作品そのものが現在ではさほど読まれていないのが、原作の作品価値の水準を示していると思う。
(以下引用)「オズの魔法使い」の原作を絶賛し、映画をけなしているところに彼のスノッブ(知的俗物)ぶりが分かる。
新潮文庫 2012
Lyman Frank Baum
The Wonderful Wizard of OZ 1900
[訳]河野万里子
装幀:品川卓ー 装画:にしざかひろみ
千夜千冊をいつまで続けられるか、わからなくなってきた。書いておきたかった本はまだまだ残っているのに、ほったらかしだ。好きな地域を長旅していながら立ち寄るべきところをその都度の事情で次々にスキップしてしまったようで、まことに所在なく、なぜあの本を採り上げていないのかという問いに答えるべき弁解の所存もない。うーん、困ったことだ。
書いておきたい本はいくらでもある。たとえばモンゴル帝国やトルコ民族の歴史をめぐる本である。ボルツマンやバシュラールである。将門の乱や山崎閣斎の垂加神道の本である。ル・クレジオやル・グインの本である。また阿部和重・奥泉光や川上未映子・赤坂真理以降の日本の現代作家の作品、ミハイル・バクーニンからデヴィッド・グレーバーに及んだアナーキーな思索仮説である。
或る本を扱わないままできたために、その後続に挑んだ本を紹介しそこなう羽目に陥っていて、なんとも気分が悪くなっていることも少なくない。その或る本が仮にデリダだとすると(まさにデリダはそういう類いの一冊だが)、その後のカンタン・メイヤスーからグレアム・ハーマンまでの百冊近くが読みっぱなしになった状態で、そんな身勝手な放置を10年ほども続けていると、一連の流れが自分のなかで宙吊りになってしまうのだ。
なるほど思弁的実在論にはいろいろ文句があるけれど、とはいえ千夜千冊は文句をつけたくて始めたものではないから、むしろスティーヴン・シャヴィロや上野俊哉や森元斎の本を紹介してぼくの見方につなげようと思っていたのに、そうでなければホワイトヘッド(1267夜)に話を戻してでも、ぼくの見方を洩らしてもよかったのに、その界隈すらついつい書きあぐねたままになった。こんなことも、しょっちゅうなのである。
きっと考えすぎなのだろう。千夜執筆中におこる創発を課しすぎているのだろう。これではいっこうに嘖々(さくさく)しない。
対策がないわけではなかった。一つ、何食わぬ顔で突然に懸念の本を採り上げてもよかった。二つ、一冊ずつの感想をうんと短くして冊数をこなしてもよかった。三つ、ぼくに代わって先駆的に流れを追った先達たちの本を早めに案内する手があった。けれども、なぜかそういうふうにしたくなかったのだ。
最近になって妙に読書量がふえてきているのも、センセン(千夜千冊)の循環を悪くしている。体がすぐに疲れてしまうので仮眠をとるのだが、長年にわたって誘眠感覚のときにこそモルフェウスの神とともに本を読みながら何かを考えるというエクササイズをしてきたので(絶好調で本を読むことにずっと問題を感じてきたので)、このところ体重が45キロを下回ってすぐに疲れるようになっても、書斎のリクライニングチェアで仮眠をとろうとしながらも、その姿勢でついつい数冊を、あっというまに読み耽ってしまうのである。これがまた、なんともうとうとするような暇(いとま)なのである。ほんとうに困ったことだ。
そうした日々になってみると、ずっと昔に読んだ本が新たな本を読んでいる渦中に蘇ってくることも多くなってきて、それをどうしたものかとも悩んでいる。なかでも童話、メルヘン、ファンタジー作品である。
実は15、6年前にもそういう予感がして、少年期から読んできたファンタジーやメルヘンや童話や子ども向けを含む冒険ものやミステリーの類いを、ぼくなりの方法で千夜渉猟するプランを組み立てていて、片っ端から書くつもりになっていたのだが、着手しないままになった。
このときはまず『マザーグース』を真ん中において、それ以前とそれ以降に本がとびとびに連鎖するようにしておいて(たとえば、以前にドイツ浪漫派、以後に小川未明やSF)、そこからなんとしてでもトールキンの『指輪物語』に至ろうと考えていた。『指輪物語』こそ20世紀後半に始まるファンタジー爆裂の原点を組み立てた金字塔であったからだ。ところがマザーグースも指輪も採り上げられないまま、今日まできてしまったのである。あーあ、まったくもって、なんてことだ。
というわけで、今夜は突如として『オズの魔法使い』を採り上げる。1900年の作品だ。ポーを別にすれば、アメリカ最初のファンタジーである。ここから20世紀アメリカが始まった。
ヨーロッパの20世紀はフロイトの『夢判断』で、科学の20世紀はプランクの量子定数で、アメリカはOZで、日本の20世紀は与謝野晶子の『みだれ髪』で、幕が開いたのである。
ほったらかしにしてきたファンタジー作品群の中でなぜOZを選んだのかというと、さしあたって二つほど、理由がある。ひとつには千夜千冊の魂胆からすると、作者のライマン・ボームが早くからマザーグースの新たな構成編集にとりくんでいて、そこからオズの着想に及んだという経緯をもっているからだ。OZの成功はマザーグースが母型(マザー)になっているからだ。
