はい | Да. ダー |
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いいえ | Нет. ニィエート |
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ありがとう | Спасибо. スパスィーバ |
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どういたしまして | Не за что. ニィエー ザ シタ |
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お願いします | Пожалуйста. (私が1番目に好きなロシア語です。) パジャールスタ |
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よろこんで! | С удовольствием! (私が2番目に好きなロシア語です。) スダヴォーリストゥヴエム |
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わかります | Я понимаю. ヤー パニマーユ |
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わかりません | Я не понимаю. ヤー ニ パニマーユ |
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ゆっくり話してください | Говорите медленно. ガヴァリーチェ ミェードリンナ |
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もう一度お願いします。 | Повторите, пожалуйста. パフタりーチェ パジャールスタ |
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もちろん | Конечно. カニェーシナ |
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たぶん | Может быть. モージト ブィチ |
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いいね | Это хорошо. エータ ハらショー |
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悪い | Это плохо. エータ プローハ |
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すいません、ごめんなさい | Извините. イズヴィニーチェ |
俺はその少女の方に向かって歩き出した。近づくにつれて少女の様子がはっきりしてくる。明らかに外国人の顔立ちで、明らかに北方系、おそらくロシアかその周辺の国の顔だ。服装も、エプロンにスカーフで、農家の娘のようだ。色白で、目は青い。ほっそりしているが、顔はやや丸顔で可愛い。
「*******! ******」
何を言っているのか、さっぱり分からない。俺の心は不安感でいっぱいになる。
「******! ******?」
何か問いかけているのは分かるが、それ以上は分からない。
「****グレゴリー?」
たぶん、俺はグレゴリーと言うのだろう。仕方なく、おれはうなづいた。この世界で、うなづく仕草が同意を示すかどうかは分からないが、そうするしかない。
少女は途方に暮れたような顔で、まだ何とかかんとか言っていたが、まったく俺には分からない言葉だ。ただ、ロシア語であるような気はする。ロシア語なら、「ニエット」が「ノー」の意味だというのは知っているが、「イエス」は何と言ったか。「ヤー」とか「ダー」とか言った気がする。いや、「ヤー・チャイカ」が「私はカモメ」と訳されていたから、「ダー」の方か。
少女は俺の手を引っ張るようにして、近くにあった小さな家に連れていった。
家の作りは、二間か三間くらいだろうか。居間と台所が一緒で、奥に寝室があるようだ。
その居間のテーブルは大きい。家は小さいが家族は多いような気がした。
少女は俺を粗末な木の椅子に座らせて、暖炉(いわゆるペチカだろうか?)の上の妙な器具からお茶らしきものを注いで私の前に置いた。
「*****」
と少女が言った時、俺は、「有難う」と言ったが、少女は首を傾げる。
