全体は五部構成で、
1)「神武東征記(神武戦記)」~伯済国滅亡(ゼロの章、あるいはプロローグ)から神武東征まで。
*正義や道徳は問わず、古代史を冷徹に描く。これは以下の章(部)も同様。
2)「ヤマトタケル戦記」~ヤマトタケルの物語を中心に、大和朝廷の覇権拡大を描く。
3)「神仏の戦い」~仏教伝来の闘争を描く。
*支配手段としての仏教を描く。神仏不在の「神」と「佛」の戦い。
4)「望郷戦記」~大化の改新と白村江の戦い
5)「継ぐのは誰か」~壬申の乱から継体天皇まで(記紀の誕生含む)
古代を描く「時代小説」のネックである、「人名」と「言葉遣い」の「常識」を完全に無視して、人名は簡略化、あるいは記号(符号)化し、話し方は現代人とまったく同一、つまりカタカナ語や外来語や現代の数字や単位を用いる。それによって、「大事なのは語られた表面ではなく、中味である」ことを強調する。つまり、日本史は原日本人が侵略者に敗北を重ねた歴史である、という事実を明確にする。そして、正義などどちらにもない、という視点を示す。道徳(儒教)も宗教(仏教)も政治の手段である、ということを示す。ただし、それらは道徳や宗教が無意義だということではなく、善悪どちらにも使える恐ろしい道具だ、ということである。これは世界史にも拡張できるし、現代社会もまた同じである。
全体の名称は未定だが、グローバル(まあ、アジア東部だけだが)な視点から見た古代史である、というのを感じさせたい。あるいは、「大和朝廷秘史」的な印象でもいいが、「トンデモ歴史小説」の印象は避けたい。「仁義なき古代史」というのを、今思い付いた。ふざけた名前だが、内容には合っている。古代史はヤクザ戦争と同じだ、ということだ。つまり、すべて利を争っての戦いにすぎない。
情景描写も基本的には不要だし、書く能力も無いので、小説ではなく脚本形式にするのがいいかもしれない。
集落に城郭を作らないという都市形態も日本文化に引き継がれている。馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたというのも興味深い。辰韓人と馬韓人は別民族(おそらく辰韓人は北方遊牧民族の子孫で馬韓人は海洋民族の子孫)だったのではないか。ただ、海洋民族とは言っても、馬韓定住後は農業が重要産業だったわけだ。古事記の中には海洋民族的寓話が多く、たとえば「海幸彦山幸彦」の兄弟げんかは、辰韓と馬韓の仲の悪さの寓話かもしれない。
馬韓(ばかん)は、紀元前2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である三韓の一つ。帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰韓(後の新羅)、南方は倭に接していた。後の百済と重なる場所にあった地域である。
馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。それぞれの馬韓諸国には首長がおり、大きな首長を臣智(しんち)[2]と言い、それに次ぐものを邑借(ゆうしゃく)と呼んだ。。
集落に城郭は無く、五十余国が存在した。通説では、その内の伯済国がのちに百済になったと考えられている。
『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民がおり、馬韓人はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせたという。また、『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたという。
朝鮮人(これは蔑称ではなく、南北朝鮮全体の人民を指す)が日本に対し傲慢であるのは、古代史から見て、日本は朝鮮の「植民地」であったという考えが妥当だという暗黙の了解があるからだろう。それが日韓併合によって逆に日本の植民地にされたのだから、その屈辱は倍化されるわけである。
あるいは、箕氏朝鮮の最後の王である準王に攻め滅ぼされた馬韓の王族が日本の皇室の祖である、とするのがもっと合理的か。その方が、大和朝廷の「朝鮮半島の政治情勢への異常な関心と関与」も、故郷へのノスタルジーとして理解できる。
(以下引用)
『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は、中国の殷王朝28代文丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。
