忍者ブログ
[132]  [133]  [134]  [135]  [136]  [137]  [138]  [139]  [140]  [141]  [142
下の「コラム」部分に書かれていることは非常に重要な内容で、実に慧眼だと思う。
というのは、これは「天皇の正統性と絶対性」の根拠だからである。血筋絶対主義とは、誰がどうあがいても天皇家以外の血筋は天皇にはなれない、ということであり、日本史の政治的実権者が、天皇にだけはなれなかった理由だ。ただ、その「血筋絶対主義」は、過去には強大な力を持っていたが、これからも通用するかどうかは議論の余地が大きいだろう。

(以下引用)

四年春二月壬戌朔甲申 天神を祀り大孝を伸べる

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

四年春二月壬戌朔甲申、詔曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉。

現代語訳

神武天皇が即位して四年の春2月23日。
天皇は言いました。
「わたしの皇祖(ミオヤ=祖先)の霊(ミタマ)が天より降りて来て、私の体を照らして助けてくれました。今、もろもろの敵たちを静かにさせて、海内(アメノシタ)は平穏になりました。
天神(アマツカミ)を、祀って、それで大孝(オヤニシタガウコト)を果たしましょう」
靈畤(マツリノニワ)として鳥見山(トミノヤマ)の中に立ちました。そこでその場所を上小野榛原(カミツオノハリハラ)・下小野榛原(シモツオノハリハラ)といいます。それで皇祖(ミオヤ)の天神(アマツカミ)を祀りました。
スポンサードリンク

解説

海内で
海内と書いて「アメノシタ」となっているように、ここでは「天下」ではありません。なぜか? よく分かりませんが、この部分は古い伝承を元にして書いているからではないかと推測。

儒教の影響について
儒教は後では「政治学」のようになってしまいますが、元々は中国の一般的な「先祖崇拝」といった「常識」を体系化したものです。その中で「親を敬うこと」…「孝」はとても大事だとされました。また先祖を祀ることは子孫の義務でもありました。
このページでは儒教の影響が見られます。

個人的コラム

儒教はいつ入ったか?
わたしは崇神天皇の時代に、疫病が蔓延し、国民の半分が死んだとき、その祟りの主の「大物主」を子孫のオオタタネコに祀らせて鎮めたことが始まりではないか?と思っています。その結果が宗教施設と墓が合体した「前方後円墳」だ、というのが私の意見です。

十代の崇神天皇はおそらく三世紀の人物です。神武天皇は逆算すれば紀元前後の人物かと思われますが、そこは分かりません。

儒教というか「先祖崇拝」の考えはそれ以前からあったのかは分かりません。無かったとは思えません。ただそれを「政治的」に利用しはじめたのが崇神天皇だったのではないのか?と考えています。

つまり先祖崇拝をするということは、天皇の正当性は先祖にあるわけです。先祖が天神だから天皇は天皇。だから崇神天皇が儒教を入れて、血統を重んじるようになったから、それ以前の皇統にも意義が出た。ところが、崇神天皇以前の天皇には記述が残っていない。なにせそれまで先祖と子孫に大した繋がりが無かったから。もしくは薄かったから。そこで神武天皇の活躍は本当半分・嘘半分か、かなり創作かと思うのですが、だからといって「実在しない」とは思わない、というのが意見です。



PR
少し前、この「神武東征」編を読みながら感じていたのだが、「八咫烏」とは鳥ではなく、人間だ、ということがここで証明されている。前のあたりの記述では「鳴いて」などと、鳥みたいな書き方をしていたが、その行動は明らかに人間であり、「道案内役」であり「敵側との交渉係」である。「八咫」とは「大きい」の意味で、書紀の原文では「頭八咫烏」と書かれているらしく、「頭の大きい人間」つまり「賢い人間」で、烏のような素早さがある、ということではないか。場合によっては、変装能力もあったかもしれない。

(以下引用)


二年春二月甲辰朔乙巳 定功行賞

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定功行賞。賜道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之。亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。以珍彦爲倭国造。(珍彦、此云于砮毗故。)又給弟猾猛田邑、因爲猛田縣主、是菟田主水部遠祖也。弟磯城、名黑速、爲磯城縣主。復以劒根者、爲葛城国造。又、頭八咫烏亦入賞例、其苗裔卽葛野主殿縣主部是也。

現代語訳

神武天皇が即位して二年の春二月の二日。
天皇は論功行賞(イサヲシキヲサダメタマヒモノヲオコナイタマフ=東征に貢献したものに報償を与えること)を行いました。道臣命(ミチノオミノミコト)に宅地(イエドコロ)を与えました。それは築坂邑(ツキサカノムラ=橿原市鳥屋町)で、特に道臣命の功績を評価しました。
大來目(オオクメ)には畝傍山(ウネビヤマ)の西の川原の土地に住まわせました。それで今、そこ土地を來目邑(クメノムラ)と呼ぶのはそのためです。
珍彦(ウズヒコ)は倭国造(ヤマトノクニノミヤツコ)に任じました。
珍彦は于砮毗故(ウズヒコ)と読みます。

