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別ブログに書いた記事だが、創作自体はこのブログで書いていこうと思っているので、その構想を載せておく。作品題名は「ジャン・ジャック・テノーリオ」にしようかと思っている。

(以下自己引用)

「悪のヒーロー ジャン」の構想

2,3日前から読んでいたモリエールの「ドン・ジュアン」を今朝の寝床の中で読み終えたのだが、実に傑作である。中世的な不合理な精神への批判として完璧だ。しかし、当時の宗教や道徳への痛烈な批判が内容なので、当時は、そして現代でも物議をかもす作品だろう。
これを読んで、私はこれをアニメ化したら面白いだろうなと思ったが、もちろん映画化やテレビドラマ化でもいい。しかし、ほとんどが会話劇なので、映像化は困難というか、映像化しても魅力に欠けるだろうな、と思う。そこで、この話の中心思想、つまり哲学を内包しながら、話にはもっと起伏を与え、事件性、冒険性、アクションを多くするのが一番だと思ったが、先ほど散歩の中で考えたのは、サドの「呪縛の塔」(私は前にうっかり「虚栄の塔」と書いた記憶がある。「虚栄の市」とごっちゃにしたのだろう。)のラストの部分、主人公と神(か悪魔)との対話の場面である。宇宙を背景に、主人公と神が論争する、というのはイメージ的に興奮するのではないか。
で、私がその時考えたのは、「精神においては人間は神と対等だ」ということである。正直言って、どんな神話や宗教の神も、私を納得させる精神性が無い。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の神も、ギリシャ・ローマ神話の神も、単に「人間の願望の集積」でしかないように思える。そこには、いわば「哲学」が無いのである。だから、合理性もない。単に、超越的存在だから人間はそれに従うしかないだけだ。それでは、王族や貴族には庶民が逆らえない権力と暴力性があるから従うしかないのと同じではないか。
で、その作品の題名を「悪のヒーロー ジャン」とする予定である。主人公はもちろんドン・ジュアン(スペイン読みではドン・ファン)で、私の作品では「ジャン・ジャック・テノーリオ」にする予定である。貴族の特権を利用して悪の限りを尽くす主人公の名前に、「民権論」のジャン・ジャック・ルソーを連想させる「ジャン・ジャック」を使ったのは、対比効果を狙ったものであるが、実は既成概念への反抗という点ではドン・ジュアンとルソーは近いのである。
主人公のジャン・ジャックは、無道徳の漁色家で高慢そのものだが、この話の中ではヒーローらしからぬ情けない姿をしばしば見せるし、ヒロインたちも、欠点を見せる。つまり、我々凡人と同じなのである。しかし、不合理性(の桎梏)への反抗と、その勇気という点でジャン・ジャックはヒーローの資格を持つ。
で、話をあまり真面目に(深刻に)しないために、場面場面で小さなギャグをたくさん入れたい。たとえば、ジャンに捨てられたヒロインのひとりが完膚無きまでにジャンを弁舌でとっちめ、さっそうと帰ろうとした瞬間、何かに躓いて無様に転ぶなどの、初歩的なギャグである。それによって、むしろヒロインの可愛さを出したい。これは、フィールディングの「トム・ジョウンズ」の中で、ヒロインの完璧な美少女で性格の良さ抜群のソファイア・ウェスタンが馬に乗ろうとして転がり落ちる場面がヒントだ。
ちなみに、「神との論争」は、原作で主人公のドン・ジュアンが雷に打たれて地獄に落ちた、その後の場面である。劇では地獄落ちが暗示されているが、私はそれを宇宙という法廷での人間と神との論争の場面にするわけである。まあ、「2001年宇宙の旅」のラストあたりみたいな映像であれば最高だ。



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前回記事の続きだ。
異世界の「魔力」とは精神力の高度なものだ、という前提にすると、高度な精神力の持ち主は、たとえば他人の精神を支配することができたり、幻想を見せたりすることができる、となり、あるいは、その精神に恐怖を与えて死に至らしめることも可能になる、ということになるのではないか。
それに対抗するには、こちらも高度な精神力を持つ必要があるわけだが、その「鍛錬」は可能か。何をすれば精神の鍛練になるのか。昔なら、座禅とか瞑想などがその手段だっただろうが、そもそも、座禅とは、座り込んで何をしているというのか。瞑想も、妄念と何が違うのか。
まあ、真面目に論じるのではなく、小説や漫画原作での「魔術」や「魔力」を、馬鹿馬鹿しくないものにできればいい、という程度の話である。
通常のスポーツでも、精神の強い弱いは勝負の決定的な差になることはあるだろう。まして、命を賭けた勝負ならなおさらだ。だから昔の剣豪は精神を鍛え、座禅などもしたわけだ。だが、そういう話と、娯楽作品での「魔術の考察」は違うだろう。
現実の人間で言えば、ラスプーチンなどは、魔力に近い能力を持っていたのではないか、と思われる。あるいは、西洋民間伝承にある「魔眼(エビルアイ)」は、強力な催眠術だろうと思われる。

