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「BLOGOS」所載の記事で、筆者は編集者らしいが、文芸全般においてのクリエイター志望の人間にとっては非常に有益な記事である。編集者の黒い腹積もりも正直に書いている。

(以下引用)


「アニメ化を断った話」を考えた話

なんかアニメ化断念作家の話が周囲で話題になっていた。これなんだが。新人作家が編集者に翻弄された経緯を綴ったエッセイで、一読した印象としては無残な感じだ。

このエッセイに対し、「これは編集者あるあるである」的な感想を残している方がいる。それは正しい面もあるが、厳密には間違いなので、編集者である私の感想など書いておこうかなあと。

まず編集者といっても、担当媒体でかなり行動原理が違う。私は雑誌系編集者だが、著者(ライター)からのメールを1か月放置するなどあり得ない。当たり前だが、それでは月刊誌だろうが週刊誌だろうが本が出ない。

雑誌編集者なら1日100本以上は普通にメールを処理するはず。たとえそうでも締め切りで忙しくても、基本的には数時間以内には返答メールを出すはずだ。結論を出すのが難しい案件であれば、「今はわからないが、多分1か月後には」な「今締め切りで忙しいので、10日待ってくれ」等、期限を相手に伝えるのは当然だし。

当該エッセイを見る限り、それは「文芸編集者」特有(しかも割と一部というか、ライトノベル限定)の行動でしかないと思える。

ライトノベル作家を志した場合の金勘定については6年ほど前に書いたので、興味があれば読んでもらいたい。いろいろな背景があり、現在では初版部数とかはもっと減っているようだが。

私は文芸担当になったことはない。だが周囲の編集者からの情報などがあるので、ある程度は推測がつく。なので以下、解説していこう。あくまで推測なので、このエントリーを事実として信じないように。フリーランスの物書きとして生活したいなら、いろいろな情報から、自分なりの教訓を抽出するべきだ。

こうした「作家なおざり編集」の話を読み解く場合、まず留意すべきは、編集者の行動様式だ。

考えてみてほしい。文芸部門編集者が目指すのは、売れる小説を担当することだ。それが担当媒体のためになるし、自身の社内評価にもつながる。そのために売れっ子に媚を売ったり、見込みのある新人を育てたりする。そこまではわかってもらえると思う。

特にライトノベル編集者の場合、作家の使い捨て度合いが激しく、そもそも小説としての完成度よりアニメ化・コミック化での成功を求められるので、この傾向が極度に強調される。

こうしたライトノベル編集者がどう行動するか、考えてみよう。

まず、新人には優しい。なぜなら、新人は今後売れるか売れないかが、まだわからないからだ。うぶな新人に好感を持たれれば、売れたときに自分の駒にできる。だから優しい。

次に、デビュー後、あまり売れなかった作家に対して、彼らがどう対応するか。門前払いはしない。なぜなら、今後、一発大逆転で売れるかもしれないから。といって、自社で先頭を切って小説を刊行するのは躊躇する。理由はもちろん、前作が売れていない以上、次の作品も売れない可能性が高いからだ。

ではどうするか。万一、他の出版社でその作家が売れたときのために、キープだけしておくわけさ。具体的には、プロットを求め、なるだけ時間をかけてああでもないこうでもないと、引き延ばす。あるいは実作を受け取り「出版できるか会議にかけてみるよ」と、宙ぶらりんの状態に置いておく。

「読んでくれました?」「会議はどうでした?」という問い合わせには、返事をしない。限界まで放置しておいて、「すみません忙しくて返事が遅れました」などと回答し、またプロットにダメ出ししたりして、時間稼ぎに入る。

こうして、1年でも2年でも、作家と作品を塩漬けにする。その間に、その作家がブレイクして忙しくなれば、急遽、そのプロットなり原稿なりで出版する。完全に切れてしまっては、そうした臨機応変な対応ができない。作家からしても、「あのとき冷たくあしらわれたのに、売れたら手のひら返しかい」と、心情的な反発が出てしまうし。

