡単に放棄していいのかなぁとは思いますhttps://twitter.com/DividedSelf_94/status/1168937948684922881 …
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(以下引用)
エーテル (aether, ether, luminiferous aether)[1] とは、光の波動説において宇宙に満ちていると仮定されるもので、光が波動として伝搬するために必要な媒質を言う。ロバート・フックによって命名された。
特殊相対性理論と光量子仮説の登場などにより、エーテルは廃れた物理学理論だとされている[2]。
光の本性に関する研究の歴史[編集]
- 18世紀までの光の本性の研究
空間に何らかの物質が充満しているという考えは古くからあったものの、近代物理学においては17世紀のルネ・デカルトに始まる。
デカルトは、すべての空間には連続でいくらでも細かく分割できる微細物質がつまっており、あらゆる物理現象はその中に生じる渦運動として説明できると考えた(渦動説)[3]。カルテジアン(cartésien,デカルト主義者)と呼ばれる学派はそのようなデカルトの考えに基づく学派で、17世紀から18世紀にかけてのフランスで学界の主流を占めた[4]。
デカルトによれば、光とはその宇宙に満ちている微細物質中の縦波のような圧力である。ロバート・フックはこの考え方を受け継ぎ、デカルトの宇宙に満ちている微細物質をエーテル(aether, ether)と呼び、光とはエーテルの中を伝わる振動であるとした[5]。また、フックの考察と光の速さの有限性の結果[6]に刺激を受けたホイヘンス[7]は、素元波の概念とホイヘンスの原理を導入することで光の波動説の基礎を作り上げた[8]。
当初、実験物理学者として望遠鏡の製作が評価されていたアイザック・ニュートンは、当時の望遠鏡の欠陥であるレンズの色収差の問題を解決するため光学の研究を行っており、1672年に『光と色の新理論』(New theory about light and colours)という論文の中でその結果を報告した。しかしながら、その中で展開された色の理論が、当時主流のデカルトやフックの立場に反するものであったことから、以降、フックとニュートンの間に長い論争が交わされることとなった。
フックは光の波動説をとっており、ニュートンは1704年『光学』(Opticks)という著書の中で光を微粒子の放射と仮定していた[9]ように、強く主張してはいなかったものの光の粒子説をとっていた[10]ため、この論争は光の波動説と光の粒子説の近代における最初の対立とみなされることが多い。
以降、ニュートンの権威も手伝って18世紀においては、光の粒子説が受け入れられ、レオンハルト・オイラーを除いては光の本性について議論されなくなった[11]。
もっとも、ここで言う「波」の説明もほしいところだ。最初は粒子説と波動説が科学界を二分していたのも、波は粒子ではない、という考えが確固としてあったからだろう。つまり、波とは「存在」ではなく、「動き(ある存在の動き方)」だとされていたのではないか。だからこそ「波動」と言ったのだろう。まあ、これは物理音痴のたわごとだが、私には波の定義が分からないのだから仕方がない。だが、その考え方だと、波動説を採る場合、その「波動の本体は何か」というのが問題になるのではなかったか。海の波なら、水(海水)が本体で、その動きが波だという、とても分かりやすい話だ。しかし、光が波なら、その本体は何か。そこで、「エーテル」というものが宇宙空間を満たしている、という考えも出てきたわけだろう。
で、その「エーテル」説は、完全に排除していい考え方なのか、私にはそれも疑問に思える。宇宙が真空だとしたら、宇宙のあらゆる存在は、その真空に外皮をどんどん剥ぎ取られて消滅していくのではないか。つまり、あらゆる星々が真空の中にあるというより、エーテルの中にあるという考えの方が私には自然に思える。もちろん、空気などとはまったく異なる、他者にまったく影響を及ぼさないような気体であり、その気体の粒子も無い。
(以下引用)
粒子説と波動説[編集]