俺は思いついて「スパシーボ」と言ってみた。何となく、それが「有難う」のロシア語だという気がしたのである。もっとも、ここがロシアかどうかまだ分からないが。
少女は「スパシーボ? ******スパシーボ?」
と言って首を傾げたが、笑顔になったので、まあ、これでいいか、と俺は思った。
少女が俺の傍に来て、その身をかがめた時、少女が何をするつもりなのか、俺はまったく予想もしていなかった。
突然のキス。
生まれて初めてのキスに俺はパニクった。
いや、相手は、まあ、俺の感覚では美少女だし、実にラッキーだとは思うが、そもそも、キスとはどうするものなのか。唇と唇を合わせるだけではないような気がする。確か、舌を相手の口の中に突っ込むとか、舌と舌を絡み合わせるとか、あったような気がするが、気が動転するだけで、どうしていいか分からない。だが、美しい少女と唇を重ねるだけでも至福である。
「******! *****?」
少女が唇を離して何か言い、にっこり笑ったので、別に不快感は与えなかったようだと判断して俺は安心した。
家の外で足音と数人の人声がした。この家の人たちが帰ってきたのだろう。
さて、これからが地獄だ、という気がした。
いやはや、自分の身にこんなことが起こるとは。
こんなこと、とは、異世界転生だ。今時の小説には腐るほどあるシチュエーションで、もはや誰もが冒頭を読んだだけで投げ捨てる類の話である。さきほどまで都会の高校生だった人間が突然、四方すべてが平原で、山らしい山もまったく見えない場所にいるのだから、異世界に来たとしか思えないのは当然だろう。
だが、俺はそれまで自分の人生にうんざりしていたので、この奇妙な出来事にあまり悲観してはいなかった。何しろ、17歳のこの年まで、ガールフレンドひとり作れなかったどころか、好きな女の子(秀才で美人である)が学校一の不良の女だと知ったばかりで、自殺すら考えていたのである。母親は「勉強しろ」以外の言葉を言ったことが無いし、父親は家と会社を往復するだけで、いるかいないか分からないような男だ。兄はいるが、嫌な奴で、俺が生まれた時から陰で俺をいじめてばかりいたし、学校に上がってからの俺は周りの子供にいじめられてばかりいた。勉強もスポーツもできない。どうせ大学もFラン大学に入って、そこでもさえない学生生活を送り、就職も最低の職場になるだろう。まあ、要するに、ゴミのような最低の生活が待っている将来だったわけだ。
さて、それはともかく、なんでこうなったかと言うと、自分でもよく分からないのだが、学校から帰る途中で、目の前が光でいっぱいになり、気がつくと、この大平原の真ん中にいたわけだ。大平原とは言っても、少し離れたところに林がいくつかあり、巨大な畑らしきものもあるから、人間の住む世界ではあるようだ。だが、それが人類なのか、異世界人、あるいは異星人なのかは分からない。
で、実は、俺自身の体も身なりもまったく違うものになっていたのだが、それは、荒い布で織った粗末なズボンと上着に包まれた、ひどく頑健な体だった。背の高さもかなり高くなっているようだ。以前は165センチほどだったが、今は180センチ近くか、あるいはそれ以上あるかもしれない。それに、筋肉の量がまったく違う。俺はスポーツなどやったこともなく、やせっぽちだったのだが、この体なら、かなり頑健な人間であるのは確かだろう。
だが、残念ながら、俺は百姓に転生したらしい。その証拠に、目の前に鋤があるのだ。変わった形の鋤だが、全体の形状でその道具の役目は分かる。
せっかく異世界に来ても、英雄は俺の仕事ではないようだ。
何はともあれ、この世界がどういう世界で、ここでどうして生きていくかが問題だ。
何となくだが、ここはロシアか、その近辺の国ではないか、と思った。そして、自分の着ている服の生地の織り方の荒さから、かなり貧しい国か、あるいは古い時代のような気がした。
なろう小説の異世界転生物なら、異世界に行っても言葉は通じるし、特異能力を持って転生するのが普通だから気楽なものだが、たとえばふつうの人間が外国の土地に無一物で投げ出されたら、そこが現代の世界でも生きていけるか怪しいものである。
そもそも、この世界に人間はいるのか、そして俺の言葉は通じるのか、そこが第一の問題だ。
時刻は真昼らしい。頭の上の青空に太陽が輝いている。そして季節は春らしい。風や空気や空の色がそういう感じだ。まあ、真冬や真夏でなくて良かった。いや、この世界に四季があるのか分からないが、こういう気候が続くなら、生きるのには好都合である。
