RT>これちょっとわかるような気がします。 僕も美少女系の絵柄のアニメがどちらかというと苦手だった時期がそこそこ長いのですが(実際エヴァから10年くらいアニメにタイムラグがあって、『ハルヒ』も『けいおん』もアシさんに勧められるまで見れなかった)、今ではすっかり魅力的に感じてるもんなあ。
厳しい審美眼の持ち主、つまり現在の文化の大物批評家などには新しい才能の発見は難しい。批評家ではなく、創造の世界の巨匠などは、逆に柔軟であり、自分とは違う新しい才能への受容能力も高い。というのは、彼ら自身、「前の世代の審美眼」に否定されながら、頭角を現わしてきたからである。私は、「新しい物」を否定する著名クリエイターを見たことがない。
北崎 拓@月に溺れるかぐや姫、ますらお 連載中! @takukitazaki 1時間前
若い頃は「世間と違うオレ」が誇らしいけど、大人になると「世間が喜んでいるのに理解できない自分は逆に馬鹿なのか?」と反省して理解出来るよう努力したり(笑) いやそれでも無理なモノは無理だったりするので、結局自分の内面世界での戦いじゃないですかね。好き嫌いって(*´д`*)【RT】
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北崎 拓@月に溺れるかぐや姫、ますらお 連載中!さんがリツイート
(´-`).。oO(フェミニストらしく萌え絵が苦手だったわたしが、今やキズナアイのフィギュアかわいい…なんなら欲しい…と思うなんて、我ながら驚いた。騒動を追ううちに萌え絵を見慣れたのが大きいが、嫌いは好きに変わりやすい。どうでもよかったら最初から心に引っかかりもしないから。
下の「芸術家」は、確かエロとグロを主なテーマとする「現代アート」の人間だったと思うが、一般庶民はもう少し上品な志向性を持っているのではないか。
ただし、日本の伝統文化の中の美術性は海外でも高く評価されており、それには「現代アート」の自称芸術家たちはほとんど寄与していない。むしろ、漫画やアニメ(芸術家ではなく、職人の創造物)などをアートとして評価している海外の人間は結構いる。
アジアの「アートの拠点」が日本でなくなったのは現代アートに無理解な一般人のせいという芸術家の被害妄想的なツイートを読んで、日本が一時期「アートの拠点」だったのは経済の御蔭で一般人にそこまでの影響力はないということを知っていて、あえて一般人にぶつけたいものがあるんだろうなと思った。
山上たつひこの自伝的エッセイの一部で、「自分の武器」を手に入れていない時代の創作者の創作の状態がどんなものかよく分かる。満蒙開拓団の青年を主人公にしただけでも、「光る風」を後に描いた人間の志向性が分かる。本質的に真面目な性格だからこそ、「がきデカ」のギャグも生まれたのではないか。その真面目さ(あるいは人生の悲惨や不条理)への疑いを持つ時にその落差から笑いへの切り口が生まれる。
赤字にした部分は創作初心者へのアドバイスになりそうだ。
(以下引用)
「国境ブルース」は満蒙(まんもう)開拓団の日本人青年とロシア娘の愛と別れを描いた物語である。
「愛と別れ」とはミもフタもないけれど、この作品についてはそれ以外の言い回しを探す気力が湧かない。
ぼくは旧満州を舞台に、映画「ドクトル・ジバゴ」の向こうをはって一大抒情詩を謳い上げるつもりであったようだ。むろん、抒情詩にも何にもならなかった。主題を曖昧(あいまい)においたまま描き始めたため、焦点が所在不明のぼやけた戦争ドラマになってしまった。時代考証は御座成(おざな)りで、登場人物の性格づけや相関関係もありきたりだった。そして絵──、ぼくのペン先からおずおずと現れる描線ときたら誰かの借り物のようだった。これは「神代の国にて」においても同じことが言える。ぼくの肉体から精神が離脱して抜け殻になったぼくの姿を見ている。抜け殻のぼくは漫画を描いている。
「心ここにあらず」ではない。文字通り心は抜け出して空っぽなのである。浮遊する存在であるぼくは筋肉の記憶だけでペンを蠢かせる漫画家を(こいつはどこへ行き着くつもりなのだろう)とハラハラしながら眺めている。
ギャグという手法を手中にするまでのぼくはおおむねこんな精神状態で仕事をしていたように思う。
(以下引用)
父と原稿で思い出した話
まだ実家で描いてた頃に
台所の雨漏りを修理するからと
二階の私の部屋(屋根に出られる)に父が来たので
ちょうどいいとお茶飲みに行き
戻って窓の外みたら靴下の汚れ防止に
描きかけマンガの原稿を足の下に敷いてた
描いた面が下
超怒ったけど全然通じず
とんでもなかった
「話せばわかるんだ」と、40歳過ぎまで信じていました。
それが「話してもわからない。話せば話すほど遠ざかる」ことに気付いたのは45歳ごろです。
話すことによって、互いの違いが鮮明になるので、いさかいは大きくなるだけでした。
初めは、話し方が悪いのか、下手なのかと思いました。
確かに、相手の欲しがるものを、エサを投げれば、うまく食いつくかもしれない・・・それも、技だろうけど・・・
ついには「話さなければわからない相手は、話してもわからない」と、悟りました。
それは「わかる」というメカニズムを理解できたからでした。
「わかる」というのは、基礎に「共通認識」があるときのことです。
過去に同じ体験をしたとか、境遇が似ている、
そういう時には、互いに分かり合えることが多いのです。
ことばに出さなくても、目と目でわかる。
時には、瞳を見交わさなくても、わかる。
けれど、同じベースを持っていない人とは、話してみてもかみ合いません。外国人としゃべっているようです。
(中略)
子供を亡くした親の気持ちは、無くしたことのないモノにはわかりません。
話してもらっても、わかりません。
あるいてきた道や、周囲の景色が違う人とは、完全に理解し合うことができない。
まして、故郷の話なんか、故郷が違えば、なにもわからない。
思想や、ものの考えかた、判断にしても、同じです、
共通認識なしに、語り合うことなど出来ない。
相手が、今の安倍政権のやっていることを知らなければ、いくら「けしからん」と言っても伝わりません。
放射能被害にしても数値や、程度に共通の認識が無ければ、同じ結論は出ないのです。
話すほど、心は離れていきます。
話せばわかる?
どんでもない。話さなければわからない相手は、話してみてもわかりません。
わかるように「基礎知識を教える」にしても、問題意識をもって、自力で検索した人と、あてがわれた人では考え方が違います。
どこか、似た者同士で、同じような体験をして、同じような価値観を持つ人となら、ヒントになる言葉を、投げ合うだけで、お互いの考えがわかる。
今ここに同席していても、昨日までの歩み方が異なれば・・・話してもわかりようがありません。
話し合いが有効なのは、話し合いができる組み合わせの時だけです。