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別ブログに書いた記事だが、記事の性質上、こちらのブログのほうが掲載場所には適当かと思うので、転載しておく。なお、「独楽」は「コマ」の意味ではなく、漢字の意味のとおり、「独りを楽しむ」意味。
私自身の創作も、「独りを楽しむ」のが主な目的であり、ヘンリー・ダーガーと私は類縁の者である。


(以下自己引用)





笑いの原理

「独楽」的な趣味の一つとして、小説や漫画原作やシナリオを書く、ということについて考えてみる。
断片的に考えていくつもりである。

今日は、最初に、ギャグやユーモアの作り方を考えてみたい。

手元にある三つの漫画から、その特徴や、それがなぜ笑いを生むのかを考えよう。
三つの作品は、「三月のライオン」「でぃす×こみ」「蒼の六郷」である。「三月のライオン」はともかく、ゆうきまさみやあさりよしとおの漫画のユーモアが好きだ、という人は珍しいかもしれないし、彼らの漫画の特長がユーモアだ、と言う人も多くないような気がする。それだけに、なぜそれが「読んで心地いいユーモア」なのかを考察する価値はありそうだ。

まず、「三月のライオン」から考えてみる。
そのユーモアは、「いい大人が子供じみた行動を大真面目でする」、あるいは「大人を大きな子供として描く」ことから来ることが多いように思う。美女も美男も善人も悪人も、どこかで子供っぽい一面を見せ、それで読者は彼らを好きになってしまう、ということが多いのではないか。「悪女」キャラの香子が、食い過ぎで動けなくなる等。
もう一つは、「心で考えていること(自分を美化したりしている)」と、現実行動や他人から見た姿の食い違いによる笑いである。
こう書けば、簡単なように見えるが、その具体的な事柄をひとつひとつのプロットや出来事として頭脳から生み出すことは、なかなか大変だろうと思う。おそらくは、人物たちの出遭う事件に際して、それぞれの人物が考えることや行動することが、「三月のライオン」キャラとしてはこう考え、こう行動するはずだ、という線があるのだろう。
つまり、笑いを狙って、ありえない行動やありえない事件を無理に作るのではなく、ありうる行動だが、「三月のライオン」キャラらしい誇張を加える、ということかと思う。
たとえば、「自分が考えている自分の姿」と「他人が見たその人の姿」の食い違いのような、当たり前の食い違いでも、漫画として描けば、それだけで笑うに足るものとなる。そういう内面と外面の落差というのが、「三月のライオン」ではかなり大きな比重を占めているようだ。それだけでなく、過去の自分と今の自分の落差、理想の自分と現実の自分の落差が、この作品の物語としての大きな柱であり、笑いをも生み出す部分だろう。結論「落差は笑いを生む」。

「でぃす×こみ」の笑いは、何によるものか、分析が難しい。概して、主人公の一人である高校三年生の女生徒でかつ新人漫画家である渡瀬かおるのキャラクターが笑いを作っているようだ。可愛いが少し癇癪持ちで、頑固で融通が利かないところがあるが、素直に他者の美点を認めるし、常に前向きである。頭はいいがどこかずれていてのんびり屋の兄とのコンビネーションが笑いを生むのだと思う。落語の「長短」みたいなものだ。いずれにしても、キャラから来る笑いであり、また、兄妹両者の落差(編集者との落差もある。)から来る笑いだから、ここでも「落差は笑いを生む」原理に従っているかと思う。


「蒼の六郷」はどうか。絵柄の可愛さで読者をほのぼのとした気持ちに誘うのはいつもどおりだし、笑いの質もいつもどおりだが、あさりよしとおの笑いとはどういう笑いなのか、これも分析は難しい。一番目立つのは「何か重大そうな出来事」があって、それに対して登場人物たちが身構えていると、無害そのものの出来事であったことが判明する、という「大山鳴動して鼠一匹」の笑い、「拍子抜け」の笑い、「肩すかし」の笑いかと思う。これは「落とし噺」の常套手段でもあるが、あさりよしとおはこれを多用しているように思う。そして、これもまた「予期したこと」と「解決(真相解明)」の落差から来る、と言える。


以上から結論されることは、「落差が笑いを生む」という原理かと思う。

ハゲ頭そのものも笑いを生む(これは「不調和が笑いを生む」原理と言っておく。)が、禿げ頭の男がかぶっていたカツラが取れて禿げ頭がばれる、という事態のほうが、「落差」が大きいから、それだけ笑いも強くなるのではないか。

なお、「気持ちいい笑い」と「不快感を与える笑い」の違いは、後者にはわざとらしさ(極端な不自然さ)、臭み、他者(特に弱者)に対する悪意が感じられるところにあるかと思う。



