RT>これちょっとわかるような気がします。 僕も美少女系の絵柄のアニメがどちらかというと苦手だった時期がそこそこ長いのですが(実際エヴァから10年くらいアニメにタイムラグがあって、『ハルヒ』も『けいおん』もアシさんに勧められるまで見れなかった)、今ではすっかり魅力的に感じてるもんなあ。
「映像研」の浅草氏ではないが、「設定」を考えるのは、男の子のほとんどが好きだろう。浅草氏ほか電撃三人娘は女の子だが、「冒険」や「探検」など、やっていることは男の子の遊びである。金森氏は大人目線ではあるが、いわば遊びの「参謀」ポジションか。
で、私も昔の男の子として、この年になっても棒切れなどを持つと嬉しくなる。つまり、「武器」が手に入った喜びだ。これは女の子にはあまり見られない感情なのではないか。女の戦いは「言葉による戦い」つまり頭脳戦であり、「武器を持って戦う」ことにあまり関心は無さそうである。肉体的闘争でも、噛みついたり頭髪を引っ張ったり、爪で引っ掻いたり、むしろ原始的と言うか、動物的だ。男は、まず手近な武器を探しそうな気がする。
で、小雨などが降っている時に傘を持って外に出ると、その「武器を手にした喜びと安心感」を私は持つのだが、これは私だけだろうか。それとも多くの男に共通の感情なのか。
もちろん、傘ではたいした武器にはならないから、そこで「設定」を考える。
この傘が、いかにして武器に変貌するか。もちろん、空想だから、非現実的設定でいい。
たとえば、銃身の細い(口径の小さい)ライフルになるとか、先端部分に尖ったキャップを被せて手槍(あるいはフェンシングの剣みたいなもの)にするとか、などだ。
傘の骨も、弓の矢になるとか(弓の本体部分は傘の軸の一部を取り出して組み立てる)、いろいろである。傘自体、広げれば、銃弾を跳ね返す盾にもなる、くらい非現実的設定でいい。未来にはそれくらい丈夫な布が生まれている、というわけだ。
で、私も昔の男の子として、この年になっても棒切れなどを持つと嬉しくなる。つまり、「武器」が手に入った喜びだ。これは女の子にはあまり見られない感情なのではないか。女の戦いは「言葉による戦い」つまり頭脳戦であり、「武器を持って戦う」ことにあまり関心は無さそうである。肉体的闘争でも、噛みついたり頭髪を引っ張ったり、爪で引っ掻いたり、むしろ原始的と言うか、動物的だ。男は、まず手近な武器を探しそうな気がする。
で、小雨などが降っている時に傘を持って外に出ると、その「武器を手にした喜びと安心感」を私は持つのだが、これは私だけだろうか。それとも多くの男に共通の感情なのか。
もちろん、傘ではたいした武器にはならないから、そこで「設定」を考える。
この傘が、いかにして武器に変貌するか。もちろん、空想だから、非現実的設定でいい。
たとえば、銃身の細い(口径の小さい)ライフルになるとか、先端部分に尖ったキャップを被せて手槍(あるいはフェンシングの剣みたいなもの)にするとか、などだ。
傘の骨も、弓の矢になるとか(弓の本体部分は傘の軸の一部を取り出して組み立てる)、いろいろである。傘自体、広げれば、銃弾を跳ね返す盾にもなる、くらい非現実的設定でいい。未来にはそれくらい丈夫な布が生まれている、というわけだ。
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SF作家山本弘のエッセイを「カクヨム」というネット雑誌から転載。原稿料は出ているのかねwww
これを転載したのは賛意を示すためではなく、批判のためである。
ちなみに、私は山本弘の作品をひとつも読んだことが無い。そもそも、初期御三家以外の日本SFはひとつも読んだことが無いのだ。新井素子はエッセイの類だけは読んだ。冲方丁は時代小説「天地明察」だけは読んだが、SF作品は読んでいない。SFが嫌いというより、ひたすら面倒くさいのである。海外SFは大好きだが、サイバーパンク以降はまったく読んでいない。まあ、好きな人にはこたえられない面白さかもしれないが、私には古き良き時代のSFだけで十分だ。
下のエッセイのどこが批判対象か、ということだが、そもそも、タイトルと中味が正反対だ。筆者山本氏は「自分の正しさ」「科学の絶対的正しさ」を確信している。つまり、「私が正しい」と信じることはヤバい、と言うのなら、山本氏はそのヤバい人物の筆頭であるわけだ。
そして、山本氏は「中国が大嫌い」というように、好悪で物事を判断し、それを言明している。私は、こういう人間を信じない。狂信者によくいるタイプである。
彼のような人間に必要なのは、「何よりもまず自分自身を疑え」ということだろう。「自分ほど信じられないものがあるか」は、「GS美神」の横島忠夫の名言である。ソクラテスも、デルフォイ神殿の「汝自身を知れ」という銘文を生涯の課題としていた。
ちなみに、科学史はそのまま「古い間違いが新しい間違いに置き換わる」ことの連続である。「天動説」など、ほんの数百年前の話だ。人類史ではほんの少し前の出来事にすぎない。政治の歴史においては、すべてが陰謀の世界である。
これを転載したのは賛意を示すためではなく、批判のためである。
ちなみに、私は山本弘の作品をひとつも読んだことが無い。そもそも、初期御三家以外の日本SFはひとつも読んだことが無いのだ。新井素子はエッセイの類だけは読んだ。冲方丁は時代小説「天地明察」だけは読んだが、SF作品は読んでいない。SFが嫌いというより、ひたすら面倒くさいのである。海外SFは大好きだが、サイバーパンク以降はまったく読んでいない。まあ、好きな人にはこたえられない面白さかもしれないが、私には古き良き時代のSFだけで十分だ。