建国後の動向はほとんど伝わらない。『魏略』の逸文によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲したが、東周が衰退すると王を僭称するようになり、周王朝を尊んで燕を攻撃しようとした。しかし大夫礼[5]が朝鮮王を諌めたので、王は攻撃を中止して、逆に燕に礼(人名)を派遣したので燕は朝鮮を攻めるようなことはなかった。
以降からその子孫は驕慢になり、燕の将軍秦開に攻めこまれ二千里の領土を奪われ[6]、満潘汗[7]を国境に定めた。そのため朝鮮はついに弱体化した。秦が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。その子の準王(箕準)の代になると、秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。ところが紀元前195年、前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。
『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王(はじめ、朝鮮王準が衛満に敗れ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。
矢木毅によると、箕子が朝鮮において、人民教化したことは、『漢書』巻二十八下、地理志下、燕に、
殷道の衰うるや、箕子去りて朝鮮に之き、その民に教うるに禮義・田作・織作を以てす。…貴ぶべきかな、仁賢の化するや。 -『漢書』巻二十八下、地理志下、燕
とあり、楽浪郡支配下の朝鮮人に箕子の人民教化による公序良俗が残存していることを伝えており、楽浪郡支配下の朝鮮の豪族たちが、自らのルーツを箕子による人民教化に結びつけ、周辺民族よりも文明人であると自負しており、この白負は、楽浪郡滅亡後、漢人の支配から解き放たれた朝鮮の豪族たちが、高句麗の支配下で、三韓の支配下で、高句麗や三韓の豪族たちに継承され、後の新羅による三韓統一により、箕子朝鮮は三韓全体のルーツとして位置づけられることになったという[8]。
王統[編集]
このような箕子朝鮮の伝説は史実か否かとは別に、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知識人によって熱烈に支持され、箕子は朝鮮族の始祖として顕彰されるとともに、箕子宮・箕子陵・箕子井田などの古跡が盛んに造作された。李氏朝鮮後期に族譜の作成が盛んになると、韓氏によって王統が創作され、その内容は『盎葉記』(李徳懋)や『清州韓氏族譜』などに見える。
各国の見解[編集]
箕子にはそれなりの歴史的背景が考えられる[9]。中国古代の殷・周金属文化圏では、紀元前10世紀以後、山東の斉の箕族が、殷・周の権威のもとで、朝鮮西部に接する遼寧で活動していた[9]。燕・斉人の東来は、古くから存在した[9]。北京市順義県、河北省東部、遼西大凌河で其や箕侯という銘の西周初の箕子の時代の青銅器が多数発掘され、箕子と関係づけてとらえる意見がある[10]。『魏略』は「(箕準一族の)子と親族でそのまま朝鮮に留まった者は、みだりに韓姓を称している」と記している。箕子の後裔の箕準一族を名乗り、韓姓を称した者が存在したが、楽浪郡以後、王姓の次に圧倒的な勢力は韓姓だった[9]。現在の韓国の学界では後世の創作として否定しているが、中国の学界では実在したと考えられており、真っ向から対立する。日本の学界では意見が割れており、史料にあらわれる記録は実在の要素と架空の要素が入り混じっているとする説と、周時代(前11世紀)頃から朝鮮半島西北部に中国人が一定の集団をなして定住したと思われる周様式に酷似した出土物の顕著な増加を認め大筋に於いて信憑性を認めようとする説とがある。日本の学界は架空性を重視する者でも韓国史学界のような全くの創造とは見倣さず、中国からの移民集団の存在を認める点では日本の学界は中国に近い。
天孫族
天孫族(てんそんぞく)は、日本神話において降臨しヤマト王権をつくったとする古代勢力の総称。また「新撰姓氏録」では天照大神などの子孫を神別の「天孫」としている。
系統と分布[編集]
天孫族は古代中国の殷・周・秦・羌族などの東夷系種族に通じる種族とする説がある。また箕子朝鮮の王族ないし扶余王族、高句麗や百済・新羅、あるいは渤海を建国した部族と同族の流れを汲むとされる。なお北狄ともかなりの混血があったためか、習俗で似通ったものがあるとされる[1]。
東夷系種族説[編集]