で、その作家の再ブレイクがなければ、メールを放置するなどして、自然消滅に持ち込む。

――とまあ、こうなる。当該作家のエッセイを読む限り、このパターンの典型に思える。

たしかに私個人としても、そんな編集者は屑だと思う。最低でも連絡は即日返ししろよと。だが編集者に限らず、皆さんご存知のとおり、周囲を見回せば、どんな仕事でもいい奴と屑がいる。

アニメ化云々も同様。アニメのプロデューサーは、言ってみれば上記編集者と同じ行動原理だろう。つまり「売れる前からとにかく多くの作品に声だけ掛けておく」って奴よ。売れてから声を掛けるのでは、他社に遅れを取って権利が取れないからだ。だからたとえばその年3本のアニメを計画しているとしても、声だけは30作に掛けておくとかね。

それで小説が実際売れたら「この間の話のように、うちが進めます」と進む。売れなかったら、なんだかんだ理由をつけて自然消滅に持ち込む。

そんな流れではないかと思うわ。

この作家の方に限らず、この手の対応にあった人に助言したいのは、編集者なりアニメプロデューサーが「あなたの作品は最高です」「一生ついていきます」「監督が忙しくて」「今は難しいです」「ここの展開が駄目です」「古臭い」などと言われても、いちいち本気にしないことだ。

褒められようがけなされようが、所詮、赤の他人が、自分の利益のために嘘ついているだけと思ったほうがいい。自作の評価に入れ込みすぎると、精神面が危うくなる。一歩引いたところから、すべての状況を眺めておくことだ。最悪、兼業作家から趣味作家に戻るだけの話。飯のために他に仕事を持つという意味では、たいして違いはない。そのくらい冷徹に事態を把握しておけばいい。

本来、アニメ化打診だろうがプロット提出だろうが、作業を依頼してきた相手には、「期限つきの映像化優先権」「期限つきの出版検討権」などを有償で販売するべきだろう。ただ今の日本の現状でそうした慣習があるとは思えない。このあたり、新人作家が出版社と直接対峙するのは難しい。作家の利益を最大化する、出版エージェントと契約すべき時代なのかもしれない。

実際日本でも、出版エージェント事業は博報堂をはじめ、いくつかの企業が始めている。ただまだビジネスとして順調に立ち上がっているとは言い難いのが残念だ。

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昔、ドストエフスキーの「作家の手帖」をざっと見たことがあったが、設定や粗筋はほとんど書かれてなく、いろいろなシーンでの人物の対話などが主だった記憶がある。だから、研究者でないと、書かれた断片がどういう作品に反映されているか、読み取れないと思う。しかも使われなかった断片が大半だったのではないか。しかし、そういう作業を通じて、「生きた人間」が生まれてくるのだと思う。
たとえば、イヴァン・カラマーゾフの語る「大審問官」の話など、作者自身のキリストやキリスト教への普段の思索が結晶したものであって、話の都合で作った、いわゆる、娯楽ジャンルの創作におけるギミック(うまい手、からくり)ではない。そこがエンタメと純文学の相違でもある。たとえば、ゲーテの『ファウスト』は、悪魔との契約という設定は昔から御伽噺にあるものだ。だが、「この世で生きることの最高の果実は何か」というのは哲学問題であり、多くの御伽噺には哲学は無く、単に「この設定で聞き手を面白がらせよう」というレベルで終わる。つまり、「文学」にはならない。設定自体の面白さは、小話にしかならないのである。もっとも、その切れ味によっては名作短編になるが、設定自体が長編でなければ表現できないようなものの場合は、物凄い忍耐力、馬車馬的努力が必要になる。
私も、設定を考えるのは好きだが、完成させた少数の作品は、発作的な創作衝動で、一気に書き上げたものばかりであり、設定から作ったものはほとんど無い。
その反対が、なろう小説やなろう小説から作られたアニメだろう。これらは設定から出発し、アニメやゲームのお約束のデティールを詰め込み、馬車馬的努力で長々と続けただけのものだとしか私には思えない。もちろん、それらは「ここではないどこかへ」行ってしまいたいという近現代人の「実存の悩み」のお手軽な救済だから需要は大きいのである。

