三船敏郎と黒澤明の確執
数々の名作を生み出してきた黒澤・三船の黄金コンビだが、昭和40年の『赤ひげ』を最後にして、二度と仕事を共にすることはなかった。
そのため、監督と三船と関係に何か問題が起きたのではないか、という不仲説が今も流れている。
ちまたの噂は「黒澤が三船の酒癖の悪さに嫌気がさして、使いたがらなかった」とか、「黒澤プロと三船プロの間に金銭的なトラブルがあった」などというあくまで憶測にすぎないものだ。
黒澤本人は、マスコミから不仲説について聞かれるたびに「別に三船君と喧嘩したわけじゃないんだよ。ただ、三船くんとやれることは全部やってしまっただけのことです。」
と答えている。
また、黒澤は『用心棒』や『椿三十郎』の撮影時、三船が着用する着物の家紋を黒澤家の家紋を用いている。
これは主人公を自分の分身と考えていたからかもしれません。
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最後のタッグ作品『赤ひげ』
三船は『赤ひげ』の医師役の新出去定を演じるために、髪とヒゲを自分で赤っぽく脱色した。
この薬剤は皮膚や髪を痛め、脱色するたびに頭皮に痛みが走り、気分が悪くなったりしたというが、それをクランクインからクランクアップまで、一年半続けた。
本人は「薬剤の副作用で、歯が浮いてしまった」と明かしている。
たとえ肉体的にどんな苦痛があろうとも、三船は黒澤が求める役柄に入り込もうとしていたのだ。
また、黒澤は映画雑誌のインタビューを受け、『赤ひげ』の製作に臨む心境について聞かれたときにこう答えている。
日本映画の危機が叫ばれているが、それを救うものは、映画を創る人々の情熱と誠意以外にない。
私はこの『赤ひげ』という作品の中に、スタッフ全員の力をギリギリまで絞りだしてもらう。そして映画の可能性をギリギリまで追ってみる。
黒澤組 野上照代氏の見解
黒澤組のスクリプターだった野上照代氏は著書の中で、『赤ひげ』以降、2人が距離を置くようになったきっかけについて、こう記している。
私は『赤ひげ』の完成パーティの時、クロサワが私に言った言葉を忘れることが出来ない。彼は抑えたような小声で言った。「小国(脚本家)に言われたよ。あの三船は違うぜって」。
黒澤の顔に失敗したときの後悔の影が走ったように見えた。
黒澤が三船の演技に、僅かだったとしても不満を抱いたのは、おそらく『赤ひげ』が初めてであろう。
その後、黒澤は三船とそのことについて話あったわけでもなく、遠慮がちに後ずさりして三船から離れていったように見えた。
これは文字通りに読めば、黒澤監督は、三船の演技に不満を持ち、以後は自分の映画に起用しなくなったように思える。
それが真相なんだろうか。黒澤と三船の関係は、誰かの一言で冷めてしまい、距離を置くほどの仲だったのだろうか。
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黒澤組脚本家 橋本忍氏の見解
小国英雄と同じく、黒澤組の脚本家だった橋本忍はこう考える。
僕は『赤ひげ』の脚本に関わっていないけど、映画は観たの。観て、三船君の出来が悪いとは思わなかったね。小国旦那が、どうしてそういうことを言ったのか、僕にはよく分からない。
だけど、黒澤さんと三船君が『赤ひげ』が最後になったというのは、以前からそういうことにならざるを得ない原因が色々と積み重なっていたためであって、『赤ひげ』が直接の原因ではないでしょう。
三船くんは、脚本に書かれていたのとは違う芝居をしていた訳じゃなくて、ちゃんと演じていた。
もし彼の芝居が違っていたのなら、黒澤さんは必ず指摘をしたはず。
そこは厳しい人だからね。何も言わなくてもOKしている訳だから、小国旦那の勘違いか何かだと思うね。
完璧とまではいわないけど、三船くんの芝居はよく出来ていた。
では、離れていかざるを得ない理由とは、何だったのか。
続けて橋本は語る。
最初の問題の発生は、マクベスを翻訳した『蜘蛛巣城』。これは僕にも責任があるんだけど、僕は武時という男が、犯してはならない女を犯してしまい、最後に矢を射られて、ハリネズミの様に死んでいくといった話を書こうとしていたのね。
その企画を黒澤さんに話したら『それは面白い』ということになって『蜘蛛巣城』のラストに使われたの。