畑の作物が何なのか、俺には分からない。都会生まれ都会育ちの人間なら当然だ。その畑を耕すのが俺の仕事なら、つまり異世界の百姓に転生したとしたら、これはかなり冴えないシチュエーションで、小説なら誰もこれ以上読まないだろうが、あいにく俺はこの世界で生きていくしかないし、百姓としてしか生きられないならそうするしかない。
「グレゴーリー!」
と後ろから声がして、俺は振り向いた。俺以外には誰もいないのだから、その声は俺を呼んだのだろうと思ったのだが、その発音が、まったく日本人の発音ではないのに不安も感じていた。
俺から100メートルほど離れた小さな木立の傍にひとりの少女が立ち、俺に手を振っていた。
生涯[編集]
出生から帝都進出まで[編集]
1869年1月9日、シベリアの寒村ポクロフスコエ村の農夫エフィム・ヤコブレヴィチ・ラスプーチンとその妻アンナ・パルシュコヴァの第5子として生まれる。翌10日に洗礼を受け、ニュッサのグレゴリオスから名前を授けられ、「グリゴリー」と名付けられた[3]。ラスプーチンは学校に通わなかったため読み書きが出来なかった(1897年のロシア政府の国勢調査によると、村人の大半が同様に読み書きが出来なかった)[4]。 素行不良で粗暴な若者へ育ったグレゴリー青年はロシア正教会スコブツィ教派の教義[5]に傾倒、指導者としての頭角を表す。幼少期のラスプーチンについて、娘のマリア・ラスプーチナが記録を残しているが、彼女の記録は信頼性が低いと見なされている[6]。
1887年にプラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚するが、1892年、唐突に父親や妻に「巡礼に出る」と言い残して村を出奔した[7]。一説では、野良仕事をしているとき生神女マリヤの啓示を受けたといわれている。出奔後はヴェルコチュヤの修道院で数か月過ごしたが、その際に出会ったミハイル・ポリカロポフに強い影響を受け禁酒し肉食を控えるようになり、村に戻って来た時には熱心な修行僧になっていた[8][9][10]。
1903年に再び村を離れ数か月間巡礼の旅に出かけキエフ・ペチェールシク大修道院を巡り、カザンでは司教や上流階級の人々の注目を集める存在となった[11][12][13]。ラスプーチンは十分な教育を受けていないため、独自の解釈で聖書を理解していたが、その熱心な姿勢が好感を与えていた[14]。その後、ラスプーチンはクロンシュタットのイオアンと共に教会建設の寄付金を集めるためにサンクトペテルブルクを訪れ、サンクトペテルブルク神学校のセルギウス1世に寄付を求めた[15]。サンクトペテルブルク滞在中のラスプーチンはアレクサンドル・ネフスキー大修道院に宿泊していたが、彼の心理的洞察力に感銘を受けたワシーリー・ビストロフに請われ、彼の宿舎に移り住む。
ロマノフ家の語学教師だったピエール・ジリヤールによると、ラスプーチンがサンクトペテルブルクに来たのは1905年とされるが、歴史家のヘレン・ラパポートは1903年の四旬節の頃と主張している他、1904年という説もある[16][17][18]。
皇帝夫妻の友人[編集]
サンクトペテルブルクに出たラスプーチンは、人々に病気治療を施して信者を増やし「神の人」と称されるようになり、神秘主義に傾倒するミリツァ大公妃とアナスタシア大公妃の姉妹から寵愛を受けるようになり[19]、1905年11月1日に大公妃姉妹の紹介でロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后に謁見した[20]。当時のロシア貴族の間では神秘主義が広く浸透しており、アレクサンドラも神秘主義に傾倒していた[21][22]。
1906年10月、ニコライ2世の要請を受け、爆弾テロにより負傷したピョートル・ストルイピンの娘の治癒に当たり、1907年4月にはエカテリーナ宮殿に呼び出され、血友病患者であったアレクセイ皇太子の治癒に当たった。医師たちはラスプーチンの能力に懐疑的だったが、彼が祈祷を捧げると、翌日にはアレクセイの発作が治まって症状が改善した[23][24]。ギラードと歴史家エレーヌ・カレール=ダンコース、ジャーナリストのディアムルド・ジェフリーズは、ラスプーチンの治療法は1899年以降流通したアスピリンの投与による鎮痛治療だったと推測している[25][26][27][28]。