さて、娯楽作品における「魔力」をどういうものにするか、物理的武力との優劣をどうするか、だ。なかなかその本題に入るのが困難なので、うろうろとその周辺を歩き回っているわけである。

異世界物アニメの近作がほとんどすべて詰まらないので、自分で書いてみようかと思うのだが、何も思いつかない。まあ、この年になると、願望そのものが無いので、異世界での願望実現もさほど面白く思えないのかもしれない。そこで、異世界物のどこがどう面白いのか、あるいは失敗している異世界物の失敗の理由は何かを考えてみたい。

まず、異世界物がこれほど多く書かれ、作られるのは、明らかに「楽だから」である。考証や調査の必要がゼロだ。何となく知っているような中世西洋的世界を舞台に、主人公が異能力を獲得して「俺ツエー」をやるだけのことだ。その「異能力」には、こちらの世界では当たり前の能力や知識などが多い。たとえば薬学や衛生の知識など。あるいは戦術や戦略の「過去の歴史からの知識」など。まあ、そこまで行かないで、何やらケッタイな、「魔法能力」がなぜか身に付くという話も多いようだ。その世界では、魔法能力が当たり前、という場合もあり、主人公はなぜかその最強の能力を手に入れるわけだ。一種の「出来レース」である。そして視聴者は主人公と自分を同一視して、主人公の「俺ツエー」で快感を得るわけである。
まあ、これが基本だが、では、失敗した異世界物の失敗の理由は何か。

一番の失敗は、異世界を「ゲーム的世界」にしてしまうことである。ネットでも嘲笑の対象となっている「ステータスオープン」がその代表だ。これが出ると、異世界が単なるゲームとなり、視聴者の「主人公への感情移入」はかなり低下するし、その異世界での出来事に「生きるか死ぬか」の迫真性も(ゲームだから)当然なくなる。新作アニメの中では優秀な部類の「ダンジョン飯」ですら、「死んでも生き返る」という大前提が既にゲーム的であり、すべてが「冗談事」の範疇になるが、まあ、これは最初から話そのものがゲームのパロディ的な作品だ。

そこで、このよくある「失敗」をしないためには、あくまで「これはゲームではなく、小説内では現実なのだ」という姿勢を一貫させることだろう。たとえば、私は未読だが、映画を見るかぎり、「指輪物語」などは、その点では一貫していると思う。言い換えれば、ファンタジー作品では、「メタ描写」は禁物で、あくまで「真面目に」やらねばならないということだ。もちろん、「小説内現実」の中では冗談もおふざけもあっていいが、小説内の世界そのものを否定する(嘲笑する)記述があってはならないということである。とりあえず、「ゲーム的世界観」の排除が鉄則だろう。

そういう意味では、「GATE」などは、かなり成功した作品だと思う。現実世界と異世界との接続が見事であった。ただし、「魔法」の力と現実の軍隊の武力との比較が曖昧だったと思う。この問題は、軍隊は別としても、武力と魔力との比較の細かい設定が必要だろう。つまり、魔力とはどういうものかという設定だ。この点ではほとんどの異世界物がいい加減であるようだ。魔力は普通の物理的攻撃力より強いのか。強いとしたら、それはどのように強いのか。そもそも、魔力とは精神力だけの話か、物理力を伴うのか。たいていの異世界ファンタジーでは、後者のように表現されているが、私としては、よりリアルな方向で、「魔力とは高度な精神力だが、物理力は伴わない。少なくとも、通常の物理力を超える物理力を持たない」としたい。それでこそ、戦士が冒険者パーティにいる意味があるわけだ。(まあ、冒険者とか冒険者パーティ自体がゲーム的だが、それは置いておく。)
ちなみに、「オーバーロード」は導入部こそまさしくゲーム内世界だが、話が始まってからは、キャラたちが「その(ゲーム内)世界の中で生き、死ぬ」ということを徹底している。つまり、リアリズムである。だから成功しているのだと私は思っている。つまり、ゲームの中のキャラが本当に生きていたら、どうなるか、ということである。


日本の神々が現代の外敵(具体的には未定)と戦い、日本を守るという話を考えているが、問題は、出雲の国譲りの後の出雲の「国つ神」たちの行方である。彼らはどこへ行ったのか。まあ、適当に創作してもいいが、参考として次のサイトを引用する。
ちなみに、構想している話の冒頭は、日本中のすべての原発が「なぜか」連続的に爆発する、という事件である。つまり、日本は半分くらい滅亡し、残りも放射能の危険にさらされている状態。神々は明確には登場せず、「神託」を受けた人間が神々の代理として戦う話にしたい。
タイトルは「召命」でもいい。

