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これから私が書こうとしているのは、一種の自叙伝ということになるかと思うが、自叙伝の例に漏れず、その内容は嘘ばかりである。そもそも、自分が見たり聞いたりしたことが、現実と一致しているかどうかという保証は無いし、その上に人間というものは自分可愛さに、どうしても自分の都合がいいように記憶の中の出来事を歪曲するのが当然だからだ。
まあ、この文章は私の一生の一区切りの記念に書いているので、実は読者を想定していない。どういう一区切りかというと、私にとって生きる上で大きな存在であった祖父が先日亡くなったのである。その法事が終わり、やっと周囲が静かになったので、私自身に関する祖父の思い出を回顧しているうちに、それを文章にしたほうが良さそうな気がしてきたわけである。
かと言って、私自身が祖父を最初に見た時の思い出など、あるはずがない。気が付いた時は、祖父がいつも近くにいたわけだ。で、祖父のほかに私の母である明里(あかり)がいつもそばにいた。父は私が物心ついた時には既に亡くなっていたのである。
祖父の名前は正木龍三と言う。剣道界の一部では多少知られた存在だったらしいが、何かの流派に所属することはなく、自分で小さな個人道場をやっていて、その息子の和也(私の父)が道場に所属していた美人の娘さんと相思相愛になって私が生まれたらしい。まあ、実際、母は37歳の今も、なかなかの美人で、学校の参観日などではいつも人目を惹いたものである。
なお、祖父の道場には門下生はほんの数名しかいない。看板には「二天一流」と書いてあるが、これは言うまでもなく宮本武蔵が自分の剣法の名とした名前だ。祖父はその宮本武蔵の「五輪の書」と「兵法三十五箇条」を自分で読解してそれを考究し、自分なりの「二天一流」を工夫したわけである。
たまに物好きな「道場破り」が現れるが、だいたいは大学の剣道部レベルで、ほんの一合か二合も竹刀を合わせないうちに祖父に打たれていた。祖父の着物(道着を付けないで普通の着物の時もある。)に相手の竹刀が触れたことすらなかったのだが、まあ、これは相手が弱かっただけだろう。全日本剣道大会に出るレベルの道場破りは私は見たことが無いが、祖父の門下生の梶原武治という人は、警視庁の警部だが、全日本剣道大会で上位になったことがあるらしい。ただ、二刀流ではなく、ふつうに一本の竹刀で試合したようだ。この人は巨漢なので、体格に圧倒されて負けた相手も多かったのだろう。
で、道場破りに来る者の中には私の母が目当てでくる馬鹿もかなりいて、祖父に負けた後で入門を申し込むこともあったが、「では、この明里と試合して勝ったら入門を許そう」と祖父に言われ、母と対戦するのだが、これも母が負けたためしがない。
ということで、我が道場の経営はまったく謝礼とかが取れないのだが、どこかの誰かの援助で、家も道場も潰れないで済んでいたようだ。一説には或る右翼の大物が援助していたという話もあるが、祖父は政治嫌いなので、おそらくデマだろう。
そういう家系だから、この文章を読む人がもしいたら、「この『主人公』はきっと、その祖父とやらから英才教育を受けて、剣道の天才になるという話だろう」と既に推測していると思うが、けっしてそんなことはない。私が竹刀を持ったのは、やっと10歳になってからである。祖父の持論として「筋肉や骨格の出来上がらないうちに激しい運動をさせてはならない」という考えからである。
祖父から教えられたのは、むしろ学問である。と言うより「勉強の仕方」だ。
私は物心ついた時から既に個室を与えられていたが、その壁には「五十音表」と「教育漢字表」が貼られていた。母が、その五十音表を指して「あ、い、う、え、お」と何回か読み上げながら文字を指したが、私が受けた家庭教育はほとんどそれだけである。後は、振り仮名付きのわずかな漢字の入った幼児向けの童話を数冊与えられた。当然、好奇心に駆られ、私はそれらの童話を何度も読み返し、小学校に上がる前にひらがなとカタカナ、そして簡単な漢字をかなり覚えていた。
祖父が教えたのは「字の書き方」である。とにかく、印刷された活字に似せて、ゆっくり丁寧に書くことを毎日30分ほど命じられた。使った筆記具は2Bの鉛筆である。
書いたノートは祖父に提出し、点検を受ける。雑に書いた部分は祖父が赤ペンを入れる。そして何も言わないで返すだけだが、祖父を畏怖している私は、二度と雑な字を書かなかった。
小学校に上がる前に一年生の教科書が販売され、それがすべて居間の机の上に置かれた。祖父と母は、それを最初から最後まで丁寧に読んでいた。
祖父は難しい顔をしていた。教科書内容があまり気に入らなかったのだろう。
「まあ、自分で読んで、意味の分からないところに付箋を貼って、授業の時に先生に聞きなさい」というのが祖父の言葉だ。
母も言った。「分からないことを分かるようにするのが授業だから、授業が終わってまだ分からなかったら、先生に聞くのよ。先生がいなければ、職員室に行きなさい。とにかく、分からないことをそのままにしておいてはダメ。」
「まあ、小学校の範囲くらいで分からないことがあるようではやはり良くないだろう」と祖父が続ける。
「次の授業でやる部分は必ず先に目を通しておくのよ」と母。
まあ、そういうことで、私は小学校では常にトップの成績だったらしいのだが、全校共通テストをした記憶は無いから、毎回のテストの総合的な得点でトップだったということだろう。もちろん、祖父や母の言うように、小学校の勉強くらいで分からないことがあるのは恥ずかしいと思っていたから、学校でトップだろうが誇る気持ちはまったく無かった。
その代わり、体育は苦手だった。
これは私が早生まれだったためもあり、他の生徒より成長が遅く筋肉もついていなかったためだと今は分かるが、それと同時に、やはり祖父の方針のために、重い運動をしてこなかったためだと思う。
祖父は、私が運動で劣等感を持ち始めたらしいことに気がついて、やり方を変えることにした。軽い運動だが、それを日常的にやらせることにしたのである。まず、学校まで走って通うこと。ランドセルは祖父が自転車で運び、学校の近くで私に渡した。ランドセルを背負って走れるものではないからだ。
そして、庭を使って、物を投げる練習である。ボールの類だけでなく、重い石でも刃物でも大きな枝切れでも何でも投げるのである。それで、体全体を使って投げるということを覚えた。しかも利き手の右手だけでなく左手でも同じ練習をした。
同じく庭を使っての幅跳び、高跳び。
まあ、要するに、体を健康に頑丈に発育させるのが主眼で、運動能力は付録である。
祖父は剣道だけでなく空手の知識もあったから、ラジオ体操代わりに、空手の型も教えてくれた。つまり、基本的な「突き」「受け払い」「蹴り」などだ。

「突き」は、相手に当たったところで止めるのではなく、相手を「打ちぬく」つもりで打ちなさい。「蹴り」は外れたら、即座に別の蹴りを別の足で続けなさい。とにかく「居つく」のが勝負では危険を招くのだと覚えなさい。

というのが祖父の教えだが、剣道より先に、武道全般の心構えを教えたわけだ。「観と見」という心構えもかなり早い時期に教えられた記憶がある。
「観は、広く全体を見ること、見は集中して見ること。常に、このふたつの見方をしなさい。たとえば、集中して絵を描いていても、心の一部は周囲の状況を観の目で見るわけだ。地震などがあったら、どう行動するか、普段から考えておくわけだ。」
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