忍者ブログ
[1]  [2]  [3]  [4
私は日本の現代小説、特にSF小説は初期の御三家(小松、星、筒井)とその少し後の広瀬正や半村良以外はほとんど読んでいないので、山本弘の作品は当然読んでいない。そもそも日本の今のSF小説が好きという人は珍しいのではないか。
下の記事の中で山本弘が書いていることは、そういう「SF外」人間から見ると、ずいぶんな自惚れだなあ、と思えるのだが、彼の作品は自分で言うほど「面白い」のだろうか。もし面白いなら、ある程度のベストセラーになったはずだが、彼の本が売れたという話は一度も聞いたことが無いのである。そもそも、SF小説でベストセラーになった例はここ十年いや、二十年ほど無いのではないか。
それに、「と学会」を自分のファンクラブと思っているところが凄い。外部の人間から見れば、「と学会」は冗談半分の学会であり、特に誰が中心ということはない集団というイメージで、山本弘がその会長であるというのは、一部の人間しか知らないと思う。
作品を読んだことが無いので文章の印象から憶測で言うのだが、この人は「お勉強」的な意味で頭が良くて記憶力や論理構築力、整合性を緻密にして何かを組み立てることが得意なタイプではないかと思う。その反面、大胆な構想や破天荒なユーモア(つまり、小松左京、筒井康隆的ユーモア)とは無縁の人のように思える。つまり、視野がひどく狭い、小動物的なタイプに思える。


(以下引用)

と学会の興亡・その四

 僕かと学会をやめようと決心したある事件がある。

 その頃、と学会の例会はある駅の5階か6階(もう記憶か曖昧だ)にあった。そこまで上るのはもちろんエレベーター。ちょうど季節は2012年の春。窓の外には完成が近づいた東京スカイツリーがよく見えた。僕はその日、一人のと学会会員といっしょにエレベーターにのった。

「もうじき完成てすね、スカイツリー」

 するとその若者はこう言ったのだ。

「最初にスカイツリーを壊しに来るのはどんな怪獣なんでしょうね?」

 僕は息が止まるほどのショックを受けた。

 スカイツリーを壊しに来る怪獣? そんなもの決まっている。怪獣6号ゼロケルビンだ。チルソギーニャ遊星人に操られて東京に襲来、スカイツリーの上でヒメと激戦を繰り広げるのだ……。

 そう、『MM9』の続編『invasion』。僕はそれを2011年に描いた。スカイツリー完成の前の年だ。当然、僕の読者なら知っているはずだ。

 僕はその体験の直後に、と学会会員の言動に目を走らせはじめた。そして直ちに、それまで気づかなかったことに気が付くようになった。

 みんな僕の小説の話を聞こうとしない。

 『MM9』だけではなく、他の小説についても同じことが言える。たとえば『BISビブリオバトル部』などは本の好きな人間ならたまらないとおもうのだが。他にも『夏葉と宇宙へ三週間』とか『僕の光輝く世界』とか『UFOはもう来ない』とか面白い作品は山ほどある。まあと学会の中でも原田実さんや開田裕治さん夫妻などは特撮関係の著書にも詳しいけど、それ以外の一般のと学会の関係者はあまり本を読んでいない印象である。

 こうなる前に皆神龍太郎さんが言っていた言葉を思い出した。「と学会会員は山本さんの下で遊んでるんだ。つまりみんなに遊び場を提供するのが山本さんの役目なんだ」と。

 僕はその言葉を噛みしめた。僕の役割とは、単に遊び場を提供するだけ。と学会の会員には僕の小説を読んでいない人が多い。

 それに気づいたとき、僕は会長の座をやめようと決心した。

 僕は「と学会の天皇」なんて空虚な座は欲しくかった。

 僕の望みはただひとつ、小説を読んだ人に「面白かった!」と言ってもらえることだったから!

PR
読者投稿欄の写真はコピーしていないが、それを見ると、後にプロになった二人が掲載者の中では模写(似顔絵)が一番下手であるところが面白い。つまり、(年齢的なこともあるだろうが)個性が強くて、模写には向かないのだろう。ついつい、自分好みの顔にするのだと思う。
或る種の長所は短所でもあり、短所は長所でもある、という人生訓になりそうだ。
ツィッターでよく見るが、異常に精密な絵(まあ、写真を下敷きに描いたのだろうが)を描ける人の数はかなり多いのだが、そうした人が画家になっても「魅力的な絵」は描けないだろうな、と思う。

(以下引用)