矢を浴びるシーンは、成城大学の弓道部の学生たちをアルバイトで使って、実際の矢でロケをやったわけだから、三船君の顔面や肩の近くに本物の矢が飛んできて突き刺さるわけだから、恐怖を感じないわけはないよね。
そんなことがあって、三船君は酒の量か増えたときに、車に乗って片手に刀を持ち、監督が泊まっていた旅館の周りを『黒澤さんのバカ!』と怒鳴ってぐるぐる回るわけ。
黒澤さんは怖いもんだから、部屋の中で籠っていた。
僕から見ると、黒澤さんは三船くんを怖がっていた気がする。ただ、監督と三船君の両者の間にはいろいろなkとがあって、複雑な影を落としていたことは間違いない。
たまたま『赤ひげ』が最後になってだけで。
でもそれは両者にとって不幸なことであることは間違いなかった。
続けて、映画界の事情と、東宝の黒澤作品に対する条件などの面を無視できないと語った。
三船君が黒澤作品に出ると、一本いくらで契約するけど、黒澤さんの場合は撮影が終わるまで一年、二年と掛かることがある。
でも、会社が払うのは基本的に一本分のギャラだけで、それが大きな問題を孕んでくるわけ。
三船くんほどのスターになると、他の映画をやっていれば、その間に数本分のギャラを取れるよね。だから、撮影も含めて、リハーサルに時間を掛ける黒澤作品がうまくいかなくなったのも、そういう面があったからだと思う。
僕ら脚本家に対してもそうだったからね。ただ、僕らの場合は監督との繋がりが強いから「脚本作りにこんなに日数が掛かっては、一本分では困るよ」と言って、二本分に増やすことは出来たわけね。
だけど俳優さんの場合には、なかなかそれは出来ないんだよ。三船くんは僕らより過酷だったと思う。拘束される割には少ないギャラになるから。
生活にも影響しただろうし、それに外国からのオファーを受けれなくなったりする。黒澤作品に出ていれば。
それは、黒澤さんや三船君の責任ではなくって、東宝という会社の問題だね。時間もお金も掛かる黒澤作品をどう撮るかという点での思慮が、東宝に足りなかったと思う。
橋本は不満があれば会社へ行き、期間が延びているから割り増し料金を払ってくれとねじ込んだ。
相手が根負けして金を出すまで重役室に居座った。
おかげで黒澤監督は東宝の「天皇」、橋本忍は「皇太子」と皮肉を交えて呼ばれたという。
音楽担当の佐藤勝の証言
『蜘蛛巣城』から『赤ひげ』まで8本の作品の音楽を担当した佐藤勝氏の証言はこれである。
三船さんほど黒澤さんを思いやっていた人を僕は知りませんよ。ただ口がね、気持ちと違ったことを言って誤解されるようなことが多かった。黒澤さんも同じですけどね。
三船の大馬鹿野郎!なんて言ったり。それでも三船さんを愛していましたよ。だけどこの映画界ってものさしで測るとですね、いろいろ出てくるんですよ。
2人ともお山の大将ですしね。それから黒澤さんが一番気にしていたのは、三船さん、奥さんと別れたでしょう。あいうこと黒澤さんは嫌いなんですよ。
男と女の、だらしないやつ。黒澤さんも女は好きですよ、色気も好きですよ、だけど、道徳に反することやると怒るね。これは確かにそうです。
幸子夫人ってのは黒澤さんは、昔から知っているでしょう。そいで若い女との間に子供ができちゃったから。許せなかったんだろうな、黒澤さんからすると。
三船が北川美佳と結婚したというのは誤解だが、黒澤が三船の一連の不倫・離婚騒動を快く思っていなかったのは事実だろう。
黒澤は昭和20年に女優の矢口陽子と結婚。
戦時下とあって、2人とも国民服姿で挙式している。
以後、喜代は貧しい新人監督だった黒澤が世界に認められるようになるまで、支え続けた。
酒好きの黒澤の為に自分の食費を削って酒を買ったというエピソードもある。
夫人は63歳で亡くなるまで、ずっと黒澤の傍にいて添い遂げた。愛妻家だった黒澤が、三船が妻を捨てて若い女に走ったことを嫌がったとしても不思議ではないが、俳優三船敏郎を拒絶する理由にもならなかったはずである。
結局、黒澤が最後まで愛したのは三船だけ
最後に再度、スクリプターの野上照代さんのクロサワとミフネの関係について語ったものを紹介します。
黒澤さんが結局、最後まで愛したのは三船だけだったでしょう。
しかし、小国さんの一言は答えたようです。今までなんでも意見を聞いてきた”小国旦那”なればこそです。
しかしこの後、いやすえに針生尾が大きな夢を持たせて近づいてましたから、2人が離れた時、私も近くにいて分かりません。