また、弟猾(オトウカシ)に猛田邑(タケダノムラ)を与え、猛田縣主(タケダノアガタヌシ)としました。菟田主水部(ウダノモヒトリラ)の遠祖です。
弟磯城(オトシキ)は名前を黒速(クロハヤ)といいます。
弟磯城(オトシキ)を磯城縣主(シキノアガタヌシ=桜井市)に任じました。
劒根(ツルギネ)という人物を葛城国造(カヅラキノクニノミヤツコ)としました。
頭八咫烏(ヤタノカラス)にも報償がありました。頭八咫烏の子孫は葛野主殿縣主部(カズノノトノモリノアガタヌシラ)です。


話自体はどうでもいい内容だが、「八紘一宇」の出典である。なお、神武天皇記には「撃ちてしやまむ」など、大東亜戦争時のスローガンの出典が多い。


(以下引用)


三月辛酉朔丁卯 六合を一つにして八紘までを家にする

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

三月辛酉朔丁卯、下令曰「自我東征、於茲六年矣。頼以皇天之威、凶徒就戮。雖邊土未淸餘妖尚梗、而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。而今運屬屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常。夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元。上則答乾靈授国之德、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山(畝傍山、此云宇禰縻夜摩)東南橿原地者、蓋国之墺區乎、可治之。」

是月、卽命有司、經始帝宅。

現代語訳

三月七日。
天皇は言いました。
「わたしが東征に出発して、6年になります。天津神の霊威によって凶徒(アタ=敵)は殺されました。周辺の国はまだ静まっていませんし、敵の残党はまだ勢いのあるものがあるが、中洲之地(ナカスノクニ=大和の国)は騒がしくない。皇都(ミヤコ)を広く広く取り、大きな宮殿を造ることにしよう。
国はまだ出来たばかりで若く、民は素直で、穴の中に住んで、古い習俗が変わらず残っている。聖人のやり方でしっかりと行えば、結果はおのずと付いてくる。民の利益になることならば、聖人のやることを阻むものは無いだろう。
そこで山林を開き、宮殿を造って、天皇の地位について、民を静めよう。乾靈(アマツカミ=天津神)の国を授けられた徳に答え、皇孫の正しい道を広めよう。その後に六合(クニノウチ=東西南北と天と地を合わせて六合)を一つにして都を開き、八紘(アメノシタ=北・北東・東……と合わせて八方向のこと)の隅々まで「宇(イヘ…家)」にすることは、良いことだ。見ると畝傍山(ウネビヤマ)の東南の橿原(カシハラ)は国の墺(モナカ…真ん中)だろうから、ここを治めよう」

この月に有司(ツカサ=役人)に命じて帝宅(ミヤコ=天皇の家=都)を作り始めました。
スポンサードリンク

解説

天皇が東征を振り返り、この土地に国を作ることを宣言するシーン。6年しか経ってないのか。



物部氏も天孫で、この戦に敗れて大和朝廷に臣従した、ということは、「別種の皇統」(となりえた天孫族)であったという話になる。おそらく朝鮮半島の出自で、大和朝廷とは別ルート(おそらく、秋田から滋賀県経由)で来て、奈良に既に強大な王朝を打ち立て、高度な戦闘能力を持っていたからこそ、神武天皇の戦いでももっとも苦難に満ちた戦いになったのではないか。
そして、物部氏のこの出自が、後の滅亡の遠因でもありそうだ。

(以下引用)


十有二月癸巳朔丙申(四)饒速日命は物部氏の祖先

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

長髄彦、卽取饒速日命之天羽々矢一隻及步靫、以奉示天皇天皇覽之曰「事不虛也。」還以所御天羽々矢一隻及步靫、賜示於長髄彦。長髄彦、見其天表、益懷踧踖、然而凶器已構、其勢不得中休、而猶守迷圖、無復改意。饒速日命、本知天神慇懃唯天孫是與、且見夫長髄彦禀性愎佷、不可教以天人之際、乃殺之、帥其衆而歸順焉。天皇、素聞鐃速日命是自天降者而今果立忠效、則褒而寵之。此物部氏之遠祖也。

現代語訳

長髄彦(ナガスネヒコ)はすぐに饒速日命(ニギハヤヒミコト)の天羽々矢(アメノハハヤ)を一隻(ヒトハ=矢を一本)と步靫(カチユキ=矢を射れる筒がユキ、これを歩行用にしたものがカチユキ)を天皇(スメラミコト)に見せました。
天皇はそれを見て
「本物だ」
と、言いました。
それでお返しにと、天羽々矢(アメノハハヤ)と步靫(カチユキ)を見せました。
長髄彦はその表(シルシ)を見て、ますます天皇を恐れ畏まりました。しかし凶器(ツワモノ=武器)を準備して、今更、途中で止めてしまうわけにはいかない。それで血迷った計画を変えず、改心しませんでした。