中国東北地方の遼西地方周辺を原住地とし、朝鮮半島を経由して南部の弁辰を根拠地として、紀元1世紀前半頃に日本列島に到来した種族とされる。北九州の松浦半島に上陸した後は、松浦川に沿って奥地に溯り、天山南方の佐賀平野を西から東に進んで、筑後川の中・下流域、水縄山地(身納山脈)、特に高良山の北麓から西麓の辺り、筑後国の御井郡・山本郡を中心とする地域に定着したとされる。この種族は鉄器文化や鳥トーテミズムを持ち、支石墓や後期の朝鮮式無文土器にも関係したとみられる。また、これが『魏志倭人伝』に見える邪馬台国の前身たる部族国家(高天原)で、このような原始国家を2世紀初頭前後頃から形成し、2世紀後半には分岐国家の伊都国から神武天皇兄弟を輩出した[2]。神武天皇の子孫は大和朝廷の基礎を作り上げ、残った一族は3世紀前半の魏朝の時代に最盛期をむかえ、女王卑弥呼などを輩出したが、4世紀代に古墳文化を所持し、強大な勢力となった景行天皇や神功皇后による九州地方の平定によって滅んだものとされる[3][4]。
特徴[編集]
鉄鍛冶・製塩や土器・銅鏡・玉・銅剣・鉄剣・弓矢・衣類の製作を行った種族。熊、猪、鳥(とくに白鳥・鷹・鷲)といったトーテムがあり、太陽信仰、巨石・石神信仰、製鉄・風神信仰、温泉神、医薬神、妙見信仰を持つ。関係が深い植物には粟・麻があり、五十猛神(須佐之男命、八幡神、熊野大神、角凝魂命)・高御産巣日神・天照大御神(天活玉神(伊久魂神))・天津彦根命(天若日子)・天目一箇命(天太玉命、天津麻羅、経津主神)・天日鷲神(陶津耳命、少名毘古那神)などを祖神として奉斎する他、母系神として豊宇気毘売神(菊理姫神、宇迦之御魂神、保食神)も祀る[5][6][7][8]。
記紀における天孫族[編集]
記紀によると国譲りの後、高天原より葦原中国平定のため日向に降臨し、中国地方を経て近畿地方まで東征し西日本各地の豪族を従え大王(天皇)を中心とするヤマト王権(倭国)を樹立させ、中部・関東地方まで勢力を拡大させ、のちの日本へと発展していったとしている。
新撰姓氏録における天孫族[編集]
「新撰姓氏録」神別では、天照大神の子孫とみなされる神々、天穂日命、天津彦根命、天火明命、火闌降命、天佐鬼利命の子孫を『天孫』と定義している。
皇室、出雲氏、三上氏、物部氏、尾張氏、山背国造、広峯氏、土師氏、隼人などはその子孫にあたるとしている。しかし尾張氏の系図は系譜仮冒であり、またその祭祀形態から海神族、隼人は習俗から山祇族ともされる。
(以下引用)
伝播の理由[編集]
稲作が広く行われた理由として、
- 米の味が優れており、かつ脱穀・精米・調理が比較的容易である[1]。
- イネは連作が可能で他の作物よりも生産性が高く、収穫が安定している(特に水田はその要素が強い)[1]。
- 施肥反応(適切に肥料を与えた場合の収量増加)が他の作物に比べて高く、反対に無肥料で栽培した場合でも収量の減少が少ない[1]。
- 水田の場合には野菜・魚介類の供給源にもなり得た(『史記』貨殖列伝の「稲を飯し魚を羹にす……果隋蠃蛤、賈を待たずしてたれり」は、水田から稲だけでなく魚やタニシも瓜も得られるので商人の販売が不要であったと解される)[2]。
などが考えられている[3]。
歴史[編集]
起源[編集]
稲作の起源は2017年現在、考古学的な調査と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域と考えられている[4]。(かつては雲南省の遺跡から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺からインドアッサム州周辺にかけての地域が発祥地とされていた[4][5][6]。)
長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという[7]。野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、インディカ米の系統が生じたと考えられている[4]。
中国での伝播[編集]
中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は黄河流域を北限とした地域に限られている。紀元前3000年以降山東半島先端部にまで分布した。
日本への伝来[編集]
日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器がみつかっている。水田稲作に関しては約2600年前の菜畑遺跡の水田跡がある。水田稲作の伝来経路としては従来『朝鮮半島経由説』『江南説(直接ルート)』『南方経由説』の3説があり[8][9]、現在も議論が続いている。(後述)