私は今なお、悔恨の思いでいっぱいです。なぜ三船さんに黒澤さんの気持ちを伝える役目を引き受けなかったのだろうと。
少しぐらい役にたったかもしれないのに。
不遜なことを言うと、私は三船さんが可哀そうでたまらない。
この野上氏の発言の最後の部分を切り取ってみると、やはり、黒澤が三船から離れていったということになるのでしょうか。
性格的にも、黒澤はやはりいい意味で独善的であり、エゴの塊のような人である(監督として必要な才能)。三船は他人を気遣う自己犠牲の人であったので、結果やはり黒澤が三船を捨てたというシンプルな答えが当てはまるまもしれません。
三船はやはり、色々細かいことはあったにせよ、やはり黒澤監督が好きで、黒澤作品に出たいと願っていたんでしょう。
晩年のカラー作品、特に『乱』は三船敏郎の主演で見たかったなと思います。
このページの参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)
(以下引用)
ホロコーストを体験したユダヤ人がなぜパレスチナ人を迫害するのか(読む・考える・書く)
http://www.asyura2.com/21/kokusai30/msg/617.html
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/05/27/124138
ホロコーストを体験したユダヤ人がなぜパレスチナ人を迫害するのか
2021-05-27
この疑問は、いわゆる「パレスチナ問題」(むしろ「イスラエル問題」と呼ぶべきではないかと思うのだが)に関心を持つ大抵の人が抱いているのではないだろうか。
敬虔なユダヤ教徒でもあるホロコースト生存者の子としてアメリカで育ったサラ・ロイさん(ハーバード大学中東研究所上級研究員)は、初めてガザを訪れたときの経験を次のように語っている。[1]
1985年に現地調査のためガザに初めて入った。そこでパレスチナ人の老人がイスラエル兵によって、泣きじゃくる孫の前でロバの尻にキスするのを強要されるのを見た。人間性を剥奪するその行為に、ロイさんは両親から聞いた、ユダヤ人が収容所に入れられる前の扱われ方を思い出した。
また彼女は、多くの親族が住むイスラエルを何度も訪問しており、そこでイスラエルに住むユダヤ人の多くが『あの時代のユダヤ人は「脆弱」で「劣っていて」「蔑まれて当然」だったが、「我々は二度と虐殺されない」』と言っていることを知ったという。
これは要するに、自分たちは弱かったからやられた、だから二度とやられないよう強くならなければならない、ということだろう。
実際、普通に考えれば意外なことに、イスラエルでは、ホロコーストを体験しこれを生き延びた生存者たちは、社会の中で尊重されていない。[2]
イスラエル人たちは、自らの社会の内部にホロコーストの真の生存者がいることに気づきました。生き残った人びとです。ここでみなさんは、この生存者こそホロコーストの犠牲者の主要な代表者だろうと思われるでしょう。しかし、彼らはイスラエルのナショナル・ナラティヴ(注:国民的物語)に合致しなかったのです。イスラエル人たちにとってのナショナル・ナラティヴにおいては、「ホロコーストの生き残りたちは、十分にナショナリストではない、彼らは闘っていなかった」、ということになります。彼らはホロコーストを生き延びたことについて重んじられませんでした。ですから今日に至るまで、補償されていないのです。
イスラエルでは、ホロコーストという民族的苦難の経験が、このような悲劇を二度と起こしてはならない、という普遍的信念にはなっていないのだ。これでは確かに、「二度と虐殺されない」ためなら他者をどんな目に遭わせても構わないことになってしまうだろう。
さらには、教育の問題もある。
IWPS (International Women’s Pease Service)のボランティアとして2003年にパレスチナを訪れた川島めぐみさんは、そこで検問所(パレスチナ人の移動を妨害して嫌がらせをするための施設)のイスラエル兵士と会話(口論)した経験をこう書いている。[3]
(略)兵士は開口一番、検問所は効果的だと思うか、と聞いてきた。(略)イスラエルに忍び込むテロリストによる「イスラエルの子ども達や無辜の人々」の殺害を防止するのに検問は重要だと彼はいう。何がパレスチナ人を「自爆テロ」に駆り立てるのか、この兵士は考えたことがあるのだろうか?