血友病を治癒したことで、ラスプーチンは皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取り、「我らの友」「聖なる男」と呼ばれるようになったが、多くの人々はラスプーチンをペテン師だと考えていた[29]。侍医のエフゲニー・ボトキンとウラジーミル・デレヴェンコはラスプーチンの能力は催眠術だと信じており彼を皇帝一家から遠ざけようとし、フェリックス・ユスポフはピョートル・バドマエフから入手したチベット・ハーブでアレクセイを薬漬けにしたと考えていた[30]。しかし、ラスプーチンは1913年以前には催眠術に興味を抱いておらず、また、ユスポフの主張も現在では否定されている[31][32][33]。
1912年10月9日、皇帝一家はビャウォヴィエジャの森に狩猟に来ていたが、そこでアレクセイの病状が悪化した[34]。皇帝一家はスピアに移り治療を行い、アレクサンドラはペテルブルクにいるラスプーチンに助言を求めた[35][36][37]。翌10日、ラスプーチンは「小さな子が死ぬことはありません。しかし、私が治療するのを侍医たちが許さないでしょう」と記した手紙を送っている[38]。ラスプーチンの助言通りにアレクセイは死ぬことはなかったが、病状が回復するのは1913年に入ってからだった。
怪僧[編集]
やがてラスプーチンはアレクサンドラはじめ宮中の貴婦人や、宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集めるようになる。彼が女性たちの盲目的支持を得たのは、彼の巨根と超人的な精力によるという噂が当時から流布しており、実際に彼の生活を内偵した秘密警察の捜査員が呆れ果て、上司への報告書に「醜態の限りをきわめた、淫乱な生活」と記載するほどであった。しかし、貴族たちは次第にラスプーチンが皇帝夫妻に容易に謁見できることに対して嫉妬心を抱くようになった[39]。サンクトペテルブルクではアパート5部屋を借りて家族と共に暮らしていたが、家賃はアレクサンドラ又は信者のアレクサンドル・タネエフが代わりに支払っていた[40][41]。
1907年9月にトボリスクで開かれた教会裁判において、ラスプーチンはフリスト派を信仰しており、偽の教義を広め女性信者とキスや混浴をしたとして非難された[42][43]。しかし、地元の司祭たちがラスプーチンを連れ出そうとした時には、既に彼はトボリスクを離れており、フリスト派との関係を示す証拠も発見されなかった[44][45]。このような醜態は新聞によって大々的に報道され、ラスプーチンの理解者だったビストロフも彼から離れ、ストルイピンも帝都からの追放を画策していた。
1911年初頭に、ニコライ2世はラスプーチンに巡礼団の一員になるように指示した[46]。ラスプーチンは巡礼団に加わり生神女就寝ポチャイフ大修道院に向かい、その後はコンスタンティノープル、イズミル、エフェソス、パトモス島、ロードス島、キプロス、ベイルート、トリポリ、ヤッファを巡り、四旬節に聖墳墓教会に到着した[47]。
1912年初頭、ゲオルギー・ドルガニョフはラスプーチンがフリスト派の儀式に参加したと主張した。ラスプーチンがフリスト派の儀式に参加したことは事実と見られているが、言動にフリスト派の影響を受けたと思われる点は確認されていない[48][49]。また、この時期には「ラスプーチンとアレクサンドラが愛人関係にある」という噂も流れた[50]。噂に基きミハイル・ロジャンコはラスプーチンに帝都から出て行くように要求した[51][52][53][54]他、首相ウラジーミル・ココツェフはラスプーチンを「亡命」させるようにニコライ2世に進言したが、拒否されている[55]。トボリスク司教はラスプーチンを「皇室とロシア正教会の仲介者」と好意的に見ていたが、大半の司教たちは反感を抱いており、聖務会院はラスプーチンを「不道徳者」「異端者」「エロトマニア」などと非難した[56][57]。この頃、ラスプーチンはロシアで最も嫌われる人物の一人となっていた[58]。
ラスプーチンの言動はドゥーマでも問題視され[59]、1913年3月にアレクサンドル・グチコフ率いる10月17日同盟がラスプーチンの調査を行うことになった[60][61]。しかし、トボリスク司教は調査への協力を拒否した[62]他、ニコライ2世もラスプーチンの身を案じて調査の中止を命令した[30][63][64]。1914年1月29日、ニコライ2世はココツェフを解任し、イワン・ゴレムイキンとピョートル・バルクを後任の首相・大蔵大臣に任命した。
暗殺未遂[編集]
1914年6月29日午後3時、ポクロフスコエ村に帰郷していたラスプーチンは自宅でキオーニャ・グセヴァに襲われた。キオーニャは顔を黒いハンカチで覆い、短剣でラスプーチンを殺そうとした。ラスプーチンは腹部を刺され自宅から飛び出し、地面に落ちていた棒で反撃した[65]。ラスプーチンは近隣から医師が来るまで自宅に留まり、翌30日午前0時に医師が到着し治療を受けた[66]。
