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神武天皇は伝説の存在であって、実在しなかったという説もあるが、渡来系の古代の実在人物で、大和朝廷を北九州から奈良大和に移した大王だろう。ただ、日本書紀が作られた時には、その後継者たちの事績が不明だったために神武以降の八代の天皇は存在しなかったと学界では思われたのではないか。しかし、先代が実在したからこそ「実質的初代天皇」とされる崇神がその血筋によって皇位に就けたわけで、記録が無いから実在しない、というのは短絡的すぎるだろう。要するに、書くほどの資料の無い天皇の事績は書かなかっただけだと思う。ただし、「天皇」という呼称は実際には天智天皇か天武天皇の時代に作られたと思われる。

崇神記は異常に詳しいが、その最初に興味深い記述がある。
それは、宮中に「天照大神」と「倭大国魂」を二大神として祭っていたことで、その事が国に疫病という災厄をもたらしたと思われたことである。これは、天照大神が皇室の祖、つまり朝鮮から渡来した民族の祖神で、「倭大国魂」はその彼らが駆逐し支配した原日本人の神だったということだろう。しかも、この二神が同居できないとなった時、出て行かされたのは天照大神の方なのである。これは、「祟り神」としては、自分たちが滅ぼした相手の神のほうが怖い、ということではないか。逆に言えば、天照大神は「身内」なんだから多少失礼があっても許すだろう、ということだ。

(以下引用)



崇神天皇(四)疫病で国民の半数が死亡(日本書紀)

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原文

五年、国內多疾疫、民有死亡者、且大半矣。

六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大国魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故、以天照大神、託豊鍬入姫命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。神籬、此云比莽呂岐。亦以日本大国魂神、託渟名城入姫命令祭、然渟名城入姫、髮落體痩而不能祭。

現代語訳

崇神天皇即位5年。国内に疫病が多く発生して、民(オオミタカラ)の大半(ナカバスギ=半分以上)が死亡しました。

即位6年。百姓は流浪し、なかには背くものもありました。(国が荒れる)勢いはすさまじく、徳(ウツクシビ)を持って治めることは難しいほどでした。

そこで眠らず朝まで神祇(アマツカミクニツカミ=天津神国津神)に(疫病がやむように)お願いをしたのです。

これより先に、天照大神(アマテラスオオミカミ)・倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二柱の神を天皇が住む宮殿の中に並べて祀っていました。するとこの二柱の神の勢いが強くて畏れおおくて、共に住むのは落ち着かなくなりました。

そこで天照大神(アマテラスオオミカミ)を豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト崇神天皇の娘)を付けて、倭の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀りました。そして磯堅城(シカタキ=地名か施設名かは不明)に神籬(ヒモロキ=神が降りる場所。後には神社を表す)を立てました。
神籬は比莽呂岐(ヒモロキ)といいます。

日本大国魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)は渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ=崇神天皇の娘)を付けて祀りました。しかし渟名城入姫は髪が抜け落ちて祀ることが出来ませんでした。
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