たつき監督の「ケムリクサ」はかなり前(7年ほど前?)から自主制作アニメとして「プロトタイプ」が作られており、それを、新たな要素を加え、再構成することでワンクールのテレビアニメにしたものである。要するに、アイデアと試作品と完成品の間に普通人では耐えきれない長い時間が横たわっているわけだ。ひとつのアイデアを反芻し、完成品として作り上げるまでにはそれだけの時間と努力がかかるわけで、これが制作委員会方式アニメでは決定的に欠けている部分でもある。「けものフレンズ2」のいい加減さとの対比があまりに明白だったから、ネットで「けものフレンズ2」はあれほど叩かれたのであり、実はあの程度のいい加減なアニメは腐るほどあったと私は思っている。いや、そういうアニメのほうがはるかに多いのであり、むしろたつきは現代アニメ界の「異端者」だろう。もちろん、私はその異端者を尊敬し、応援する。




設定やお話しから作って、説明役として登場人物に全部しゃべらせるという、全部、創作の逆を行ったための結果だよな。 

条件が与えられているにしても、その中で『何を見せるのか』『そのために必要なキャラクターは』という『創る』方向に動けなければ、ただ並んだ要件を語るだけで、何も生まない。


ツィート内容と関係は無いが、この地図は気に入った。私は関東各県の位置関係がいまひとつ頭にイメージできないのだが、これならよく分かる。埼玉が東京の真上(真北)に載っているのも、埼玉群馬栃木茨城千葉神奈川すべて東京より大きいのも知らなかった。そのいちばん小さい東京の人口がいちばん多いわけである。なお、山梨も関東に入れてやればいいのに、仲間外れで気の毒である。昔は江戸から大菩薩峠を通って山梨(甲斐の国)に行ったわけで、お隣さんだのに、なぜ関東ではないのだろうか。関東とは「関の東側」だから、箱根の関より西の山梨県はダメ、ということか。いや、下の地図のどのあたりが箱根の関かは知らないのだが。
ちなみに、大東亜戦争時の「関東軍」も、なぜ「関東」なのか分からず、最初は関東出身の兵士だけで構成された軍隊なのかな、と思っていた。たぶん、中国のどこかの有名な場所より東側を治める軍隊ということかと思う。函谷関だろうか。その函谷関の位置も私は知らない。


さんがリツイート

【教会豆知識】

イエス様が活動した地域はだいたい今の日本の関東地方くらいの広さで、故郷のナザレからエルサレムに行くのは、だいたい今の群馬県から東京に出て来るくらいの距離。



(追記)「関東軍」の名称の意味はウィキペディアに載っていた。函谷関ではなかった。


「関東軍」の名称は警備地の関東州に由来し(関東とは、万里の長城の東端とされた山海関の東側、つまり満州全体を意味する)、日本の関東地方とは関係ない。



ゲーテの「ファウスト」のように、悪魔との契約で異世界に転生する話。1900年くらいのロシア皇帝に転生し、日露同盟、露土同盟を結び、世界を平和にする。
皮肉屋のメフィストフェレスとの対話で話にアクセントをつけることができる。

断片だけでも少しずつ書いていくべきだろうか。だが、最近パソコンが不調で、書いたものすべてが無駄になるかもしれない。
ロジャー・パルバースと四方田犬彦の共著「こんにちは、ユダヤ人です」の中に、ウッディ・アレンが一番尊敬しているのはベルイマンだ、というパルバースの発言があるのだが、なかなか面白い言葉である。たぶん、アレンはどう努力してもベルイマンにはなれないし、逆もまた同じである。
たとえば、スタンリー・キューブリックがベルイマンになろうとしても無理だろうし、なる気もないだろう。逆もまた同じだ。
ベルイマンの特徴を一言で言えば、「超真面目でユーモアのかけらも無い」ということではないか、と思う。それでいて、見ていてある種の快感があるのが不思議なのだが、ユーモアとは別に、「厳粛な面白さ」というのが映画や文学には存在するのである。人生について、見る者にひとつの次元上昇を体験させる、というのが一番近いのではないか。これは、トルストイやドストエフスキーの小説にも言えることで、優れた純文学の持つ特長だと思う。一見軽く見える「第三の男」でも、人生についての次元上昇を観る者に与えるから、名作なのである。
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