4日後、ラスプーチンは妻子に伴われて船でチュメニの病院に移送された。知らせを聞いたニコライ2世は直ちにチュメニに医師団を派遣し手術を受けさせた[67]。7週間後の8月17日、回復したラスプーチンは退院し、9月中旬にペトログラードに到着した[68]。娘マリアによると、ラスプーチンは暗殺未遂の主犯は彼を批判していたセルゲイ・トルファノフとウラジーミル・ドズコフスキーだと信じていたという(キオーニャはトルファノフの信者だった)[69][70]。しかし、トルファノフはキオーニャからラスプーチンの暗殺を進言された際に拒否していた[71]。
10月12日、トルファノフは殺人扇動の罪で告発されたが、検察官は非公開の理由で起訴を取り下げた[72]。また、キオーニャは異常者としてトムスクの精神病院に収容されたため、裁かれることはなかった[73][74]。この事件を最後にラスプーチンを公然と批判する勢力はいなくなった。ストルイピンは既に暗殺され、ココツェフは失脚、ビストロフとドルガニョフは追放され、トルファノフも逮捕を免れるためマクシム・ゴーリキーの助けを借りて逃亡していた[75]。
まあ、とりあえず、「重力質量」と「慣性質量」の違いを最初に教え、質量とは(定義から見て)本来は慣性質量だが、同じ場所(たとえば地球上)では便宜的に重力質量を用い、それは「重さ」の単位で表す、と教えればいいのではないか。(私は重力質量と慣性質量をそう理解したのだが、間違いだろうか。)
質量の概念[編集]
より正確な記述は後述することにして、「質量の概念」や「質量・重量(重さ)の違い」について概略を述べる。
バケツやコップに水を注ぐと、注いだ分だけバケツやコップの重さが増す。このことは、容器を変えても同様であり、水の量(体積)に応じて水の重さが変わることが分かる。また、同じ容器に水ではなく水銀などを入れると、同じ大きさの容器かつ同じ体積であるにもかかわらず、入れた物質によって「重さ」が異なることが分かる。このように、物の重さはその物の種類と量によって異なり、逆に同じ重さであっても異なる種類と量の物を用意することができる。このことから、様々な物体に共通する、物体の重さを支配する量が存在すると期待できる。後述するように、このような役割を果たす物体固有の量が、質量である。
物を支える際に感じる「重さ」以外にも、物を動かしたときにもその物体の「重さ」を感じることができる。台車に荷物を載せて運ぶ際、台車を動かし始めるときや動いている台車を止めるとき、たとえ同じ速さで台車が動いていたとしても(あるいは動いていなかったとしても)、台車に載せた積荷の量によって感じる手応えは異なる。このように、物体の動かし難さとしての「重さ」が存在し、それは物体の種類と量によって異なるため、先ほどの場合と同様に物体がある種の「質量」を持っていると考えられる。
物体を支える際に感じる「重さ」は、その物体を支えるものがなければ物体は落ちていってしまうので、物の落下する性質に関係する。物体が落下しようとする力を重力と呼び、これに関係する質量を重力質量と呼ぶ。重力質量の大きさは天秤を用いて測ることができる。同じ重力質量を持つ物体同士は重さも等しいので、天秤に載せると互いに釣り合う。基準となる物体を用意することで、基準に対する比として重力質量が定まる。
物体を動かす際に感じる「重さ」は、静止している物体は静止し続け、ある速さで運動する物体は同じ速さで運動し続けようとする性質、すなわち物体の慣性に関係する。これに関連する質量を慣性質量と呼ぶ。慣性質量は、たとえばハンマー投げのように物体を円運動させたときに感じる手応えによって知ることができる。慣性質量の異なる物体を同じように円運動させたとき、慣性質量が大きいほど円運動を維持するのに必要な力は大きくなる。
経験的に、慣性質量の大きな物体は重力質量が大きい、つまり「地球の重力で引っ張られて重い」(持ち上げにくい)と感じられる物ほど、「無重力状態でも動かしにくい」ことが知られている。この事実から、慣性質量と重力質量の違いに因われることなく、物体の重さを感じることができる。この慣性質量と重力質量の関係性を直接的に示すものが落体の法則である。落体の法則によれば、自由落下する物体の運動は、物体の重力質量に依らず同じであり、このことから重力質量と慣性質量が等価であることが導かれる。重力質量と慣性質量の等価性から、両者を区別することなく、単に質量と呼ぶことができる。この現象は、基本的には一般相対性理論の等価原理によって説明される。