「奴らは俺達の土地が欲しいんだよ。欲張りなんだ。土地を盗もうとしているんだ」
同意しない。「盗む」ために人は自爆なんかしないと思う。
「奴らはイスラエルの人間を殺しているんだ。二年前にパレスチナ人は二人の兵士をラマラで拷問している。その写真を見れば誰だってパレスチナ人を憎悪するに決まっている」兵士は続ける。「罪もない人々が殺されることを僕は容認しない」
そうよ。私も容認しない。それでは三日前にイスラエル兵が「間違えて」殺した九五歳のおばあさんと四一歳の母親についてはどうなの? 子どもも重傷を負ったわ。
「そんなことは起こらない。起こるわけがない」
何で? 事実よ。
「そんなことが起こるわけはないんだ。パレスチナ人は平和なんか求めていない。欲しいのは俺達の土地だけさ」
(略)
「パレスチナ人には行くところがあるじゃないか。他のアラブ諸国に行けばいいんだ。ここにいる必要はない。ここは神によって俺達に与えられた土地なんだから」
本気でそんなことを信じているの? まあいいわ。それにしても他人が何世代も住み着いて、耕して、住んできた土地に突然やってきて、「俺達の」土地だと言って没収するなんて許されないわ。
パレスチナ人は人間以下だと彼は言う。だから人間以下に扱って当然なのだ、と。それでも兵士自身、矛盾を感じているのではないかと感じることもある。
誰が誰の土地を盗んできたのかは、下の地図を見れば明らかだろう。(ちなみに、ユダヤ人入植地に蚕食されてぼろぼろになりながら右側に残っているのがヨルダン川西岸地区、左端の小さな緑色がガザ。)
画像出典:ISRAEL & PALESTINE: THE MAPS TELL THE TRUE STORY
しかしこの兵士にはこれが真逆に見えている。そう教えられてきたからだろう。
しんぶん赤旗(2007/7/27)によると、建国から60年近くを経て初めて、イスラエルの教科書にパレスチナ人への迫害が記載されたという。(現在もこの教科書が使われているかどうかは不明。)
【カイロ=松本眞志】イスラエルでは二十三日、タミール教育相がパレスチナ人の惨状の記述を掲載した教科書の採用を認めた問題で、リクードや国家宗教党など右派勢力は同相の辞任を要求しました。イスラエル紙ハーレツ同日付(電子版)が報じたものです。
問題となったのは「イスラエルでともに生きる」と題する地理の教科書。アラブ系イスラエル人の学校で使われるものです。
一九四八年の第一次中東戦争で、イスラエル国内のアラブ系住民が住んでいた村を破壊されて、家を追放されて難民になったとし、イスラエルの建国が、アラブ人にとっては“ナクバ”(「破局」「災難」を意味するアラビア語)だったと述べています。
この報道内容のポイントは、この教科書が使われるのが「アラブ系イスラエル人の学校」というところだ。「ユダヤ系イスラエル人」には、この重大な歴史的事実が教えられることはない。
これはまぎれもない歴史修正主義だ。
欧米(一部日本でも)の反ユダヤ主義者たちは、「ガス室はなかった」といった虚偽の主張によりホロコーストを矮小化し、ナチスの蛮行による被害者を攻撃している。
人種差別的反ユダヤ主義との闘いは、歴史修正主義との闘いと言ってもいい。
しかし、当のユダヤ人国家イスラエルがこんな歴史修正主義教育を行っているようでは、反ユダヤ主義に対して彼らが何を言っても説得力を持ち得ないだろう。
[1] 「ホロコースト生存者の子としてイスラエルを問う」 ふぇみん 2009/4/15
[2] イラン・パペ 『イラン・パペ パレスチナを語る』 柘植書房新社 2008年 P.224
[3] 川島めぐみ 「IWPSのボランティアとして (3)」 Let’s No.40 日本の戦争責任資料センター 2003年9月 P.20-21
1:「ジャベリン」は「投げ槍」であり、ビームが「投げ槍」である必然性はまったく無い。
2:「ガトリングガン」は銃身が複数ある最初期の機関銃であり、ビームがガトリングガンである必要性はまったく無い。
3:「グレネード」は「手榴弾」であり、接近戦で用いるもので、「ランチャー」(発射台)を使うならグレネードである必然性はまったく無い。大砲であればいいだけだ。
4:「アーマー」は「鎧」であり、「アームド」は「鎧を着た」意味であるので、「アームドアーマー」は「鎧を着た鎧」という馬鹿げた意味になる。
5:「マグナム」は一般的には「巨大拳銃」の意味で使われていると思うが、「ビーム」を発する武器が巨大である必然性は無い。
6:「プロペラントタンク」は初耳だが、見るからに不細工な「お荷物」で、こういう物を尻にくっつけて動くことのメリットはゼロだろう。