饒速日命(ニギハヤヒミコト)は天神が最も大事だと思っているのは天孫(=アマテラスの子孫)であると知っていました。それに長髄彦はその禀性(ヒトトナリ=人と成り)がとても気難しいので、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天人(キミヒト=君主と人の上下関係のこと)の関係を教えても、理解出来そうにないので、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は長髄彦を殺してしまいました。そして人々と共に天皇に従いました。
天皇はもともと饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天から降りたと知っていました。今、忠效(タダシキマコト=忠義の意思)を示したので、褒めてもてなしました。この饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が物部氏の祖先です。
スポンサードリンク

解説

言い訳がましく裏切る神
長髄彦の妹を嫁にもらいながら、なんやかんやと理由をつけて裏切っちゃうニギハヤヒ。それでも天皇から見れば、兄の敵を討ってくれた「英雄」なのでしょう。

ところがニギハヤヒは物部氏の祖先とされます。物部の「モノ」は「物の怪」のモノと取って、祭祀関係の氏族とされたり、武器を管理する氏族とも言われます。日本では「モノ」は「霊」と「物体」の両方を意味するので、祭祀と武器のどちらか一方ではなく両方と考えた方がいいでしょう。

大活躍の物部氏ですが、ご存知の通り、蘇我氏との政争に破れて氏族は滅亡しています。また蘇我氏は藤原氏の始祖の中臣鎌足に殺されています。両氏族とも親戚筋は残っていたのでしょうが、滅亡したのに先祖の活躍を描く必要があったのか?と思うのですよね。よく古事記成立の有力者の藤原氏を立ててタケミカヅチアメノコヤネを優遇しているとか言いますが、それならニギハヤヒではなく、古事記成立時の有力者の先祖を当てればいいじゃないですか。

わたしは古事記や日本書紀は別のロジックで書かれていると思っています。それは鎮魂です。嘘を書くと死者の魂が祟ると考えていたから、本当を書いて鎮めたのだろうということです。それなら蘇我氏や物部氏といった滅亡した氏族のことこそ、書かなくちゃいけないことになるのです。










ここも少し興味深いので転載する。

(以下引用)


十有二月癸巳朔丙申(三)櫛玉饒速日命を君主に

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

時、長髄彦乃遣行人、言於天皇曰「嘗有天神之子、乘天磐船、自天降止、號曰櫛玉饒速日命。(饒速日、此云儞藝波揶卑。)是娶吾妹三炊屋媛(亦名長髄媛、亦名鳥見屋媛)遂有兒息、名曰可美眞手命。(可美眞手、此云于魔詩莽耐。)故、吾以饒速日命、爲君而奉焉。夫天神之子、豈有兩種乎、奈何更稱天神子、以奪人地乎。吾心推之、未必爲信。」天皇曰「天神子亦多耳。汝所爲君、是實天神之子者、必有表物。可相示之。」

現代語訳

そのとき、長髄彦(ナガスネヒコ)はすぐに使者を派遣して、天皇に告げました。
「昔、天津神(アマツカミ)の子(ミコ)がいました。
天磐船(アマノイワフネ)に乗って天より降りて来ました。
その名を櫛玉饒速日命(クシタマニギヤハヒノミコト)といいます。
饒速日は「儞藝波揶卑(ニギハヤヒ)」と読みます。

この人物は私(=長髄彦)の妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶って子供をもうけました。
ミカシキヤヒメの別名は長髄媛(ナガスネヒメ)、またの別名を鳥見屋媛(トミヤビメ)といいます。

その子供の名前を可美眞手命(ウマシマデノミコト)といいます。
可美眞手は于魔詩莽耐(ウマシマデ)と読みます。

わたしは饒速日命(ニギハヤヒミコト)を君主として仕えています。天神の子がどうして両種(フタハシラ=神が二人)あるものでしょうか??どうして更に天神(アマツカミ)の子と名乗って、ひとの国を奪おうとするのか? 私が考えるに、未必爲信(イツワリ=偽り=偽物)では無いでしょうか?」
天皇は言いました。
「天神の子は多く居るものだ。
お前のところの君主が本物の天神の子ならば、必ず『表(=シルシ)』があるはずだ。それを見せなさい」
スポンサードリンク

解説

ニギハヤヒとは?
ニギハヤヒは神武天皇と同じように天神の子とされます。長髄彦は「天神の子は一人」と思っていたようですが、天皇にしてみれば天神の子は複数居て良いみたい。長髄彦の言う方がごもっともな気もしますが、天皇自身が「複数居る」と言うんだからしょうがない。

長髄彦としては天神の子であるニギハヤヒと妹を結婚させて、子供までもうけた。それに天皇とはすでに戦い、天皇の兄の五瀬命(イツセノミコト)に怪我を負わせ、殺している。今更、天皇が「俺も天神の子なんだぜ!」と言って来ても困りますよね。許してくれそうにも無いし。

それでも兄猾(エウカシ)や兄磯城(エシキ)のようにだまし討ちもしないし、この会話の中に長髄彦にも同情の余地を残すあたりは理由があるのかもしれない。






<<< 前のページ 次のページ >>>
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.