このスレッドを表示
久生十蘭の「鈴木主水」を最初に読んだのは何年前か、とにかく若いころだったが、面白さがまったく分からない作品だった。時代小説プロパーでもないはずだのに見事にその時代の言葉を駆使して破綻なく書いているな、とは思ったが、話の内容そのものに面白さを感じられなかったのだ。
つまり、「直木賞受賞作品」ということは、「面白い大衆小説」と同義語、というのが私の考えだったので、柴田錬三郎的な面白さを期待してたのに、まったく主人公が活躍しない、功名も挙げないのでは、ワクワクドキドキも無かったわけである。
で、昨夜、久しぶりに「鈴木主水」を読み返して、その良さが理解できたのだが、「これは若い人間には理解できんわ」とも思った。つまり、話の中心点は、鈴木主水という「主人公」ではなく、話の中では最初敵側の人間で「悪女」と思われていたお糸の主水への悲恋にあるのだが、話が主水の側から描かれているために、この真の主題がそそっかしい読者には読めない描き方だったわけだ。で、主水だけを見ていたら、面白くも何ともない話になるのだが、読み巧者が読めば、実に美しい悲恋物語であることがわかるという、そういう作品なのだった。
プロの作家というのは凄いな、とも思うし、昔の直木賞選定委員たちの鑑識眼は凄いな、と思う。
で、この作品を、「恋の殉教者」である主水とお糸の側ではなく、話の中では主水たちに置いてけぼりにされている主水の妻、お安の側から描いたら、それも面白いだろうな、と思う。
つまり、いつも冷静で冷たい女だと思われているお安が、実はお糸同様に主水に恋していて、表面を慎んでいただけだった、という話である。昔の男女の作法としては珍しくないだろう。
その主水がお糸と心中をした後、二人の幼い子供と残されたお安の気持ちはどんなだったか。
心中者たちは、実は恋の勝利者であり、残された者は恋の敗北者である。その敗北者の視点からこの話全体を見てみたいものだ。いや、書けたら私が書くが、当然、そんな技量は無い。
つまり、「直木賞受賞作品」ということは、「面白い大衆小説」と同義語、というのが私の考えだったので、柴田錬三郎的な面白さを期待してたのに、まったく主人公が活躍しない、功名も挙げないのでは、ワクワクドキドキも無かったわけである。
で、昨夜、久しぶりに「鈴木主水」を読み返して、その良さが理解できたのだが、「これは若い人間には理解できんわ」とも思った。つまり、話の中心点は、鈴木主水という「主人公」ではなく、話の中では最初敵側の人間で「悪女」と思われていたお糸の主水への悲恋にあるのだが、話が主水の側から描かれているために、この真の主題がそそっかしい読者には読めない描き方だったわけだ。で、主水だけを見ていたら、面白くも何ともない話になるのだが、読み巧者が読めば、実に美しい悲恋物語であることがわかるという、そういう作品なのだった。
プロの作家というのは凄いな、とも思うし、昔の直木賞選定委員たちの鑑識眼は凄いな、と思う。
で、この作品を、「恋の殉教者」である主水とお糸の側ではなく、話の中では主水たちに置いてけぼりにされている主水の妻、お安の側から描いたら、それも面白いだろうな、と思う。
つまり、いつも冷静で冷たい女だと思われているお安が、実はお糸同様に主水に恋していて、表面を慎んでいただけだった、という話である。昔の男女の作法としては珍しくないだろう。
その主水がお糸と心中をした後、二人の幼い子供と残されたお安の気持ちはどんなだったか。
心中者たちは、実は恋の勝利者であり、残された者は恋の敗北者である。その敗北者の視点からこの話全体を見てみたいものだ。いや、書けたら私が書くが、当然、そんな技量は無い。
子供がネット配信の「ドラクエⅢ」を入れてくれたので、そればかり何周もしているのだが、未だに「商人」や「盗賊」を最後まで育てたことが無いし、「遊び人」は使ったことが一度もない。遊び人のギャグが寒すぎるので、連れ歩くのが不快なのである。
昔のスーファミ版より劣化しているのは、キャラ画像が三流漫画家が描いたとしか思えないことと、「すごろく」が無くなったことだが、冒頭の「性格診断」も劣化している気がする。バリエーションが極端に少なくなったのではないか。