なお、稲のプラント・オパールは20~60ミクロンと小さいため、即座に発見地層の年代を栽培の時期とすることはできないが、鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている[10]。
朝鮮半島への伝来[編集]
遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。水田稲作に関しては約2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっている。研究者の甲元は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している[11]。
東南アジア、南アジアへの伝来[編集]
東南アジア、南アジアへは紀元前2500年以降に広まった[12]。その担い手はオーストロネシア語族を話すハプログループO-M95 (Y染色体)に属する人々と考えられる[13]。
西アジアへの伝来[編集]
トルコへは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、インドからペルシャを経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である[14]。
アフリカへの伝来[編集]
栽培史の解明は不十分とされているが、現在のアフリカで栽培されているイネは、地域固有の栽培稲(アフリカイネ Oryza glaberrima )とアジアから導入された栽培稲(アジアイネ Oryza sativa )である[15]。アフリカイネの栽培開始時期には諸説有り2000年から3000年前に、西アフリカマリ共和国のニジェール川内陸三角州で栽培化され、周辺国のセネガル、ガンビア、ギニアビサウの沿岸部、シエラレオネへと拡散したとされている[16]。
アジアイネの伝来以前のアフリカでは、野生化していたアフリカイネの祖先種と考えられる一年生種 O. barthii と多年生種 O. longistaminata などが利用されていた。近代稲作が普及する以前は、アフリカイネの浮稲型や陸稲型、アジアイネの水稲型、陸稲型が栽培地に合わせ選択栽培されていた。植民地支配されていた時代は品種改良も行われず稲作技術に大きな発展は無く、旧来の栽培方式で行われた。また、利水潅漑施設が整備される以前は陸稲型が70%程度であった。植民地支配が終わり、利水潅漑施設が整備されると低収量で脱粒しやすいアフリカイネは敬遠されアジアイネに急速に置き換わった[15]。1970年代以降になると、組織的なアジアイネの栽培技術改良と普及が進み生産量は増大した。更に、1990年代以降はアフリカイネの遺伝的多様性も注目される様になり、鉄過剰障害耐性、耐病性の高さを高収量性のアジアイネに取り込んだ新品種ネリカ米が開発された[17][18]。ネリカ米の特性試験を行った藤巻ら(2008)は[19]、陸稲品種の「トヨハタモチ」と比較しネリカ米の耐乾性は同等であるが耐塩性は劣っていると報告している[19]。
ヨーロッパへの伝来[編集]
ローマ帝国崩壊後の7世紀から8世紀にムーア人によってイベリア半島にもたらされ、バレンシア近郊で栽培が始まった。しばらく後にはシチリア島に伝播し、15世紀にはイタリアのミラノ近郊のポー河流域で、主に粘りけの少ないインディカ種の水田稲作が行われる[20][21]。
アメリカ大陸への伝来[編集]
16 - 17世紀にはスペイン人、ポルトガル人により南北アメリカ大陸に持ち込まれ、プランテーション作物となった[22]。
日本国内での歴史[編集]
この節の加筆が望まれています。 (2014年2月)
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縄文稲作の可能性[編集]
日本列島における稲作は弥生時代に始まるというのが近代以降20世紀末まで歴史学の定説だったが、学説としては縄文時代から稲を含む農耕があったとする説が何度か出されてきた。宮城県の枡形囲貝塚の土器の底に籾の圧痕が付いていたことを拠り所にした、1925年の山内清男の論文「石器時代にも稲あり」がその早い例だが[23]、後に本人も縄文時代の稲作には否定的になった[24]。土器に付いた籾の跡は他にも数例ある。1988年には、縄文時代後期から晩期にあたる青森県の風張遺跡で、約2800年前と推定される米粒がみつかった[25]。