(以下引用)

十二話 国譲り、その後(天津神の降臨)

さて、童たちも気になるようだから、オオクニヌシが「葦原の中つ国」をアマテラスの使者に譲ると言った後、どげなことになったか、ちょんぼし話しておくわ。

●ごっつおを食べた童たちの中には、こっくりこっくり舟をこいでいる童もいる。お土産にもらった袋が気になって、隙間から覗いている童もいる。

●爺さんも、童たちからの感謝状と共に胸に付けてもらった紙の勲章が気になった。

天孫降臨に向けて

さて、アマテラスとタカミムスヒは、征服したとの報告を受けると、さっそく統治者を遣わすことになぁました。子供のマサカツアカツカチハヤアメノオシホミミを遣わそうとしましたが、すでに子供がおおまして、自分の代わりにその子を遣わしてくれと言わっしゃった。その子の名前がアメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギ。アマテラスからみれば孫になるニニギを遣わすことになぁました。

ところが、ニニギが天から降りて行こうとすると、なんと、一人の神様が立ちはだかっていた。そりゃ凄い勢いで、その身は輝き、辺り一帯をも輝かせ、高天ヶ原も葦原の中つ国も照らしておった。アマテラスは、女の神様のアメノウズメに「だぁか、聞いて来い」と命じられました。アメノウズメはだぁか覚えちょうかな。アマテラスが岩戸に隠れなさったときに、岩戸の前で着ている衣をはだけて踊らっしゃった女の神様だ。

待っちょったのは国津神のサルタビコ。そうそう、天におらっしゃあアマテラスなどが「天津神」で、オオクニヌシのように地上におらっしゃあ神様が「国津神」だ。スサノヲも国津神だな。

そのサルタビコが、ニニギの先導をしたいと言わっしゃった。

天孫降臨のお供

こげして、ニニギの天孫降臨の態勢ができましたが。

●爺さんは懐にしまった紙を見た。長い名前はなかなかうまく言えん。そこでお守り代わりにカンニングペーパーを用意するのだ。

アメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤの五神を連れ、八尺(やさが)の勾玉と鏡、それに草薙の剣を持ちました。それにオモヒカネ、タヂカラヲ、アメノイハトワケをそばにつけました。

アマテラスは「この鏡はわが御魂として、大切にして、祈り祀りなさい」と言わっしゃった。それは伊勢神宮に祀られた。

いざ、降臨

さてさて、ニニギは高天ヶ原にお供の神様たちを連れて出発されました。たなびく八重雲を押し分けて、力強く踏み分けて、天の浮橋から、一気に筑紫の日向(ひむか)の高千穂の峰に降臨されました。

●「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」。年長の童が呟くように言った。

よう憶えちょったな。良いことだぞ。

●「爺さん、今、言わっしゃった、『八重雲を押しのけて』ちゅうのは、なんかね。間接的に出雲を押し破ったと言いたいからだかね。たしか『八雲立つ』は枕詞で、出雲を修飾するほめ言葉と言わっしゃった気がすうが」

●オナゴの童が反論した。「『八重』は沢山という意味がああが、だけん、沢山の雲を押し分けてと訳したがいいと思う。無理に『八雲立つ』につなげんでいい」

●爺さんは考えた、どげしたもんかと。今の今まで考えたことがなかった。原文に当たればヒントになるものがあろうが、爺さんの覚えた神話はいろんな人から聞いた寄せ集めと、爺さんの創意でできている。

二人の意見はもっともだ。ごめんだが、爺さんの宿題にしてくれんかの。

●童は笑って頷いた。答えられないことも嬉しいが、爺さんとまた話すことができることが有難かった。

そのときにな、二人の神様が、アメノオシヒとオマツクメがな、大きな矢筒を背負い、大きな刀を腰に付けて、武装の格好で前払いをしたそうだ。

●「横綱の土俵入りだ。太刀持ちと露払い。横綱は栃錦と吉葉山だ」

●たしかに横綱の土俵入りの露払いは、日本刀と弓矢を持っていて、弓で土俵を清める。

降臨

さてと、地上に降りたニニギは言わっしゃった。

「ここは、海を挟んで韓(から)の国に向き合い、笠沙(かささ・九州南部)にもつながっちょう。朝日が昇り、夕日がきれいな、素晴らしい国だ」と。そげして、深く掘って宮柱を立て、高い宮殿を造らっしゃった。そこにニニギは住まわっしゃった。