まあ、それらの欠点は欠点として、やはり一番私好みのRPGではある。易しすぎ、短すぎのⅠや、途中から極端に難しくなって完走がほぼ不可能なⅡにくらべてゲームバランスが一番いい。世界の広さもちょうどいい。ドラクエはⅢで終われば伝説のゲームになったのではないか。Ⅳ以降は蛇足だと思う。
Ⅲは物語の内容やゲーム構成などはいいのだが、キャラクターが死んでも簡単に生き返る、というのは、まあ、子供向けゲームとしては正解なのかもしれないが、私としては、ゲーム内の仲間の死は本当の死として描いたほうがスリリングで強烈な迫力になったのではないかと思う。ただし、ルイーダの酒場で新しいキャラクターを作れることにする。つまり、新しい仲間と組んで再起をめざすのである。そして、死んだ仲間の墓を酒場の後ろに作る。ゲームが終わった後、そこに墓参りするのもいい。
もうひとつ、戦いで「重傷を負う」場合を作ってほしかった。怪我をしたら戦闘力は下がり、ある程度のダメージを負うと戦闘不能になり、後方に下げられるわけだ。戦闘中のダメージ回復は、無しである。最悪のダメージは、もちろん死である。
そして、戦闘が終わっても、重傷を負った仲間はすぐには回復しない。宿屋で療養することになる。その場合、旅を続けるなら仲間を一人欠いた状態で旅することになる。後で、回復した仲間のもとを訪ねて、ふたたび合流することもできる。怪我からの完全回復はしない状態で合流することもできるが、その場合はそのキャラの戦闘力は下がったままである。
また、能力指標として「精神力(気力・集中力)」というのがほしい。この指標が高いキャラは、メダパニやスリープ(ドラクエでは何と言ったか忘れた)にはほとんどかからない、というわけだ。これは戦闘への参加回数によって少しずつ数字が上がることにする。つまり、精神的経験値だ。
そういうようなゲームコンセプトで作るなら、ドラクエⅠもⅡもⅢもリメイクする価値があるだろう。特に、「死んだら終わり」ということにするだけでも、プレイヤーに与える印象がまったく違ったゲームになるはずだ。最後まで仲間をひとりも死なさずに完走したら、その感動も大きいだろう。いわば、「人命尊重型RPG」である。
昔のスーファミ版より劣化しているのは、キャラ画像が三流漫画家が描いたとしか思えないことと、「すごろく」が無くなったことだが、冒頭の「性格診断」も劣化している気がする。バリエーションが極端に少なくなったのではないか。
まあ、それらの欠点は欠点として、やはり一番私好みのRPGではある。易しすぎ、短すぎのⅠや、途中から極端に難しくなって完走がほぼ不可能なⅡにくらべてゲームバランスが一番いい。世界の広さもちょうどいい。ドラクエはⅢで終われば伝説のゲームになったのではないか。Ⅳ以降は蛇足だと思う。
Ⅲは物語の内容やゲーム構成などはいいのだが、キャラクターが死んでも簡単に生き返る、というのは、まあ、子供向けゲームとしては正解なのかもしれないが、私としては、ゲーム内の仲間の死は本当の死として描いたほうがスリリングで強烈な迫力になったのではないかと思う。ただし、ルイーダの酒場で新しいキャラクターを作れることにする。つまり、新しい仲間と組んで再起をめざすのである。そして、死んだ仲間の墓を酒場の後ろに作る。ゲームが終わった後、そこに墓参りするのもいい。
もうひとつ、戦いで「重傷を負う」場合を作ってほしかった。怪我をしたら戦闘力は下がり、ある程度のダメージを負うと戦闘不能になり、後方に下げられるわけだ。戦闘中のダメージ回復は、無しである。最悪のダメージは、もちろん死である。
そして、戦闘が終わっても、重傷を負った仲間はすぐには回復しない。宿屋で療養することになる。その場合、旅を続けるなら仲間を一人欠いた状態で旅することになる。後で、回復した仲間のもとを訪ねて、ふたたび合流することもできる。怪我からの完全回復はしない状態で合流することもできるが、その場合はそのキャラの戦闘力は下がったままである。
また、能力指標として「精神力(気力・集中力)」というのがほしい。この指標が高いキャラは、メダパニやスリープ(ドラクエでは何と言ったか忘れた)にはほとんどかからない、というわけだ。これは戦闘への参加回数によって少しずつ数字が上がることにする。つまり、精神的経験値だ。