縄文稲作の証拠として有力な考古学的証拠は、縄文時代後期(約3500年前)に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡の土器胎土内から出たプラント・オパールである。砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の土層から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられる[26]。
しかし、これらについても疑問視する研究者もいる。米粒は、外から持ち込まれた可能性や[27]、土壌中のプラントオパールには、攪乱による混入の可能性もあるとされる[28]。この様な指摘を受け、2013年にはプラントオパール自体の年代を測定する方法が開発されている[29][30]。否定的な説をとる場合、確実に稲作がはじまったと言えるのは稲作にともなう農具や水田址が見つかる縄文時代晩期後半以降である[31]。これは弥生時代の稲作と連続したもので、本項目でいう縄文稲作には、縄文晩期後半は含めない[32]。
プラントオパールを縄文稲作の証拠と認める場合、稲作らしい農具や水田を伴わない栽培方法を考えなければならない。具体的には畑で栽培する陸稲である[33]。特に焼畑農業が注目されている[34]。縄文時代晩期の宮崎県桑田遺跡の土壌からはジャポニカ種のプラント・オパールが得られた[35]。現在まで引き継がれる水稲系の温帯ジャポニカではなく、陸稲が多い熱帯ジャポニカが栽培されていた可能性が高いことが指摘されている[36]。
水稲(温帯ジャポニカ)耕作が行われる弥生時代より以前の稲作は、陸稲として長い間栽培されてきたことは宮崎県上ノ原遺跡出土の資料からも類推されていた。栽培穀物は、イネ、オオムギ、アズキ、アワであり、これらの栽培穀物は、後期・末期(炭素年代測定で4000 - 2300年前)に属する。
日本への伝来ルート[編集]
朝鮮半島経由説[編集]
- 佐原真は弥生稲作が日本に伝わった道について、「南方説、直接説、間接説、北方説があった」が「しかし現在では・・・朝鮮半島南部から北部九州に到来したという解釈は、日本の全ての弥生研究者・韓国考古学研究者に共有のものである」としており、佐藤洋一郎[要曖昧さ回避]らが最近唱えた解釈に対しては、安思敏らの石包丁直接渡来説を含めて「少数意見である」としている[37]。
- 趙法鐘は、弥生早期の稲作は松菊里文化に由来し「水稲農耕、灌漑農耕技術、農耕道具、米の粒形、作物組成および文化要素全般において」朝鮮半島南部から伝来したとしており、「日本の稲作は朝鮮半島から伝来したという見解は韓日両国に共通した見解である」と書いている[38]。
- 池橋宏は、長江流域に起源がある水稲稲作は、紀元前5,6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとしており[9]、20世紀中ごろから南島経由説、長江下流域から九州方面への直接渡来説、朝鮮半島経由説の3ルートの説が存在していたが、21世紀になり、考古学上の膨大な成果が積み重ねと朝鮮半島の考古学的進歩により、「日本への稲作渡来民が朝鮮半島南部から来たことはほとんど議論の余地がないほど明らかになっている」とまとめている[9]。
- しかしこれについて広瀬和雄は、「中国大陸から戦乱に巻き込まれた人達が渡来した」というような説は水田稲作が紀元前8世紀には渡来したのであれば「もう成立しない」としている[39]
- 藤尾慎一郎は、これまでの前4,5世紀頃伝来説が、新年代説(前10世紀頃)になったとしても、朝鮮半島から水田稲作が来たことには変わりないとしている[40]。
- 宝賀寿男は、「従来説では、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちが水稲農耕をもたらした、とされてきた。これは、稲作開始時期の見方に対応するものでもある。中国戦国時代の混乱はわかるが、殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。」と述べ、稲作開始時期の繰り上げと炭素年代測定や年輪年代測定の数値と検証方法に疑問を呈している。即ち殷は鳥・敬天信仰などの習俗から、もともと東夷系の種族(天孫族と同祖)と考えられるため、別民族で長江文明の担い手たる百越系(海神族の祖)に起源を持つ稲作には関係ないと考えられる[41]。
- 山崎純男は、朝鮮半島から最初に水田稲作を伴って渡来したのは支石墓を伴った全羅南道の小さな集団であり、遅れて支石墓を持たない慶尚道の人が組織的に来て「かなり大規模な工事を伴っている」としている[42]。