まあ、小学生が考えた「ぼくのさいきょうのガンダム」みたいなものだ。
「四民平等」の夢を持っている。つまり、幕末における無意識的社会主義者みたいなものである。下賤の出であり、尊皇主義の御陵衛士の中で周囲からは孤立している。
御陵衛士
御陵衛士(ごりょうえじ)は、孝明天皇の陵(後月輪東山陵)を守るための組織。高台寺党とも(高台寺塔頭の月真院を屯所としたため)。
経過[編集]
慶応3年3月10日(1867年4月14日)に伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱、志し同じ者を新選組から引き抜いて結成した。一応の離脱理由は、泉涌寺塔頭・戒光寺の長老である堪然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命した事と、それに伴い薩摩藩や長州藩の動向を探るという事であった。最初は五条橋東詰の長円寺(善立寺説もあり)に屯所を構えた。
一和同心(日本国が心をひとつにして和する)・国内皆兵・大開国大強国を基本とし、公議による朝廷(公卿)中心の政体づくりを目指す独自の政治活動を展開した。
同志は弟の三木三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄、斎藤一(斎藤は新選組の間諜とも)の計15名。
他にも、茨木司、佐野七五三之助、富川十郎、中村五郎ら10名も後に合流を図ったが、嘆願に行った会津藩邸で、茨木、佐野、富川、中村の4人が死亡(死因は諸説あり)、残りの6人が放逐という結末となった。これは御陵衛士と新選組との間に隊士の行き来を禁止する約束があり、そのことを知らずに新選組を脱走して御陵衛士に加わろうとした彼らは行き場所を失った形となった(新選組を脱走したものは法度により屯所に連れ戻して切腹ということになっていた)。これとは別に、茨木たちの切腹後に隊で居場所を失い脱走をした武田観柳斎も衛士側に合流を拒否された(そもそも茨木たちの脱走を勧めたのは観柳斎といわれている)。
6月、山陵奉行・戸田忠至に属し、長円寺から東山の高台寺塔頭・月真院に移り「禁裏御陵衛士」の標札を掲げた。一般的に薩摩藩に近づいたとされるが、異説もある(後述)。
新選組とは佐幕と勤王倒幕で袂をわかっただけに、新選組の襲来を恐れていつも刀を抱いて寝たという。ただし、近年の研究では倒幕といっても緩やかなものであり、松平春嶽らの思想に近かったものとも考えられており、薩摩藩とは一定の距離を置いていたという説がある。
11月18日(12月13日)、油小路事件で伊東・藤堂・服部・毛内が死亡。残った同士は薩摩藩邸に逃げた。これにより解散。その後の御陵衛士の生き残りは赤報隊に2番隊として参加した。
御陵衛士及び関連人物[編集]
氏名 | 生年 | 生地 | 没年 | 没地 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
阿部十郎
|
1837年9月21日 (天保8年8月22日) |
出羽国 | 1907年1月6日 (明治40年) |
東京府 | |||||
新井忠雄
|
1835年3月5日 (天保6年2月7日) |
陸奥国 | 1891年2月15日 (明治24年) |
東京府 | |||||
伊東甲子太郎
|
1835年 (天保6年) |
常陸国 | 1867年12月13日 (慶応3年11月18日) |
京 | 油小路事件において横死。 | ||||
内海次郎
|
1836年 (天保7年) |
武蔵国 または 上野国 |
不明 | 不明 | 1871年(明治4年)以降の消息不明。 | ||||
江田小太郎
|
不明 | 河内国 | 不明 | 不明 | 戊辰戦争以降の消息不明。 | ||||
加納鷲雄
|
1839年12月14日 (天保10年11月9日) |
伊豆国 | 1902年10月27日 (明治35年) |
東京府 | |||||
清原清
|
1831年 (天保2年) |
肥後国 | 1868年6月15日 (明治元年閏4月25日) |
陸奥国 | 白河口の戦いにおいて戦死。 | ||||
佐原太郎
|
1845年 (弘化2年) |
常陸国 | 1868年10月16日 (明治元年9月1日) |
京 | 京下寺町において横死。阿部によれば中西昇の犯行だが、篠原によれば時期も犯人も異なる。 | ||||
篠原泰之進
|
1828年12月22日 (文政11年11月16日) |
筑後国 | 1911年6月13日 (明治44年) |
東京府 | |||||