そういうようなゲームコンセプトで作るなら、ドラクエⅠもⅡもⅢもリメイクする価値があるだろう。特に、「死んだら終わり」ということにするだけでも、プレイヤーに与える印象がまったく違ったゲームになるはずだ。最後まで仲間をひとりも死なさずに完走したら、その感動も大きいだろう。いわば、「人命尊重型RPG」である。
地名や人名の漢字は当て字が多く、初見で読めというのが無理なものはたくさんある。そういうのを度外視しても、たとえば「好事家」を「こうじか」ではなく「こうずか」と読む、などというのは無理な感じがある。「好事家」以外で「事」を「ず」と読む例があるだろうか。
2019
映画というのはもともと絵空事を「本物風に味付けして」見せるものであり、それを「こんなの絵空事じゃん」と思いながら見たら即座に崩壊する世界である。
逆に「絵空事は絵空事として面白ければいいじゃん」というのがアニメである。実写では不可能な描写や実写だと汚らしくなる対象が抵抗感無く見られるようになる。「NEW GAME!」など、現実には汚らしい親父たちがブラック企業でこき使われる話で、それを実写でやったら悲惨で醜いだけだろう。最近の萌え絵アニメのほとんどは、女の子たちを不細工にしたり男の話にしたら成立しない話ばかりである。
フィクションの中でリアリズムが大事なのは、「そこをリアリズムで描かないと子供でもアホ臭く思うだろう」という部分だけだ。
たとえば、私が子供のころに見た日活映画だと、喧嘩の場面で、拳が当たってもいないのに相手が吹っ飛ぶとか、東映時代劇で、まるで踊りでしかないチャンバラ場面などは、子供心に白けたものである。もっと大きなホラだと、たとえば東映SF映画などで地球に彗星がぶつかるから地球に噴射機をつけて軌道から動かす、という大法螺など、まったく抵抗感なく見られたのだ。
つまり、設定自体が空想的なフィクションだという前提ならどんなに非現実的でもいいが、日常的な部分のデティールこそリアリズムが大事だ、ということである。
ただし、日常性のリアリズムと言っても、下のツィートにある「パンツの中に手を入れてボリボリ掻いて『あ~インキン痒か~』」を実写でリアルに描いてそれを面白いと思う観客がDQN以外にいるか、という話だ。要するに、作り手自身がDQNだから実写と漫画の違いを理解していないのである。
実写化で成功した漫画は、非常に少ないのだ。
逆に「絵空事は絵空事として面白ければいいじゃん」というのがアニメである。実写では不可能な描写や実写だと汚らしくなる対象が抵抗感無く見られるようになる。「NEW GAME!」など、現実には汚らしい親父たちがブラック企業でこき使われる話で、それを実写でやったら悲惨で醜いだけだろう。最近の萌え絵アニメのほとんどは、女の子たちを不細工にしたり男の話にしたら成立しない話ばかりである。
フィクションの中でリアリズムが大事なのは、「そこをリアリズムで描かないと子供でもアホ臭く思うだろう」という部分だけだ。
たとえば、私が子供のころに見た日活映画だと、喧嘩の場面で、拳が当たってもいないのに相手が吹っ飛ぶとか、東映時代劇で、まるで踊りでしかないチャンバラ場面などは、子供心に白けたものである。もっと大きなホラだと、たとえば東映SF映画などで地球に彗星がぶつかるから地球に噴射機をつけて軌道から動かす、という大法螺など、まったく抵抗感なく見られたのだ。
つまり、設定自体が空想的なフィクションだという前提ならどんなに非現実的でもいいが、日常的な部分のデティールこそリアリズムが大事だ、ということである。
ただし、日常性のリアリズムと言っても、下のツィートにある「パンツの中に手を入れてボリボリ掻いて『あ~インキン痒か~』」を実写でリアルに描いてそれを面白いと思う観客がDQN以外にいるか、という話だ。要するに、作り手自身がDQNだから実写と漫画の違いを理解していないのである。
実写化で成功した漫画は、非常に少ないのだ。
-
-
アシさんが某漫画のドラマ化に関して漫画なら可愛い絵柄もあってファンタジーとして見れてた過剰な出来事が生身の俳優が演じると汚らしく見えるというあるある意見。俺は松本零士原作、曽根中生監督の『元祖大四畳半大物語』(80)思い出す。
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
カテゴリー
最新記事
P R