「光は粒子なのか? それとも波なのか?」 この問題は20世紀前半まで、大きな問題として科学者たちを大いに悩ませた。なぜなら、光が波であるとしなければ説明できない現象(たとえば光の干渉、分光など)と、光が粒子であるとしなければ説明できない現象(たとえば光電効果など)が存在していたからである(詳細は後述)。
この問題は、20世紀に「量子力学」という分野が確立していく中でようやく解決することになった。不確定性原理によって生じた問題を説明するために1927年にニールス・ボーアが相補性という概念を提唱したことで解決した。一方を確定すると他方が不確定になるような2つの量というのは、互いに補い合いあうことにより対象の完全な記述が得られる、とする考え方である。
「光は粒子でもあり波でもある。粒子と波の両方の性質を併せ持つ、量子というものである」とされるようになり、「光は〈粒子性〉と〈波動性〉を併せ持つ」とも表現されるようになった。
近年では、光の粒子性に重点を置く場合は「光子」、波動性に重点を置く場合には「光波」、光が粒子と波の二面性を持った量子である、という点に重点をおく場合は「光量子」と呼ぶ。
ところが、空がなぜ青いのか、私は知らないので、調べてみると、光のスペクトラム(それが何か、よく知らないが)の中で、青の波長(正確には紫の波長)がもっとも短い波長で、それが空気中の分子、下の記述だと空気の成分そのものの酸素分子や窒素分子に当たり、拡散されることで空全体に青の波長が(青の光が?)拡散されるかららしい。
もっとも、光とは何か、ということすら私は分かっていない。光そのものが粒子だという考えがあるから、大気中の微粒子との衝突という考えも出てくるのだろうが、そもそも波長を持つ存在とは粒子の集まりなのだろうか。
(以下引用)
空が青い理由は3つあります。太陽光、大気中の粒子、そして見ている私たちが人間だからです。3つ目については最後に説明するとして、まずは太陽光と大気中の粒子の相互作用に注目してみましょう。
かつて空の青さは、大気中の塵や水滴、そのほかの大きな粒子がつくりだしていると信じられていました。これは間違いです。空の青さをつくりだしているのは、空気中の非常に小さな粒子、空気分子そのものです。とくに酸素分子と窒素分子がカギとなります。
光の波長よりも小さい超微小の酸素分子と窒素分子は、空気中に大量に存在しています。これこそが空の実態です。
目に見える光は、長さの違う波長のスペクトルから成り立っています。最長の波長をもつのは赤い光で、最短の波長をもつのは青、もっと正確にいえば紫の光です。
ほかの生物から見ると空は青くない?
青の波長は短いので、大気中の酸素分子や窒素分子に、より頻繁に衝突します。その結果、衝突した青の波長はありとあらゆる方向へ散乱します。
これは“レイリー散乱”と呼ばれます。1871年、青い光の波長は赤い光の波長と比べて、空気中で16倍も散乱するということを数学的に証明し、それを発表したジョン・ウィリアム・ストラット、通称レイリー男爵が、この現象にはじめて言及したからです。
でもちょっと待ってください。最短の波長をもつのは紫の光でしたよね? 紫の波長は青よりもさらに短いわけですから、空気分子との衝突もより頻繁になり、もっと散乱するはずですよね? ではなぜ空は紫色ではないのでしょうか?
そこで重要になってくるのが3つめの理由、私たちが人間である、という事実です。人間の目は、光のスペクトルの真ん中に位置する色をより鮮明に捉えられるようにできています。
ですから、紫よりも青の方が目でとらえるのがずっと簡単なのです。青の波長よりも紫の波長の方が空気中に多く散乱しているにも関わらず空が青く見えるのは、私たちの目が紫色よりも青色を捉えているからにすぎません。
虹色の中で紫色がもっとも目で確認しづらいのも、同じ理由です。
この「SciShow」をご覧のみなさんはラッキーです。というのも、みなさんにアンケート調査をしたところ、虹色のなかでもっとも人気があったのは青だったからです。アンケートに答えてくださった視聴者の33.55パーセントが、もっとも好きな色に青を挙げ、一番人気のなかった色は黄色でわずか2.8パーセントでした。かわいそうな黄色……。
生物の中には、ミツバチやある特定の鳥類など、光のスペクトルの端から端まですべての色をその目でとらえられるものもいます。
これらの生物はもしかしたら黄色がお気に入りかもしれません。そして彼らの目には、空はまったく違ったものとしてうつっているのかもしれませんね。