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日本の皇室の祖は朝鮮半島からの逃亡王族だった、という仮定で小説を書くつもりだが、それは要するに、「箕氏朝鮮」が日本の皇室の祖だという話になる。箕氏朝鮮の滅亡がBC2世紀前後とすると、神武天皇が紀元ゼロ年(1世紀)くらいと想像されるので、その間200年くらいの間、九州北部で「高天原」を作って生活していたという仮定にうまく適合しそうである。大和朝廷が「礼儀」「農事・養蚕・機織」の技術を日本に広めた、という事実とも合う。ただし、「礼」とは国家体制維持の「技術」のひとつである。礼とはもともとそういうものである。
朝鮮人(これは蔑称ではなく、南北朝鮮全体の人民を指す)が日本に対し傲慢であるのは、古代史から見て、日本は朝鮮の「植民地」であったという考えが妥当だという暗黙の了解があるからだろう。それが日韓併合によって逆に日本の植民地にされたのだから、その屈辱は倍化されるわけである。
あるいは、箕氏朝鮮の最後の王である準王に攻め滅ぼされた馬韓の王族が日本の皇室の祖である、とするのがもっと合理的か。その方が、大和朝廷の「朝鮮半島の政治情勢への異常な関心と関与」も、故郷へのノスタルジーとして理解できる。

(以下引用)


史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は、中国王朝28代文丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。

建国後の動向はほとんど伝わらない。『魏略』の逸文によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲したが、東周が衰退すると王を僭称するようになり、周王朝を尊んで燕を攻撃しようとした。しかし大夫[5]が朝鮮王を諌めたので、王は攻撃を中止して、逆に燕に礼(人名)を派遣したので燕は朝鮮を攻めるようなことはなかった。

以降からその子孫は驕慢になり、燕の将軍秦開に攻めこまれ二千里の領土を奪われ[6]満潘汗[7]を国境に定めた。そのため朝鮮はついに弱体化した。が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。その子の準王(箕準)の代になると、秦の動乱によりから朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。ところが紀元前195年、前漢劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。

後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王(はじめ、朝鮮王準が衛満に敗れ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。

矢木毅によると、箕子が朝鮮において、人民教化したことは、『漢書』巻二十八下、地理志下、燕に、

殷道の衰うるや、箕子去りて朝鮮に之き、その民に教うるに禮義・田作・織作を以てす。…貴ぶべきかな、仁賢の化するや。 -『漢書』巻二十八下、地理志下、燕

とあり、楽浪郡支配下の朝鮮人に箕子の人民教化による公序良俗が残存していることを伝えており、楽浪郡支配下の朝鮮の豪族たちが、自らのルーツを箕子による人民教化に結びつけ、周辺民族よりも文明人であると自負しており、この白負は、楽浪郡滅亡後、漢人の支配から解き放たれた朝鮮の豪族たちが、高句麗の支配下で、三韓の支配下で、高句麗や三韓の豪族たちに継承され、後の新羅による三韓統一により、箕子朝鮮は三韓全体のルーツとして位置づけられることになったという[8]

王統[編集]

このような箕子朝鮮の伝説は史実か否かとは別に、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知識人によって熱烈に支持され、箕子は朝鮮族の始祖として顕彰されるとともに、箕子宮・箕子陵・箕子井田などの古跡が盛んに造作された。李氏朝鮮後期に族譜の作成が盛んになると、韓氏によって王統が創作され、その内容は『葉記』(李徳懋)や『清州韓氏族譜』などに見える。

各国の見解[編集]

箕子にはそれなりの歴史的背景が考えられる[9]中国古代金属文化圏では、紀元前10世紀以後、山東の箕族が、殷・周の権威のもとで、朝鮮西部に接する遼寧で活動していた[9]人の東来は、古くから存在した[9]北京市順義県河北省東部、遼西大凌河で其や箕侯という銘の西周初の箕子の時代の青銅器が多数発掘され、箕子と関係づけてとらえる意見がある[10]。『魏略』は「(箕準一族の)子と親族でそのまま朝鮮に留まった者は、みだりに韓姓を称している」と記している。箕子の後裔の箕準一族を名乗り、韓姓を称した者が存在したが、楽浪郡以後、王姓の次に圧倒的な勢力は韓姓だった[9]。現在の韓国の学界では後世の創作として否定しているが、中国の学界では実在したと考えられており、真っ向から対立する。日本の学界では意見が割れており、史料にあらわれる記録は実在の要素と架空の要素が入り混じっているとする説と、時代(前11世紀)頃から朝鮮半島西北部に中国人が一定の集団をなして定住したと思われる周様式に酷似した出土物の顕著な増加を認め大筋に於いて信憑性を認めようとする説とがある。日本の学界は架空性を重視する者でも韓国史学界のような全くの創造とは見倣さず、中国からの移民集団の存在を認める点では日本の学界は中国に近い。










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