藤堂平助
|
1844年 (弘化元年) |
武蔵国 | 1867年12月13日 (慶応3年11月18日) |
京 | 油小路事件において戦死。 | ||||
富山弥兵衛
|
1843年 (天保14年) |
薩摩国 | 1868年5月23日 (明治元年閏4月2日) |
越後国 | 越後国吉水村において戦死。 | ||||
橋本皆助
|
1835年 (天保6年) |
大和国 | 1871年6月3日 (明治4年4月16日) |
京? | 慶応3年8月、陸援隊に入隊。 | ||||
服部三郎兵衛
|
1832年 (天保3年) |
播磨国 | 1867年12月13日 (慶応3年11月18日) |
京 | 油小路事件において戦死。 | ||||
三木三郎
|
1837年8月12日 (天保8年7月12日) |
常陸国 | 1919年7月11日 (大正8年) |
茨城県 | |||||
毛内監物
|
1835年3月26日 (天保6年2月28日) |
陸奥国 | 1867年12月13日 (慶応3年11月18日) |
京 | 油小路事件において戦死。 | ||||
茨木司
|
不明 | 陸奥国 | 1867年7月14日 (慶応3年6月13日) |
京 | 会津藩邸において横死。殺害説と自刃説あり。 | ||||
佐野七五三之助
|
1834年 (天保5年) |
尾張国 | 1867年7月14日 (慶応3年6月13日) |
京 | 会津藩邸において横死。殺害説と自刃説あり。 | ||||
富川十郎
|
1844年 (天保15年) |
甲斐国 または 常陸国 |
1867年7月14日 (慶応3年6月13日) |
京 | 会津藩邸において横死。殺害説と自刃説あり。 | ||||
中村五郎
|
1849年 (嘉永2年) |
下野国 | 1867年7月14日 (慶応3年6月13日) |
京 | 会津藩邸において横死。殺害説と自刃説あり。 | ||||
斎藤一
|
1844年2月18日 (天保15年1月1日) |
武蔵国 または 播磨国 |
1915年9月28日 (大正4年) |
東京府 | 慶応3年11月脱走。 | ||||
中西昇
|
1842年 (天保13年) |
武蔵国 または 上野国 |
不明 | 不明 | 阿部によれば同志ではなく、佐原太郎を殺害した。真偽いずれにせよ消息不明。 |
関連項目
(以下引用)
近代国際法確立前[編集]
近代国際法が確立する前まで、かつては捕虜は捕らえた国が自由に処分しうるものであった。
捕虜は、それを勢力下に入れた勢力によって随意に扱いを受け、奴隷にされたり殺されたりした。一方、能力を認められた者は厚遇して迎え入れられることもあった。中世ヨーロッパでは相手国や領主に対し捕虜と引き換えに身代金を要求する事がよく行われた。ただし李陵(前漢の将軍)など敵方から名誉ある扱いを受ける例もあった。これは奴隷でも学のある者が重用されることがあったのと同様の現象と言える。
加えて、捕虜に対して安易に虐待や殺害を行うことは、敵兵に投降の選択を失わせ戦意を向上させてしまう恐れもあることから、その意味でも捕虜に対して相応の扱いをする例はあった。日本の鎌倉時代末期において、前述の事情から助命されるだろうと期待して、赤坂城の反幕府の兵士が幕府に降伏した所、予想に反して全員が殺害されてしまい、それがために同じく反幕府の千早城の兵が激怒し、かえって戦意が高まったという逸話がある。
また、乱戦の中や負傷時に意に反して敵方に捕縛されるケースなどはともかく、自らの意志により投降することは、すなわち敵方に仕えようとする意志表示とみなされた。そのため多くの社会において投降は利敵行為同様の犯罪とされた。
南北戦争[編集]
南北戦争の初期においては相互の捕虜交換が完了するまで武器をとらぬ旨の宣誓を行えば捕虜は仮釈放され、書類上の捕虜交換後に再び軍務に復帰できた。しかし後に南軍における北軍側の黒人兵の惨殺事件の後、北軍は黒人捕虜の扱いを白人のそれと同等とするよう要求し、南軍と政府がそれを拒否したため捕虜交換制度は終焉を迎え、双方で捕虜収容所の建設が始まった。
捕虜の保護[編集]
近代国際法が確立されるにつれ、捕虜は保護されるべきものであると考えられるようになった。そのため、1899年の陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(ハーグ陸戦条約)以降、各種条約によって明文を以て保護されるようになった。