松苗あけみ先生の話題の新刊「松苗あけみの少女まんが道」に“1970年頃の少年サンデーに似顔絵投稿が載った”という件があり、家にあるかもと思って探してみたら… 1970年10月4日号に、当時14歳になる前の松苗先生の投稿が そして左下は、当時13歳の魚戸おさむ先生?(出身も北海道で合ってるし)
これは、すべての小説に当てはまる言葉ではないだろう。確かに、内面描写の多い小説はつまらなくなりがちだとは思うが、小説の最大の長所は「心理描写ができること」と、「現実では不可能な空想が書けること」だと私は思っている。後者に関しては、映像より優れていると思う。簡単な話、確か、三島由紀夫が言っていたと思うが、ある人物を「美女(美男)である」と書けば、何も特別に描写しなくても、読み手それぞれが勝手に自分の好きな美男美女を想像してくれるが、映画だとどんな俳優が演じても、「これは私の想像とは違う」と思う人が大半だろう。
なお、漫画の創作法で、「キャラが一番大事」という考え方にかなりな支持者がいると思うが、話がつまらないとどんなキャラを出してもやはりつまらない漫画にしかならないと思う。よくある「日常もの」の漫画でも、実はそこに高度な物語(あるいはギャグや着想)が高度な技法で描かれている場合に名作や傑作になるはずだ。
そもそも、面白いキャラ(読み手に愛されるキャラ)を「作る」ほうが、面白い話を考えるより困難なのではないだろうか。低レベルな漫画の「面白いキャラ」と作者が思っているのは、単に非常識なだけの変人であり、高レベルな漫画になると、そこに「愛される要素」が入ってくる。たとえば、漫画だと「見かけ」だけでも愛される要素になる。これは小説ではできない、漫画だけの利点だろう。最近のライトノベルの表紙や挿絵が萌えキャラばかりになった理由はそこにある。安易と言えば、実に安易だが効果的なのだろう。

(以下引用)

ストーリーの書き方
@kakuniha
「登場人物の気持ち」は言わなくていい、ずばり「事の成り行き」を書けばいいんだ。人物が何を考えてるかということを、作者が言わなくても読者はわかる、というように書かなくちゃだめだ。(レイ・ブラッドベリ)出典:
まったく調べないままで書くのだが、思いついたことを書いておく。

日本では昔キリスト教徒やその教父、あるいは外国人全般を「伴天連(バテレン)」と言ったのだが、これは「パードレ」から来ていて、その「パードレ」とは「ファーザー(師父)(教父)」のことではなかったか、というのが私の思い付きである。

とある時代劇小説(横溝正史の少年向け小説)を読んでいて、その中に「パードレ」という言葉が出てきた時に、ふと「バテレン」の語源はこれではないかと思いついたのだ。
田中圭一の「ゲームっぽい日常」のある回の読者コメントだが、内容が優れていると言うより、丁寧に考察しているのがいい。特に、弱者側の人間は弱者いじめを笑えない、というのは当たり前だが実際にその立場の人から言われると実感がある。なお、小林よしのりの「普通を知らないと異常が書けない」はべつにギャグの定義ではないような気がする。異常というのが笑いの最大の要素であるというだけで、或る種の異常はむしろ恐怖や絶望の対象だ。もちろん、恐怖と笑いの親近性は多くの人が指摘している。
私が「落差が笑いを生む」というのも、正常と異常の落差と言ってもいい。あるいは予想と実際の落差のこともある。歩いている人間を見れば、誰でも次の瞬間も相手が歩いていると予想するが、それが転ぶ(こける)と驚き、その驚きは、相手が無事なら笑いとなり、大怪我をしたら恐怖になる。(今考えたが、転ぶことを喜劇創造の世界で「こける」というのは、「こけ」には愚か、白痴の意味があるからではないか。転んだ状態の人間は尊厳を失い、馬鹿やピエロ同然の「笑うべき存在」になる。)

(以下引用)



紅茶
2017年10月18日 19:44

笑いの仕組みは昔から気になってました。横から長文しつれいします。

個人的な見解ですが、多分、不条理ギャグ(一発ギャグ)って、公式がないようでいて、基本は抑えてるから面白いと思います。

うちだすみを著「基本マンガ」に「笑いのテクニック」のページがありますが、不条理ギャグについてはこう書いて有ります「ただ、面白い言葉を連ねても面白くない」と。
(例題に「アカチャカベッチャカ、スースースーダラスー」とわけのわからない言葉+突っ立ったキャラが書いてあるが全く面白くない)

確か、小林よしのり先生がおっしゃってた気がしますが(初期のゴーマニズム宣言で)、
ギャグの定義は「普通を知らないと、異常が書けない」だそうで。

「普通は読者が知ってるので(平均的共通項)、そこに異常を同時に見せることで笑いが生まれる」という方程式でした。
(例:学校ではじっと席に座って授業を受けるものだ
 →ところが主人公は席に座らず、教室でターザンしている→先生が注意するのがシュール→笑いのように)

