父と原稿で思い出した話
まだ実家で描いてた頃に
台所の雨漏りを修理するからと
二階の私の部屋(屋根に出られる)に父が来たので
ちょうどいいとお茶飲みに行き
戻って窓の外みたら靴下の汚れ防止に
描きかけマンガの原稿を足の下に敷いてた
描いた面が下
超怒ったけど全然通じず
とんでもなかった
山上たつひこの自伝的エッセイの一部で、「自分の武器」を手に入れていない時代の創作者の創作の状態がどんなものかよく分かる。満蒙開拓団の青年を主人公にしただけでも、「光る風」を後に描いた人間の志向性が分かる。本質的に真面目な性格だからこそ、「がきデカ」のギャグも生まれたのではないか。その真面目さ(あるいは人生の悲惨や不条理)への疑いを持つ時にその落差から笑いへの切り口が生まれる。
赤字にした部分は創作初心者へのアドバイスになりそうだ。
(以下引用)
「国境ブルース」は満蒙(まんもう)開拓団の日本人青年とロシア娘の愛と別れを描いた物語である。
「愛と別れ」とはミもフタもないけれど、この作品についてはそれ以外の言い回しを探す気力が湧かない。
ぼくは旧満州を舞台に、映画「ドクトル・ジバゴ」の向こうをはって一大抒情詩を謳い上げるつもりであったようだ。むろん、抒情詩にも何にもならなかった。主題を曖昧(あいまい)においたまま描き始めたため、焦点が所在不明のぼやけた戦争ドラマになってしまった。時代考証は御座成(おざな)りで、登場人物の性格づけや相関関係もありきたりだった。そして絵──、ぼくのペン先からおずおずと現れる描線ときたら誰かの借り物のようだった。これは「神代の国にて」においても同じことが言える。ぼくの肉体から精神が離脱して抜け殻になったぼくの姿を見ている。抜け殻のぼくは漫画を描いている。
「心ここにあらず」ではない。文字通り心は抜け出して空っぽなのである。浮遊する存在であるぼくは筋肉の記憶だけでペンを蠢かせる漫画家を(こいつはどこへ行き着くつもりなのだろう)とハラハラしながら眺めている。
ギャグという手法を手中にするまでのぼくはおおむねこんな精神状態で仕事をしていたように思う。
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「縁なき衆生は度し難し」というテーマが共通するツィートとブログ記事を載せておく。後者は「神戸だいすき」より。
(以下引用)
「話せばわかるんだ」と、40歳過ぎまで信じていました。
それが「話してもわからない。話せば話すほど遠ざかる」ことに気付いたのは45歳ごろです。
話すことによって、互いの違いが鮮明になるので、いさかいは大きくなるだけでした。
初めは、話し方が悪いのか、下手なのかと思いました。
確かに、相手の欲しがるものを、エサを投げれば、うまく食いつくかもしれない・・・それも、技だろうけど・・・
ついには「話さなければわからない相手は、話してもわからない」と、悟りました。
それは「わかる」というメカニズムを理解できたからでした。
「わかる」というのは、基礎に「共通認識」があるときのことです。
過去に同じ体験をしたとか、境遇が似ている、
そういう時には、互いに分かり合えることが多いのです。
ことばに出さなくても、目と目でわかる。
時には、瞳を見交わさなくても、わかる。
けれど、同じベースを持っていない人とは、話してみてもかみ合いません。外国人としゃべっているようです。
(中略)
子供を亡くした親の気持ちは、無くしたことのないモノにはわかりません。
話してもらっても、わかりません。
あるいてきた道や、周囲の景色が違う人とは、完全に理解し合うことができない。
まして、故郷の話なんか、故郷が違えば、なにもわからない。
思想や、ものの考えかた、判断にしても、同じです、
共通認識なしに、語り合うことなど出来ない。
相手が、今の安倍政権のやっていることを知らなければ、いくら「けしからん」と言っても伝わりません。
放射能被害にしても数値や、程度に共通の認識が無ければ、同じ結論は出ないのです。
話すほど、心は離れていきます。
話せばわかる?
どんでもない。話さなければわからない相手は、話してみてもわかりません。
わかるように「基礎知識を教える」にしても、問題意識をもって、自力で検索した人と、あてがわれた人では考え方が違います。
どこか、似た者同士で、同じような体験をして、同じような価値観を持つ人となら、ヒントになる言葉を、投げ合うだけで、お互いの考えがわかる。
今ここに同席していても、昨日までの歩み方が異なれば・・・話してもわかりようがありません。
話し合いが有効なのは、話し合いができる組み合わせの時だけです。
(以下引用)
山本貴嗣さんがリツイート
「話せばわかるんだ」と、40歳過ぎまで信じていました。
それが「話してもわからない。話せば話すほど遠ざかる」ことに気付いたのは45歳ごろです。
話すことによって、互いの違いが鮮明になるので、いさかいは大きくなるだけでした。
初めは、話し方が悪いのか、下手なのかと思いました。
確かに、相手の欲しがるものを、エサを投げれば、うまく食いつくかもしれない・・・それも、技だろうけど・・・
ついには「話さなければわからない相手は、話してもわからない」と、悟りました。
それは「わかる」というメカニズムを理解できたからでした。
「わかる」というのは、基礎に「共通認識」があるときのことです。
過去に同じ体験をしたとか、境遇が似ている、
そういう時には、互いに分かり合えることが多いのです。
ことばに出さなくても、目と目でわかる。
時には、瞳を見交わさなくても、わかる。
けれど、同じベースを持っていない人とは、話してみてもかみ合いません。外国人としゃべっているようです。
(中略)
子供を亡くした親の気持ちは、無くしたことのないモノにはわかりません。
話してもらっても、わかりません。
あるいてきた道や、周囲の景色が違う人とは、完全に理解し合うことができない。
まして、故郷の話なんか、故郷が違えば、なにもわからない。
思想や、ものの考えかた、判断にしても、同じです、
共通認識なしに、語り合うことなど出来ない。
相手が、今の安倍政権のやっていることを知らなければ、いくら「けしからん」と言っても伝わりません。
放射能被害にしても数値や、程度に共通の認識が無ければ、同じ結論は出ないのです。
話すほど、心は離れていきます。
話せばわかる?