それによって近代的軍隊においては、任務を果たすための努力を尽くした上で、万策尽きた際に捕虜になることは違法な行為ではないものとされる。 理念的には、封建的な軍制や傭兵の時代から、近代市民兵の時代へと移行し、個人の権利保護が重要になったからである。
それだけでなく、捕虜になることを全て違法とすることが、軍事的なデメリットをもたらすことも少なくない。
- 違法として禁じた所で、生命の危機において捕虜になることを全て阻止することは事実上不可能である。
- 捕虜になる事を認めれば、戦略的価値を無くした戦線、形勢逆転の可能性の無くなった戦線をあえて見捨てるという選択肢が可能となり、純軍事的にもメリットが大きい。捕虜になる事を認めない場合は、それが不可能になるため、戦略に影響しない僅かな兵を救出するために多くの装備や人員を割く必要が出てくる。仮にそれだけの犠牲を払っても、救出が成功する保証もない。
- 捕虜になることさえ認めずに見捨てることは、実質死を命ずると同義であって人道的非難を免れず、自軍兵の戦意を削ぐおそれがある。(三国志において、公孫瓚は敵中に取り残された配下を見殺しにした結果、兵は戦意を失い敗北したとされる)
- 帰国すれば捕虜になった罪で処罰が待っている捕虜たちは、敵国に取り入らざるを得なくなり、過剰な対敵協力を招く恐れがある(独ソ戦においてソ連は、赤軍将兵に対してドイツ軍に降伏して捕虜になることを禁じた国防人民委員令第270号を発令したが、その結果捕虜になったソ連兵は祖国に帰っても反逆者として扱われることになったため、ドイツ軍の補助部隊である東方軍団やロシア解放軍に身を投じるものが続出した。司令官アンドレイ・ウラソフもその一人)。
他方で、捕虜を受け入れる側も、捕虜を保護しないことにはデメリットがあり、捕虜を保護する事が考えられるようになった。
- 捕虜を虐待・殺害したことが敵軍に発覚した場合、敗北が決定的になった場合であっても、敵兵は投降の選択を失う。その結果として戦闘が無意味に継続され、対処するために装備や人員を割かなければならず、無駄な損害が増大する。
- 捕虜になった自軍の兵に対しても、報復として虐待や殺害が行われる危険性が高まる。
- 国際的な人道上の問題となりかねず、関係者が後に戦争犯罪者として処罰されたり、中立国や同盟国まで含めた外交上の非難を呼ぶ恐れがある。
- 国内世論からも人道的非難を受け、戦争の円滑な遂行に支障を来たす可能性がある。(ベトナム戦争では、米軍の非人道的行為がアメリカ国内世論の反発を呼び、戦争継続に重大な影響を与えている)
もっとも、上記はあくまで万策尽きて戦闘継続ができなくなった際の問題であり、自ら進んで敵軍に向け逃げ去り捕虜になることは「奔敵」(敵前逃亡)とされ厳罰を受けることが通常である。また正当な事由でやむなく捕虜になった後も、軍機情報の供与といった積極的な対敵協力を行うことは軍法に反することが一般的である。
1949年8月12日のジュネーヴ条約4規程及び1977年の第一追加議定書によって、戦時における軍隊の傷病者、捕虜、民間人、外国人の身分、取扱いなどが定められている。第3条約「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」により、ハーグ陸戦条約の捕虜規定で保護される当事国の正規の軍隊構成員とその一部をなす民兵隊・義勇隊に加え、当該国の「その他の」民兵隊、義勇隊(組織的抵抗運動を含む)の構成員で、一定の条件(a, 指揮者の存在、b, 特殊標章の装着、c, 公然たる武器の携行、d, 戦争の法規の遵守)を満たすものにも捕虜資格を認めた。
1977年の第一追加議定書ではさらに民族解放戦争等のゲリラ戦を考慮し資格の拡大をはかった。旧来の正規兵、不正規兵(条件付捕虜資格者)の区別を排除し、責任ある指揮者の下にある「すべての組織された軍隊、集団および団体」を一律に紛争当事国の軍隊とし、かつこの構成員として敵対行為に参加する者で、その者が敵の権力内に陥ったときは捕虜となることを新たに定めたのである。
なおテロリスト等は国際法上交戦者とはされず、捕虜にはなり得ない。最近では軍隊とテロリスト等が交戦する非対称戦争が注目されている。むやみに捕縛者を犯罪者扱いすれば国内外からの非難を浴びかねないこともあり人道的見地から捕虜に準じた扱いをとるケースが増えている。
交戦者資格を持たない文民は第4条約で保護されているが、積極的に戦闘行為を行い捕縛・拘束された場合は、捕虜ではなく通常の刑法犯として扱われるのが原則である。 裁判は現地部隊で行われる略式裁判(特別軍事法廷)も含まれ、しばしばその場で処刑される。
第3条約は、捕虜の抑留は原則として「捕虜収容所」(俘虜収容所)において行うことを予定している。