もうひとつは、OZはその後にアメリカン・ポップカルチャーによってあまりにも勘案されすぎて、原作を語る文化が萎えてしまったということがある。それがディズニー・アニメや『スターウォーズ』やアタリに始まるゲーム世界に移植されて商業的には当ったのだけれど、それではOZは伝わらない。そこを訂正しておきたい。ぼくは、ミュージカルやハリウッド映画によるOZの大衆化には一度も感心しなかった。
原作が二次制作物になってひどくなった例はいくらでもある。『嵐が丘』『罪と罰』『レ・ミゼラブル』『不思議の国のアリス』『アレクサンドリア・カルテット』などが、そうだ、いずれも映画化されたものはつまらなかった。なかでもOZが一番卑俗になった。ボームがかなり工夫を凝らしているにもかかわらず、映画やミュージカルはボームの狙いを刈り取りすぎた。
何が刈り取られていったかは、以下にメモ含みで話の筋書きを紹介しておくので、察してほしい。
なお、私は「中絶の当否の結論は最終当事者である女性の意志に任せるべきだ」という考えである。「父親」の意見など、頭の片隅にでも入れれば十分だろう。産むのは女性なのだから。男は妊娠や出産の苦痛や苦労の1%も肩代わりできない。つまり、口出しする権利はない。
下の孔徳秋水氏の意見は「胎児の人権が重要だ」という思想だと簡単にまとめることができるだろうが、私は胎児の人権は無いという意見だ。無事に生まれてから人権の対象になる。
別の言い方をすれば、「胎児には母親の人生を破滅させる権利はない」とも言える。さらに別の言い方をすれば、胎児の段階では、それは母親の体の一部でしかなく、その処置権は完全に母親にある、とも言える。私が爪や髪を切るのに、誰かの許可がいるか?
ただ、母親となる人は、自分の腹の中の子供が「無限の可能性を持った存在だ」と考えるべきだと思う。それがブッダやキリストであるなら、その胎児を殺すことはどういう意味を持つだろうか。「アタイがキリストを殺せるなんてオモシレー」と考えて殺すだろうか。
(以下引用)
テレビや新聞があるせいで、日本はファッショ化しているのである。
そして、最近は、これにネットが乗っかってきている…
めちゃくちゃヤバイ。
よって、「中絶問題」も、同様のファシズム形成工作に使用されている。
「ジェンダー」も「多様性」も、めちゃめちゃヤバいのであるが…
この「中絶問題」で恐ろしいのは、「優生思想」が語られているところである。
「産む産まないは女性の権利」…
これ、言いなおせば、生まれる前なら、
赤子を生かすも●すも「女性」が「好きにしてよい」ということである。
これは、武器を持つ方が、
相手を生かすも●すも「正義」の側が「好きにしてよい」という論理と同じである。
こういう論理を公然と日本のメディアが「正当化」し、「拡散」している。
これを「おかしい」と思わないとすれば、かなり「頭のおかしい」人であろう。
そして、これが、いまの日本のメディアの現状だということ…
いまの「社会」も「経済」とされているものも…
「いのち」をみていない。
人間が、「モノ扱い」され…
だれかの都合で「ランキング」され…
拾われたり、捨てられたりする…
1:不徳義漢こそが歴史を動かす
2:英雄とは、ほとんどが大量殺人者である
の2点であるが、まだ思想が熟していないので、メモだけにする。
潜在意識が「これから死ぬぞ」という信号を出し、これまでの「どうでもいい些事(仕事含む)への懸念」を消去した結果、脳が明晰になるのかもしれない。
有名人でも、かなり明晰な意識のまま死んだ例はけっこうあるはずだ。「コレデオシマイ」と言って死んだのは誰だったか。森鴎外は「くだらない」だったか。これも明晰な意識の事例だろう。
(以下引用)
Terminal lucidity(Paradoxical lucidity)と呼ばれる現象 theguardian.com/society/2021/f 終末期明晰。何年も認知症だった人が死ぬ直前(数時間~数日)に首尾一貫した会話ができるようになるケースあるのだそうだ。脳が突然正常に戻るしくみ不明。これまで全然研究されてなかったが米国で研究プロジェクト開始
下の記事の中で山本弘が書いていることは、そういう「SF外」人間から見ると、ずいぶんな自惚れだなあ、と思えるのだが、彼の作品は自分で言うほど「面白い」のだろうか。もし面白いなら、ある程度のベストセラーになったはずだが、彼の本が売れたという話は一度も聞いたことが無いのである。そもそも、SF小説でベストセラーになった例はここ十年いや、二十年ほど無いのではないか。
それに、「と学会」を自分のファンクラブと思っているところが凄い。外部の人間から見れば、「と学会」は冗談半分の学会であり、特に誰が中心ということはない集団というイメージで、山本弘がその会長であるというのは、一部の人間しか知らないと思う。
作品を読んだことが無いので文章の印象から憶測で言うのだが、この人は「お勉強」的な意味で頭が良くて記憶力や論理構築力、整合性を緻密にして何かを組み立てることが得意なタイプではないかと思う。その反面、大胆な構想や破天荒なユーモア(つまり、小松左京、筒井康隆的ユーモア)とは無縁の人のように思える。つまり、視野がひどく狭い、小動物的なタイプに思える。
(以下引用)