どんでもない。話さなければわからない相手は、話してみてもわかりません。
わかるように「基礎知識を教える」にしても、問題意識をもって、自力で検索した人と、あてがわれた人では考え方が違います。
どこか、似た者同士で、同じような体験をして、同じような価値観を持つ人となら、ヒントになる言葉を、投げ合うだけで、お互いの考えがわかる。
今ここに同席していても、昨日までの歩み方が異なれば・・・話してもわかりようがありません。
話し合いが有効なのは、話し合いができる組み合わせの時だけです。
特に目的の無い、思考メモ
・古いジャズメンの名前をキャラクターの名前に使うこと
(例)マイルス&デイビス兄弟、剛腕ルイ(サッチモ)、サッチモのコンビのニッチモ、コルトレーン教授、etc
・鳳凰が「回復薬」と同じ効果の歌を歌うRPG 、その住む近くにはホウオウボクがある。
・月の出は地球の自転によるものとしたら、月の公転(?)は地球から見てどのような回り方なのか。東西方向か南北方向か、それとも、どちらでもない? 仮に東西方向だとしたら、月の出は地球の自転と月の公転(?)の複合現象か。(月の公転は、月の満ち欠けに関するもので、約1か月周期だから、毎日の月の出にはあまり関係しない、関係しても、月の出が毎日少しづつ遅くなる、という現象としてのみ関係する、そして公転軌道は地球の東西方向というのが正解かと思われるが、小学生レベルの頭ではなかなか理解が難しい。)
・「ステンカラージン」の「うつつにはなやぐ笑みこそあわれ」の「うつつに」は「夢うつつに」の意味であって、このような用法の「うつつに」の使い方も多いのではないか。
・「あはれ(あわれ)」は感動を大雑把に表すもので、喜び悲しみいずれにも使い、もともと「ああ、はれ」だったとされている。その「はれ」とは、「何かが突出する」意味だと思われる。「ああ、はれ」とは「ああ、思いが胸から溢れ出る」意味かと思う。「晴れる」とは「雲に閉ざされた中から光と青空が突出拡大してきた」意味、「腫れる」は、「皮膚の下から皮膚を持ち上げる何かが突出してきた」意味、「春」は、「寒さと暗さの季節から、暖かさと明るさが突出してきた」意味。「はる」は突出だけでなく拡張や膨張の意味もあり、「張る」がそれ。腹が張る、弓に弦を張る、など拡張や膨張やそれらを引き締めることに伴う強い緊張状態をも表わす。
・古いジャズメンの名前をキャラクターの名前に使うこと
(例)マイルス&デイビス兄弟、剛腕ルイ(サッチモ)、サッチモのコンビのニッチモ、コルトレーン教授、etc
・鳳凰が「回復薬」と同じ効果の歌を歌うRPG 、その住む近くにはホウオウボクがある。
・月の出は地球の自転によるものとしたら、月の公転(?)は地球から見てどのような回り方なのか。東西方向か南北方向か、それとも、どちらでもない? 仮に東西方向だとしたら、月の出は地球の自転と月の公転(?)の複合現象か。(月の公転は、月の満ち欠けに関するもので、約1か月周期だから、毎日の月の出にはあまり関係しない、関係しても、月の出が毎日少しづつ遅くなる、という現象としてのみ関係する、そして公転軌道は地球の東西方向というのが正解かと思われるが、小学生レベルの頭ではなかなか理解が難しい。)
・「ステンカラージン」の「うつつにはなやぐ笑みこそあわれ」の「うつつに」は「夢うつつに」の意味であって、このような用法の「うつつに」の使い方も多いのではないか。
・「あはれ(あわれ)」は感動を大雑把に表すもので、喜び悲しみいずれにも使い、もともと「ああ、はれ」だったとされている。その「はれ」とは、「何かが突出する」意味だと思われる。「ああ、はれ」とは「ああ、思いが胸から溢れ出る」意味かと思う。「晴れる」とは「雲に閉ざされた中から光と青空が突出拡大してきた」意味、「腫れる」は、「皮膚の下から皮膚を持ち上げる何かが突出してきた」意味、「春」は、「寒さと暗さの季節から、暖かさと明るさが突出してきた」意味。「はる」は突出だけでなく拡張や膨張の意味もあり、「張る」がそれ。腹が張る、弓に弦を張る、など拡張や膨張やそれらを引き締めることに伴う強い緊張状態をも表わす。
プロフィール
HN:
冬山想南
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