下のエッセイのどこが批判対象か、ということだが、そもそも、タイトルと中味が正反対だ。筆者山本氏は「自分の正しさ」「科学の絶対的正しさ」を確信している。つまり、「私が正しい」と信じることはヤバい、と言うのなら、山本氏はそのヤバい人物の筆頭であるわけだ。
そして、山本氏は「中国が大嫌い」というように、好悪で物事を判断し、それを言明している。私は、こういう人間を信じない。狂信者によくいるタイプである。
彼のような人間に必要なのは、「何よりもまず自分自身を疑え」ということだろう。「自分ほど信じられないものがあるか」は、「GS美神」の横島忠夫の名言である。ソクラテスも、デルフォイ神殿の「汝自身を知れ」という銘文を生涯の課題としていた。
ちなみに、科学史はそのまま「古い間違いが新しい間違いに置き換わる」ことの連続である。「天動説」など、ほんの数百年前の話だ。人類史ではほんの少し前の出来事にすぎない。政治の歴史においては、すべてが陰謀の世界である。
いや、私はこの年になっても「世間と違うオレ」が誇らしいが、新しい才能や新しい魅力というのはその「世間」が最初に見つけるのである。つまり、「世間」の中には大多数の俗物やミーハーと同時に、「新しい才能を発見する才能」の持ち主がかなりな数いて、そうした人々の指摘によって新しい才能は世間で騒がれるようになり、次世代の文化を作っていく。
厳しい審美眼の持ち主、つまり現在の文化の大物批評家などには新しい才能の発見は難しい。批評家ではなく、創造の世界の巨匠などは、逆に柔軟であり、自分とは違う新しい才能への受容能力も高い。というのは、彼ら自身、「前の世代の審美眼」に否定されながら、頭角を現わしてきたからである。私は、「新しい物」を否定する著名クリエイターを見たことがない。
北崎 拓@月に溺れるかぐや姫、ますらお 連載中! @takukitazaki 1時間前
厳しい審美眼の持ち主、つまり現在の文化の大物批評家などには新しい才能の発見は難しい。批評家ではなく、創造の世界の巨匠などは、逆に柔軟であり、自分とは違う新しい才能への受容能力も高い。というのは、彼ら自身、「前の世代の審美眼」に否定されながら、頭角を現わしてきたからである。私は、「新しい物」を否定する著名クリエイターを見たことがない。
北崎 拓@月に溺れるかぐや姫、ますらお 連載中! @takukitazaki 1時間前
若い頃は「世間と違うオレ」が誇らしいけど、大人になると「世間が喜んでいるのに理解できない自分は逆に馬鹿なのか?」と反省して理解出来るよう努力したり(笑) いやそれでも無理なモノは無理だったりするので、結局自分の内面世界での戦いじゃないですかね。好き嫌いって(*´д`*)【RT】
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北崎 拓@月に溺れるかぐや姫、ますらお 連載中!さんがリツイートこのスレッドを表示今後は興味のあるツイートがもっと表示されるようになります。 取り消す取り消す
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北崎 拓@月に溺れるかぐや姫、ますらお 連載中!さんがリツイート
(´-`).。oO(フェミニストらしく萌え絵が苦手だったわたしが、今やキズナアイのフィギュアかわいい…なんなら欲しい…と思うなんて、我ながら驚いた。騒動を追ううちに萌え絵を見慣れたのが大きいが、嫌いは好きに変わりやすい。どうでもよかったら最初から心に引っかかりもしないから。
日本が「アジアのアートの拠点」だった時代や時期が存在するとは思わないし、特に「現代アート」に関しては、(もともと西洋の物まねとして始まったため)海外から評価されたこともほとんど無いような気がする。
下の「芸術家」は、確かエロとグロを主なテーマとする「現代アート」の人間だったと思うが、一般庶民はもう少し上品な志向性を持っているのではないか。
ただし、日本の伝統文化の中の美術性は海外でも高く評価されており、それには「現代アート」の自称芸術家たちはほとんど寄与していない。むしろ、漫画やアニメ(芸術家ではなく、職人の創造物)などをアートとして評価している海外の人間は結構いる。
下の「芸術家」は、確かエロとグロを主なテーマとする「現代アート」の人間だったと思うが、一般庶民はもう少し上品な志向性を持っているのではないか。
ただし、日本の伝統文化の中の美術性は海外でも高く評価されており、それには「現代アート」の自称芸術家たちはほとんど寄与していない。むしろ、漫画やアニメ(芸術家ではなく、職人の創造物)などをアートとして評価している海外の人間は結構いる。
山本貴嗣さんがリツイート
アジアの「アートの拠点」が日本でなくなったのは現代アートに無理解な一般人のせいという芸術家の被害妄想的なツイートを読んで、日本が一時期「アートの拠点」だったのは経済の御蔭で一般人にそこまでの影響力はないということを知っていて、あえて一般人にぶつけたいものがあるんだろうなと思った。
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