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第六章  イエスという「人物」

 

 イエスは大工ヨセフとその妻マリアの子として生まれたが、どうやらヨセフはイエスの父ではなかったらしく、おそらく他の男によって妊娠していたマリアをヨセフがそのまま妻にしたものと思われる。その結果、多分、イエスへのヨセフの対応はよそよそしいものになっていただろうし、他の兄弟との待遇も違っていたと思われる。そのことが、イエスの「自分は神の子である」という妄想を育てたと思われる。イエスが神の子などでないことは、彼の家族の誰もが(特にマリアには)わかっていたことである。後にイエスが故郷に帰った時の、家族に対するイエスのよそよそしい態度から、彼の家族関係が伺える。

 

イエスがまだ群集に話しておられた時、その母と兄弟たちが、イエスに話そうと思って外に立っていた。そこで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「私の母とは誰のことか。私の兄弟とは誰のことか」。そして、弟子たちの方に手をさしのべて言われた、「ごらんなさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。天にいます私の父のみこころを行う者は誰でも私の兄弟、また姉妹、また母なのである」。

             (「マタイによる福音書」第十二章)

 

 また、イエスが十二歳の時に、エルサレムに両親とともに巡礼して、神殿に一人で行き、教師たちと話をしていると、両親が彼を探しに来て、どうしてこんな所にいたのだと聞くと、イエスが「どうして私を探していたのですか。私が自分の父の家にいることをご存知なかったのですか」と答えたが、両親、つまりヨセフとマリアはその意味がわからなかったと、ルカによる福音書第二章にある。これはおかしな話であり、ヨセフはともかく、マリアは懐妊したとき、自分が神の子を産むと聖霊から告げられているはずなのに、イエスのこの言葉の意味が分からなかったとは、つまり、マリアへの受胎告知は無かったというのが事実だということになる。

 ともあれ、イエスは自分が神の子だという妄想を抱いて成長した。そして、この妄想は実に珍しい思想を彼の中にもたらした。それは、自分が神であるならば、人に何を望むかというテーマである。これまでの宗教は、すべて、人が神に対してどうあるべきかという観点から考えられた思想である。だが、イエスの思想は、神の子である自分は、神と人とをどう結びつけるかというテーマで考えられたのである。ここが、キリスト教のユニークさである。その答えは、なぜ自分がこの世に生まれたかという疑問の解答でもあった。

 神が、人間の女を母胎としてその子供を地上に送り込むとしたら、その目的は一つしかない。それは、人間と神とを結びつけるため、つまりアブラハムと神との契約以上に重要な契約のため、すなわち、人間を天国に招くためであるに違いない。つまり、自分、イエスは明らかにキリストであり、メシアなのである。人々はこの自分を経由することによってのみ、神へ至るのである。これがイエスの思想の基本である。そして、キリスト教の土台となった思想である。なぜエホバ教ではなくてキリスト教と言うのか。それは、キリストの教えだからだ。エホバは教えを与える存在ではない。隠れた神である。その神の真実を人々に教えるために自分はこの世に生まれた、とイエスは考えたのだろう。

 そのように考えた時に、彼にとってユダヤの教父たちの存在は憎むべきものとなった。彼らは、何の資格があって、人々に知ったようなことを言うのか。何の権威があって神への導きをするのか。その資格と権威があるのは、神の子である自分だけのはずだ

 神の子である彼にとって、地上の栄華や富が問題にならないのは当然である。生まれつきの貧しさは、彼に貧しさのネガを宗教的にポジに変える思想を考えさせた。それは、地上の栄華や富は天国では無意味になるという思想である。それどころか、天国に入るのに有害ですらある。なぜなら、富も栄華もその持ち主を傲慢にし、神に対する謙虚さを失わせるからである。したがって、「心の貧しきものは幸いである。天国は彼らのものである。」(マタイによる福音書第五章)となる。これは、本来は、「貧しきものは幸いである」だったらしい。また、「富める者が天国に入るのは駱駝が針の穴を通るよりも難しい」とも言っている。ある金持ちの青年には、その持っている財産の半分を貧しい人々に与えなさいとも言っている。これらは、イエスの思想がエッセネ派的な清貧を良しとし、金持ち連中を嫌悪していた事を示している。ほとんど、共産主義に近いくらいの心情である。(そのキリスト教が、なぜ資本主義国アメリカの、金持ち層である共和党の宗教になりえるのか、不思議な話だが。あるいは、彼らは自分では聖書すら読まないような連中なのかもしれない。)

 このようなイエスの教えは、貧しい人々を中心に、広く信仰されるようになった。彼は徴税人とか娼婦のように他人から蔑まれている人々をも差別せず、神への真実の信仰があれば、誰でも天国に行けると教えた。また、ユダヤ教の煩瑣な戒律を否定し、戒律が有効かどうかは、それを行う時の精神の真実さにあると言った。形式的に戒律を守ることは、神の目にはまったく無意味なことなのだと教えた。

 これらのすべての教えは、既成のユダヤ教(特に裕福な連中)の立場からは、まったく憎むべきものだった。そこで、ユダヤの教父たちはイエスを殺そうと考えた。それは、資本主義国の富裕層が共産主義者を目の仇にするのとまったく同一である。

 

 イエスの言葉の中で、自分のことをしばしば「人の子」と呼んでいることに注意したい。これは言うまでもなく「ヨセフという人物の子」ではなく、「人間の子」の意味である。そして、彼は又、神が自分の父であるという意味のことをしばしば言っている。すなわち、彼は自分を「神が、マリアという人間の腹を借りて生ませた子供」であると見なしていたのである。イエス・キリストを信仰するかどうかは、彼を神の子とみなすか、それとも只の人間とみなすかどうかである。しかし、彼が神の子であるかどうかに関わらず、思想家としての彼が、孔子やソクラテスや釈迦と並ぶ人類の教師であることに疑問は無い。キリストの神格化は逆に、彼の思想の意味するものを見えなくすることにつながっている。その顕れが、キリストの思想が捻じ曲げられた、ローマンカソリックなどの「キリスト教」という奇形の思想であり、それらの「キリスト教」は西欧人種の精神をいびつなものとしてきたのである。たとえばドストエフスキーは偉大な作家だが、彼のキリスト教理解は分析によるものではなく、信仰によるものであるから、彼の作品におけるキリスト教を普通の人間が理解するのは難しい。いや、不可能だろう。つまり、理屈ぬきの事柄を理屈で理解しようとするのは不可能なのである。たとえば、信仰的人間は、彼の頭上に広がる一面の星空を見ただけで、神の存在を信じるかもしれない。だが、分析的人間にはそのような理解の仕方はできないのである。だから、私のこの論文は、単に、非信仰的人間が聖書を見れば、どのような事実があったと推定できるかという話である。それは信仰自体の価値を否定するものではない。私はむしろ、論理をこそ冷ややかに見ている人間である。論理など、論理の扱える範囲の問題しか扱えないものだと。



(パソコン不調のため、ここで中止しておく。)

 

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