(追記)「真田丸」のある場面についてディレクターの一人が語った言葉が、「落差がギャグになる」ことのいい事例かと思うので、引用しておく。ここでは、ギャグが同時にその人物の性格をも表現している。


 一例は第1話「船出」(1月10日放送)。武田家が絶体絶命の危機を迎え、囲炉裏を囲んだ真田家の“家族会議”。父・真田昌幸(草刈正雄)は一家全員を前に「安心せえ。この真田安房守がいる限り、武田が滅びることは決してない」。直後のシーン、息子の信幸(大泉洋)信繁(堺)と3人だけになると、昌幸は「武田は滅びるぞ」-。

 「単純に見るとギャグのようにも思えるし、もちろん笑えるんですが、そこには行間が生まれていて。(昌幸の)母・とり(草笛光子)、妻・薫(高畑淳子)、娘・松(木村佳乃)と女たちの前だと『滅びない』と言い、息子2人の前だと『滅びる』と言う。その間に『昌幸がなぜそうするか』ということは全く語られていないわけですが、昌幸は息子2人を他の者とは全然違うふうに見ているということ、息子2人には本音を語るということが象徴されています。そして昌幸が、必要ならためらうことなく二枚舌を使う男だということも」





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英語でも「comrade」は同志とか仲間の意味であるが、ラテン語由来か何かの同根の言葉だろうか。ロシア革命後に共産主義者がお互いを呼び合う言葉として広く使われるようになったようだが、それはおそらくフランス語からロシアに輸入されたものだと思う。(ロシアの貴族社会ではフランス語がよく使われていたらしいので。)



さんがリツイート
8時間前
返信先: さん、さん

元の歌が「クラリネットを壊した(と思い込んてる)」のではなく「クラリネットを上手に吹けない」という内容なので、少しづつ練習していこうというニュアンスなんでしょうかね

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  • さんがリツイート
    14時間前

    フランス語を勉強して一番驚いた事実。 子供のとき歌っていた 「クラリネットをこわしちゃった」で オーパッキャマラードーパッキャマラードーパオパオパッパッパ!♫ と無意味だけど 面白い音だと思っていたら、 「Au pas, camarade(友よ共に歩こう)」 という超イケメンなフランス語だった事。

    このスレッドを表示
この「流砂」への誤解の原因は、「砂漠」そのものへの誤解にあるかと思う。一般に思われているような、大地全体が砂に覆われた砂漠はむしろ少なく、たいていの砂漠はむしろ「土漠」とでも言うべきものだ、と聞いたことがある。まあ、砂の部分と土の部分が半々程度と思えばいいのではないか。
下の動画でも、土壌は砂混じりの土という感じだ。
で、流砂とは、その砂混じりの土が、水が湧き出したために泥状になったものであるようだ。
その流砂からの脱出方法は、「何とかして、まず両足を泥の上に出して(つまり、体を水平にして)」、泥の上を這って脱出する、というものである。泥の表面を「泳ぐ」感じか。
なお、泥の比重が大きいためか、体は一定以上には沈まないようで、溺れ死ぬことは無いらしい。問題は、その流砂から脱出することが非常に難しく、太陽の熱とパニックで死に至ることであるようだ。
下の動画では、脱出後に泥を落とさないと、体が砂でこすれて傷つき、感染症などの危険があることまで親切に語っており、まさに、サバイバルというのは、そこまで考えるべきものなのだな、と感心する。



白土三平の漫画や風の谷のナウシカなどで流砂を知った人は多いと思うが、現実の流砂は砂漠に湧き出た泉で、砂が大量の水分で流動化したもので、底無し沼みたいなもの。漫画やアニメのようなサラサラの流れる砂ではない。>流砂から脱出する方法。>










小田嶋隆の文章の一部だが、創造的な仕事に関する真理だと思う。
我々は、アイデアというのは、天から落ちてくるものだと考えていることが多いが、実は、創造のその過程の中でこそアイデアは浮かんでくるのである。つまり、兼好法師が言うように、考えというのは何かが機縁になって生じるのであり、新しいアイデアも同様だ。しかも、創造の過程で浮かんでくるアイデアは、その創造対象、あるいは創造目的に適合したアイデアであるのは「心理は連想でつながれていく」という前提から当然だろう。
書くことが無ければ、何か適当に書いてみる。すると、書いた内容に刺激されて、思考が動き出すのである。(最初の部分は、きっかけに過ぎないから、ダメ内容であることが多い。そこで、最初の部分を切り捨てるといい作品になるだろう。多くの人は、「素晴らしいアイデアが浮かぶまで」筆を執らない。そこで、無駄な時間を延々と続ける。これを「下手な考え休むに似たり」と言う。)
手塚治虫を始め、天才の多くは、仕事そのものが大好きな、ワーカホリックだったのだ。

