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下の「コラム」部分に書かれていることは非常に重要な内容で、実に慧眼だと思う。
というのは、これは「天皇の正統性と絶対性」の根拠だからである。血筋絶対主義とは、誰がどうあがいても天皇家以外の血筋は天皇にはなれない、ということであり、日本史の政治的実権者が、天皇にだけはなれなかった理由だ。ただ、その「血筋絶対主義」は、過去には強大な力を持っていたが、これからも通用するかどうかは議論の余地が大きいだろう。

(以下引用)

四年春二月壬戌朔甲申 天神を祀り大孝を伸べる

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原文

四年春二月壬戌朔甲申、詔曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉。

現代語訳

神武天皇が即位して四年の春2月23日。
天皇は言いました。
「わたしの皇祖(ミオヤ=祖先)の霊(ミタマ)が天より降りて来て、私の体を照らして助けてくれました。今、もろもろの敵たちを静かにさせて、海内(アメノシタ)は平穏になりました。
天神(アマツカミ)を、祀って、それで大孝(オヤニシタガウコト)を果たしましょう」
靈畤(マツリノニワ)として鳥見山(トミノヤマ)の中に立ちました。そこでその場所を上小野榛原(カミツオノハリハラ)・下小野榛原(シモツオノハリハラ)といいます。それで皇祖(ミオヤ)の天神(アマツカミ)を祀りました。
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解説

海内で
海内と書いて「アメノシタ」となっているように、ここでは「天下」ではありません。なぜか? よく分かりませんが、この部分は古い伝承を元にして書いているからではないかと推測。

儒教の影響について
儒教は後では「政治学」のようになってしまいますが、元々は中国の一般的な「先祖崇拝」といった「常識」を体系化したものです。その中で「親を敬うこと」…「孝」はとても大事だとされました。また先祖を祀ることは子孫の義務でもありました。
このページでは儒教の影響が見られます。

個人的コラム

儒教はいつ入ったか?
わたしは崇神天皇の時代に、疫病が蔓延し、国民の半分が死んだとき、その祟りの主の「大物主」を子孫のオオタタネコに祀らせて鎮めたことが始まりではないか?と思っています。その結果が宗教施設と墓が合体した「前方後円墳」だ、というのが私の意見です。

十代の崇神天皇はおそらく三世紀の人物です。神武天皇は逆算すれば紀元前後の人物かと思われますが、そこは分かりません。

儒教というか「先祖崇拝」の考えはそれ以前からあったのかは分かりません。無かったとは思えません。ただそれを「政治的」に利用しはじめたのが崇神天皇だったのではないのか?と考えています。

つまり先祖崇拝をするということは、天皇の正当性は先祖にあるわけです。先祖が天神だから天皇は天皇。だから崇神天皇が儒教を入れて、血統を重んじるようになったから、それ以前の皇統にも意義が出た。ところが、崇神天皇以前の天皇には記述が残っていない。なにせそれまで先祖と子孫に大した繋がりが無かったから。もしくは薄かったから。そこで神武天皇の活躍は本当半分・嘘半分か、かなり創作かと思うのですが、だからといって「実在しない」とは思わない、というのが意見です。



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