- 佐藤洋一郎によると、風張遺跡(八戸)から発見された2,800年前の米粒は食料ではなく貢物として遠くから贈られてきた[43]。風張遺跡(八戸)から発見された2,800年前の米粒は「熱帯ジャポニカ(陸稲)」であり、「温帯ジャポニカ(水稲)は、弥生時代頃に水田耕作技術を持った人々が朝鮮半島から日本列島に持ってきた」と言う[44]。
- 分子人類学者の崎谷満も、ハプログループO1b2 (Y染色体)に属す人々が、長江下流域から朝鮮半島を経由して日本に水稲をもたらしたとしていた[45]。
江南説(対馬暖流ルート)[編集]
農学者の安藤広太郎によって提唱された中国の長江下流域から直接に稲作が日本に伝播されたとする説[46][47][48]。
考古学の観点からは、八幡一郎が「稲作と弥生文化」(1982年)で「呉楚七国の乱の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を述べており[49]、「対馬暖流ルート」とも呼ばれる。
本説は下記に述べる生化学分野からのアプローチからも支持されている。
2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた分析調査でSSR領域に存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a〜hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多いこと。日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを確認。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心であることから、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが主品種であり、江南ルートがあることを報告し[50]、日本育種学会の追試で再現が確認された[51][52]。
さらに、2008年には農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子「qSW5」を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認し、論文としてネイチャー ジェネティクスに発表している[53][54]。
南方経由説(黒潮ルート)[編集]
柳田國男の最後の著書「海上の道[55]」で提唱した中国の長江下流域からの南西諸島を経由して稲作が日本に伝播されたとする説である。石田英一郎、可児弘明、安田喜憲、梅原猛などの民俗学者に支持され[56][57]。佐々木高明が提唱した照葉樹林文化論も柳田の南方経由説の強い影響を受けている。[58]
北里大学の太田博樹准教授(人類集団遺伝学・分子進化学)は、下戸の遺伝子と称されるALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘している。[59]
考古学の観点からは、沖縄で古代の稲作を示す遺構が出土していないため関心が低いが、生化学の観点からは、渡部忠世や佐藤洋一郎が陸稲(熱帯ジャポニカ)の伝播ルートとして柳田の仮説を支持している[60][61]。
古代の稲作[編集]
青森県の砂沢遺跡から水田遺構が発見されたことにより、弥生時代の前期には稲作は本州全土に伝播したと考えられている[8][62]。古墳時代に入ると、農耕具は石や青銅器から鉄製に切り替わり、稲の生産性を大きく向上させた。土木技術も発達し、茨田堤などの灌漑用のため池が築造された。弥生時代から古墳時代における日本の水田形態は、長さ2・3メートルの畦畔に囲まれ、一面の面積が最小5平方メートル程度の小区画水田と呼ばれるものが主流で、それらが数百~数千の単位で集合して数万平方メートルの水田地帯を形成するものだった[63]。大和朝廷は日本を「豊葦原の瑞穂の国(神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」と称し、国家運営の基礎に稲作を置いた。
律令体制導入以降の朝廷は、水田を条里制によって区画化し、国民に一定面積の水田を口分田として割りあて、収穫を納税させる班田収授制を652年に実施した。以後、租税を米の現物で納める方法は明治時代の地租改正にいたるまで日本の租税の基軸となった。稲作儀礼も朝廷による「新嘗祭」「大嘗祭」などが平安時代には整えられ、民間でも田楽などが行われるようになった。大分県の田染荘は平安時代の水田機構を現在も残す集落である。