私は個人的に、現在のバラエティの笑いは、テレビの前で実際アハハと声に出して笑ったことがほとんどありません。同情の笑い、そういうこともあるよな、的笑いばかりです。家族も似たようなものです。

ネットのインディーズが書いているギャグ小説(かなりニッチな設定のジャンル)のほうがよっぽど素直に声を出して笑えたりします。

なんというか、最近のギャグは「いじめ、誰かをいじる、叩く、セリフに偏りすぎてる、誰か特定のカテゴリを貶める」ようなギャグばかりで、つまらないです。

現在のあるあるネタも、気をつけないと「そのカテゴリの人を貶める」ことになりますし。
(だから最近、「今現在の人には直接関係ない」戦国時代などの過去の偉人や、雑学をテーマにした作品が多いのかもしれません)

私は生まれつき障害者で、弱者側の人間なので、
ぶっちゃけ、ドラマやバラエティで「普通」ということになっている舞台や環境、セリフに全く共感できません。「ハリポタと同じファンタジー」だと思いながら、見ています。
「そうそう、こんな世界あって、こういうことができたら笑えるだろうな」みたいな。

「仕事先の銀行で大金を横領してキャバクラ開いた」
→仕事いくとなぜか首になるので、そこまでやったことないので想像できない
→ご飯食べられるだけで幸せなのに、なんで大金とるの?

「ふらりといった旅行先で殺人事件に巻き込まれた、大変!」
→障害上、頭の中で考えながら行動できないので、修学旅行のしおりのように「これから何が起きます」とあらかじめ分単位で予定された通りに行動しないと、外に出られませんが何か?

なんというか、私が障害もちで特殊なせいかもしれませんが、多分一般レベルでも
「普通の定義が普通じゃなくなってきている」せいもあると思います。

「普通にご飯を食べ、進学し、就職し、結婚し、普通に子供を持ち、普通に育児やって、普通に家を買って、普通に年金を受けて老後を生きる」
この普通の前提が今は全部崩壊しているので、「笑いを生むための平均的な共通項」がなくなってきてるのです。

ある意味、教育やインフラや歴史が崩壊してて、共通言語もない多民族の途上国で
「何をやったら相手(どんな背景持ってる人か全く想像できない相手)は笑ってくれるのか?」を考えるのと同じ状態です。

だから「メチャクチャ」「カオス」「おかしな動き・言葉」しか
もはや笑いを作る方法がないのかもしれません。

「普通が崩れてしまった」状態だから、「その場のおかしなセリフの繰り返し」「素っ裸」「ゾンビ(人を食う、死なない)」など、一目でわかる「異常」、「いじめたり殺してもどこからも文句がこない存在」を演出しないと笑いやネタが取れなくなったのかもしれません。

これ、冷静に書いてみると、統合失調症か、精神異常者の行動とあまり変わらないようにも見えますね。(障害者側からいうのもナンですが)

つまり、精神異常者の行動は「笑える」ってことですけど(少数派、異常なので)
それをうまく書き換えて普通に見える人が演じる・またはものすごく異常な格好した人がやることで、ギャップで笑いを作ろうとしてますけど

ネタの根底が「弱者、障害者」なので、一瞬は笑っても、ずっとヒットする・長年親しまれるような笑いに根付かないんじゃないかなーと思ってます。

笑いの根底とは「おどけて、いじられたいと思っている人が笑われる」
(個性がたまたまあるけど、いじられたいと思ってないのに、回りが勝手に「かまってあげてる」と解釈していじると、いじめになる)

「そうじゃないだろ」とツッコミ待ちのボケ

頭がいい人・権威ある人がなぜか「実は当たり前のことができない」、といった「万能の空白」
のような、オーソドックスな笑いが結局ずっと使えると思いますが…

親父ギャグ、一発ギャグ…これはちょっともう古すぎてダメなんでしょうね。
なんというか笑いを作ろうとしても、余裕がなさすぎて。
どちらかというと、笑いの代わりに「癒し」を求めてる気がします。

笑いは「希望や元気」があると欲しいものですが、今現在、世の中に希望や元気がないので
まず疲れを癒して、回復して、元気になってから、「笑えるものが欲しい」と思うかと。

安心の定義も崩れ、エネルギーがかなり低下していて、回復・治療・希望作りを
まず先にしないと、笑ったり、何か生み出す元気もない状態のような気がします。

<<< 前のページ HOME 次のページ >>>
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.