(以下引用)



休めば休むだけ、アイディアは枯渇する。少なくとも、私の場合はそうだ。

 アイディアは書けば書くほど湧き出してくるものだ、と、ポジティブに言えばそう言い換えることもできる。

 実際、原稿のネタは、原稿を書いている最中でないと出てこないものだ。だからこそ、Aの原稿を書いていると、別のBの原稿のアイディアが、ふと思い浮かんできたりする。

 ということはつまり、アイディアは、瓶の中に入っている有限な液体よりは、むしろ地下水脈に似ているわけだ。掘り進めば掘り進めるだけいくらでも湧いてくる半面、掘る手を休めると、その時点で枯渇してしまう、と、そう考えるのが、たぶん、勤勉な書き手であるための有効な考え方なのだろう。

 別の言い方をすれば、勤勉な時間の過ごし方に快適さを感じる意識のあり方を、才能と呼ぶわけだ。









小田嶋師も言っていたが、「情緒について論理的に語った」いい文章である。
「死者の再利用」と言うと靖国神社を想起するが、「俗情を利用する」点では右翼(保守政党とは少し違う。厳密には「保守」ではない。昔の右翼がかった自民党も保守ではないが、特に現在の政権はグローバリズムの先兵だ。)と芸能界は親近性が高いようだ。



(以下引用)



AI美空ひばりへの違和感

2020年最初のワダアキ考は、毎年恒例の紅白振り返り、と思いきや、昨年NHKでドキュメンタリーとして放送され、紅白出場も果たした「AI美空ひばり」について。完成度の高さへの驚きと同時に、大きな批判も呼んでいるAI美空ひばりに、武田砂鉄さんはどのような違和感を抱いているのでしょうか。

「30年ぶりの美空ひばりの新曲」という明記

毎年、年頭の原稿は紅白歌合戦を振り返る内容を記してきたのだが、一昨年に成功した三山ひろしのけん玉ギネス記録が失敗に終わったこと、豪華衣装路線を独占してきた水森かおりが豪華衣装を捨てて割と平凡なイリュージョンを2年連続で披露したことなどを踏まえると、積極的な議論をいくつも拾い上げるのが難しいので、今回は「AI美空ひばり」に絞りたい。

紅白で披露された「AI美空ひばり」による「あれから」は、美空ひばりが残した膨大な音声データをもとに、AI技術を駆使して彼女の声を現代に蘇らせ、「人の心を揺さぶらせることができるのかという試みに挑みました」(日本コロムビア・プレスリリース)とのこと。「30年ぶりの美空ひばりの新曲」という明記に引っかかる。紅白歌合戦のウェブサイトの表記は「AI美空ひばり」だが、発売されたCDジャケットの表記は「美空ひばり(AI歌唱)」。しかも、「美空ひばり」を3分の1くらいに小さくしたサイズで「(AI歌唱)」と添えられている。できるかぎり、新曲として売り出したいのだ。いやらしい、と思った。

これはやってはいけないことだ

狙い通り、心を揺さぶられた人も多いのだろう。楽曲制作を追ったドキュメンタリー(NHKスペシャル『AIでよみがえる美空ひばり』)では、完成した映像と歌唱を見た多くの人が涙をこぼし、そのうちの一人の女性は「神様を見ている気持ちになって、神々しさを(感じて)、感動いたしました」と答えていた。この女性の見解は、こちらからの批判的な見解に用いる要素とおおよそかぶる。カリスマ的な故人に、誰かにとって好都合な言葉を新たに獲得させ、その言葉によって感情を揺さぶらせ、「神々しさ」まで感じさせるというのは極めて危うい。そういう宗教団体を私たちの多くは知っている。曲の間には、彼女の声で「お久しぶりです。あなたの事、ずっと見ていましたよ。頑張りましたね。さあ、私の分まで、まだまだ頑張って」という語りが入った。これはやってはいけないことだ。

たとえば、亡くなったミュージシャンの音源をもとに、残されたメンバーなどが新たに楽曲を作ることがある。ピンク・フロイドのキーボーディスト、リック・ライトは2008年に死亡したが、彼が残していた音源に肉付けする形で、残されたメンバーが新曲を制作、2014年にトリビュートの意味を込めて、最後の新作をリリースした。それでも、これは純然たる新作とは呼べない、と批判する声もあったし、メンバー自身もその声と向き合っていた。2016年に亡くなったプリンスが2018年のスーパーボウルのハーフタイムショーにホログラムで出演するとの情報が出回ると、生前のプリンスがVR演出に否定的なコメントを出していたことなどから中止になったことも話題になった。