ジュネーヴ条約は次の4つの条約および二つの追加議定書から構成されている。
- 第1条約
- 「戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。
- 第2条約
- 「海上にある軍隊の傷者、病者及び難船者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。
- 第3条約
- 「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。
- 第4条約
- 「戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。
- 第1追加議定書
- 「1949年8月12日のジュネーヴ諸条約の国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(議定書I)」
- 第2追加議定書
- 「1949年8月12日のジュネーヴ諸条約の非国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(議定書II)」
捕虜の義務[編集]
捕虜は、尋問を受けた場合には、自らの氏名、階級、生年月日及び識別番号等を答えなければならない(第三条約第17条第1項)。原則としてこれ以外の自軍や自己に関する情報を伝える義務は無い。
捕虜は、抑留国の軍隊に適用される法律、規則及び命令に服さなければならない。抑留国は、その法律、規則及び命令に対する捕虜の違反行為について司法上又は懲戒上の措置を執ることができる(第三条約第82条)。
将校及びそれに相当する者の収容所又は混合収容所では、捕虜中の先任将校がその収容所の捕虜代表となる(第三条約第79条第2項)。将校が収容されている場所を除くすべての場所においては、捕虜の互選で選ばれた者が捕虜代表者となる(同条第1項)。捕虜代表は、捕虜の肉体的、精神的及び知的福祉のために貢献しなければならない(第三条約第80条第1項)。
将校を除く捕虜は、抑留国のすべての将校に対し、敬礼をし、及び自国の軍隊で適用する規則に定める敬意の表示をしなければならない(第三条約第39条第2項)。捕虜たる将校は、抑留国の上級の将校に対してのみ敬礼するものとする。ただし、収容所長に対しては、その階級のいかんを問わず、敬礼をしなければならない(同条第3項)。
捕虜の虐待[編集]
近代の国際法では、捕虜に対して危害を加えることは戦争犯罪とされるに至ったが、捕虜を虐殺する事件も決して少なくなかった。捕虜を保護し、それを知らしめる事により早期の降伏を促す事のメリットは上記で述べた通りであるが、現実には捕虜を適正に扱うにも食糧や医薬品の提供などの負担が必要であり、補給の途絶や不足が生じた場合にはその余裕がなくなる。よって捕虜の虐待は、そういった余裕の無い場合に頻発した。
第2次世界大戦中の枢軸国側の捕虜虐待は、戦後に連合国によって戦争犯罪として裁かれ、なかには充分な審理を受けられないまま処刑された例も少なくない。それに対して、連合国側の行った捕虜虐待の大半は全く責任を問われないまま終わってしまった(ドイツ人への報復など)。更には、ソ連によるポーランド軍将校の大量虐殺を枢軸国側の捕虜殺害に転嫁した例すら存在した(カティンの森事件)。
第二次世界大戦では、西部戦線におけるマルメディ虐殺事件などが知られている。
また捕虜には、ジュネーヴ諸条約の規定を越える情報を提供する義務は無いため、必要な情報を得るために拷問などの虐待が行われるケースがある。近年ではイラク戦争において、アメリカ軍による捕虜虐待事件(アブグレイブ刑務所における捕虜虐待)が起きている。
また、国際的な戦争においては、捕虜と管理する敵国の将兵の間に文化の違いがあるケースがあり、これにより将兵に虐待の意図がなくとも、捕虜にとっては虐待をされたと解されてしまうケースも考えられる。有名な逸話としては、第二次大戦中、日本の捕虜収容所で捕虜にゴボウを食べさせた結果「木の根を食べさせた」として捕虜虐待として処罰されたとする事例がある。真偽には疑問がもたれているが、NHK大河ドラマ『山河燃ゆ』でも紹介された有名な話であり、捕虜の管理における一つのリスク要因を示している。また捕虜に医療行為として灸を行った事が虐待とされ、笹川良一は誤解を説くために奔走したと自著に記している。またイギリス軍では、ドイツ軍の捕虜の健康のために食事メニューにマーマイトを支給したが、これがあえて粗末な食事を供する虐待と誤解されたという逸話もある、