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ネットテレビで「第三の男」と「かもめ」を見て、どちらも途中までの状態で中断して今この考察をしているのだが、前者は映画的に完璧な名作で、後者はただの「芝居の映画化」であるという違いがあるようだ。で、映画的であるとは何かというと、「無駄なシーンが無い」ということだ。後者も悪い作品ではないが、「名シーン」はひとつも無い。単に19世紀ロシアらしい身なりをした俳優たちが俗物的欲望の結果悲劇に陥る話を演じるだけで、観客は誰に感情移入すればいいのか分からない。これは原作の芝居そのものも同じだっただろうが、まあ、観客ごとに思い入れする役があったのだろう。これは別に「第三の男」に人格高潔な人物が出るという話ではない。描かれるのは、ハリー・ライムという稀有な悪役の存在によって恋愛と友情の崩壊が起こるだけである。まあ、そういうものを描くのが文学なのである。つまり「人生の真実」がそこにあるわけだ。
ただ、そういうのとは切り離して、「第三の男」はすべてのシーンが意味を持っていて、たとえば些細な会話が思わぬ結果を招き、時には無関係な人間の死を招くというサスペンス性がある。つまり、平凡な人間の生活も運命的悲劇が隣り合わせであるわけだ。
まあ、「かもめ」の中で、ニーナが若い作家志望の男に「あなたの作品は、主人公がしゃべりつづけるだけ。事件を描きなさいよ」と忠告する場面があり、これは文学志望者の陥りやすい欠陥の代表的なものかもしれない。私の作品も、そういうものがおおい。論じるのは楽なのである。
「事件」が物語には必要だが、それには複数の人物と事件の焦点(誰かが欲しがる物や物事)が必要で、それを考えるのは、哲学的思考で頭が一杯の若者が苦手とするところだろう。

で、場合によっては、まず死体を出してから話を考えるという忙しい流行推理作家もいそうな気がするwww
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