「生きるというのは別れを知ること」

このように、あらかじめ存在している音源や映像であろうとも慎重に取り扱うべきだが、今回は、曲どころか、メッセージまでイチから創作した。「あれから」のPVの最後には「又逢える日を楽しみに私もがんばります」という、美空の直筆が映し出される。さすがにこれは、どこかのタイミングでファンの皆に向けられた文章なのだろうと思ったのだが、調べてみると、1987年に入院していた彼女のもとを訪れた千代の富士へのお礼の手紙から引用したのだという。PV映像にそのクレジットはない。これは二人の故人に対し、とてつもなく失礼だと思う。

昨春、自分の祖母が98歳で亡くなったのだが、不思議なもので、亡くなってからのほうが具体的な会話や一緒に訪ねた光景をあれこれ思い出すようになった。いなくなっちゃった人の存在というのは、こうやって、時間をかけて大切に育てていくものなのだと実感した。もちろん、今回の美空のように、祖母から新しい言葉が与えられたら泣き崩れるかもしれないけれど、そうやって強奪された涙は、祖母と自分の関係において、極めて淡白で無機質なものだ。つまり、「生きるというのは別れを知ること」なのだ。この一節は、秋元康・作詞による「あれから」の歌詞からの引用である。生きるというのは別れを知ることならば、こうやって、感動させる目的で死者に新しい言葉を与えてはいけないと思う。

AI美空ひばりと血液クレンジング

NHKのドキュメンタリーの中で秋元は、「どんな方法でもいいから、ひばりさんとお会いしたい」「もう一回やっぱりレコーディングしたいですね」「技術がすごいですね、だと、人の心は打たないじゃないですか。本当にそこにひばりさんがいるんだということをみんな見たいわけだから」と述べている。多くの人がかかわっているプロジェクトだし、著作権者も了承しているプロジェクトだが、ドキュメンタリーを通しで見ると、とにかく彼の私欲がこぼれてくる。

決定的なのは、先に問題視した語りの部分についての見解だ。「今、この時代に、ひばりさんが『あれからいろんなことあったけど、ずっと見ていたわよ』と、ひばりさんが空の上から『私の分まで頑張って』と言う。それがいちばん伝えたかった所なので。ひばりさんから『よく頑張ったわね』と言われたら、日本中がまだ頑張ろうと思える」と述べている。つまり、これは「美空の願い」ではなく、「秋元の願い」なのである。

秋元が、今回のプロジェクトは人間の思いを科学がサポートしているもので、科学よりも人間の思いが大事なのだ、と付け加える。科学、人間の思い、とくれば思い出すのが血液クレンジング。昨年、「科学的根拠がない」「エセ医療だ」と問題になり、芸能人・インフルエンサーによってはブログなどで釈明を強いられていたが、見城徹と定期的にクリニックに出向き、血液クレンジングを行っていたのが秋元だった。彼は「男同士で来るのがいいんですよ。80年代から戦ってきた、戦友のような関係だし、ここでの時間は満身創痍の戦士の休息なんです」(web「GOETHE」)と、その思いを語っていたが、この記事はなんの断りもなく消えた。彼が言う、「科学よりも人間の思いが大事」との提言はなかなか響かない。科学も大事だ。人間の思いも大事だ。

これは美空ひばりの新曲ではない

芸能人が何人も続けて感想を述べる「あれから」のPR映像の中で、俳優・村上虹郎が「美空さんの声の温かさみたいなものは、何か少し足りない感じもするんですけど、正直……」と前置きして話していたのには驚いた。とても真っ直ぐで、かっこいい人だなと思った。実際の撮影現場がどうだったのかは知らないが、これだけの大きな企画を前に、ちょっとした苦言をコメントに含めることには、それなりの勇気が必要だったはずである。

村上が指摘する通り、美空ひばりの実際の音源と比べれば、温かみに欠けることはすぐにわかる。声の奥行き、息遣い、間合い、私たちはとても感覚的なものの集積で音楽に揺さぶられてきた。今回の曲は、秋元康とその周辺が、「会いたかった美空ひばり」を作り上げたプロジェクトである。それは「30年ぶりの美空ひばりの新曲」ではないと思う。ちなみに、秋元が血液クレンジングについて熱弁していた記事の初出は『GOETHE』2017年6月号。その特集名は「死なないカラダを手に入れろ!」である。人はみんな死ぬ。カラダは無くなり、思いが残る。死んでしまった大切な人と、また会いたいと願いながら、頭の中で長い時間をかけて付き合っていく。誰かの私欲で、そういう大切なものを揺さぶられたくない。

(イラスト:ハセガワシオリ













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