●「お爺ちゃん先生、なんで出雲の国に降りんかったの」。小さな童が問うた。大きな童が爺さんを見ながら言った。「そりゃあ、怖いからだ。まだまだ出雲国には反対する神様がいっぱいおらっしゃったんだ。そげだから九州に降りなさったんだよ」

●小さな童は爺さんを見た。

そうかもしれんな。そこんとこは定かではないな。

●童たちは頷いた。

さてさて、ある日のことだ、道案内をしたサルタビコが故郷に帰りたいと言い出した。そこでニニギはアメノウズメにサルタビコを送らせた。なんやかんやの褒美に、アメノウズメの代々はサルタビコの名前を貰って「猿女(さるめ)の君」と呼ばれるようになったげな。サルタビコの故郷は今の三重県の松坂あたりらしい。

アメノウズメはサルタビコを送って三重に行くとな、アメノウズメは伊勢の海の魚を全部呼びつけ「お前たちは天津神に従うか」と問われた。みんなは「はい」と返事をしたのに海鼠(なまこ)だけはなんも言わんかった。そこでな、アメノウズメは「何も言わん口だ」と刀で口を切り裂いてしまった。そげなことで今でも海鼠の口は裂けたままだとていうことだ。

さて、こうがオオクニヌシの国譲りのその後だわ。こうから先がニニギの国治めの始まりだ。

じゃあ、今日の話は、こっぽし、こっぽし。

●「爺さん、やはり、その先もききたいな」「もう、出雲の神さんはでんかね」「「昔話でもいいけ、聞かしてくれんかの」。

●有難い声に爺さんは頷いた。

そげだな。もうすこし考えさせてくれ。それにな、ほかの童も「出雲神話」を聞きたいと言うちょうが。

●もう、そこまで冬が来ていた。来週は年末の準備と年越しに向け町に「市」(いち)が立つ。それにあわせて夜店や見世物小屋も来る。童たちにとっては楽しみだ。

●木枯らしが抜吹き抜けた。

   クシナ) どこに行ったのだろう、オロオロは。

   クシナは次に来た木枯しに乗った。

ある小説の導入部を寝覚めの寝床の中でぼんやり考えていたのだが、メモしておく。
ある有閑階級の青年あるいは中年男が、公園での散歩から戻る途中で、町の曲がり角の目立たない場所に文庫本の1ページ目が貼られている(差し込まれている)のを見つける。その曲がり角を進んで、次の曲がり角で2ページ目(表裏で1枚の紙なので厳密には3,4ページ目)を見つける。そこで、これは誰かが誰かを追跡し、後でその道筋をたどるための目印だと判断し、自分もその追跡を始める。その際に、頭の中で趣味の作曲をしながら悠々とその「追跡散歩」を続けるのだが、その曲に「記憶のタグ」のために「追跡」という名前を付けておく。まあ、そういう話で、その曲まで寝床の中で部分的に作曲したわけだ。安直な曲だが、たぶん、私のオリジナルである。軽快な曲である。楽器はギターかと思うが、声を楽器的に使うのもいい。リズムは「ターンタターン、たららら、ターンタターン、たららら、ターンタ、ターンタ、ターンタ、ターン、たららら、ターンタターン、たららら」の繰り返しで、音の高低の変化もわずかである。覚えやすい曲だが、これだけで自分で再現できるかは怪しい気もする。
なお、問題の文庫本は、たとえば「ヘンリ・ライクロフトの私記」のような、今どきの人が読まない本で、或る意味マニアックである。それだけに、それを目印のために破って使うということは、その人物にとってその「追跡」が重要な意味を持っていたということだろう、と主人公は推理する。
まあ、結末の一案として、実はその男にひそかに惚れている女が、推理マニアの彼を「引っ掛ける」餌として、その文庫本を撒いていた、として、さらにはハッピーエンドにする形もある。追跡しているつもりが(形而上的には)追跡されていたというオチだ。北村薫にO・ヘンリー的なひねりを加えた感じか。チェスタトンに、レストランで塩の壺と砂糖の壺の中身を入れ替えるなどの奇妙な行為を、誰か(ブラウン神父)に自分を追跡させるための「目印(呼び水)」にする話もあった。
読者が主人公と自分を同一化して(感情移入して)読めば、楽しい気分で読み終えるのではないか。
追跡の途中で様々な物や人々の情景を見ては主人公はあれこれ考えるが、ラストシーンは、最初の公園に導かれ、そこのベンチで座って本(問題の「本」でもいい)を読んでいる「犯人」の女性を発見し、彼女と会話する場面にしようか。一種の円環構造である。

文庫本一冊で恋が成就するなら、安い投資である。恋にはカネより頭が大事。
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