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仲哀天皇(十二)異伝によると…自ら熊襲を撃ちましたが、賊の矢に当たって崩御しました

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原文

九年春二月癸卯朔丁未、天皇、忽有痛身而明日崩、時年五十二。卽知、不用神言而早崩。一云「天皇親伐熊襲、中賊矢而崩也。」於是、皇后及大臣武內宿禰、匿天皇之喪、不令知天下。則皇后詔大臣及中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連曰「今天下、未知天皇之崩。若百姓知之、有懈怠者乎。」則命四大夫、領百寮令守宮中。竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門、而殯于豊浦宮、爲无火殯斂。无火殯斂、此謂褒那之阿餓利。甲子、大臣武內宿禰、自穴門還之、復奏於皇后。是年、由新羅役、以不得葬天皇也。
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現代語訳

即位9年春2月5日。天皇はたちまち痛身(ナヤ=病気)むところがあって、翌日には崩御しました。そのとき年齢が52歳。それですぐに分かりました。神の言葉を採用しなかったから、崩御してしまったことを。
ある伝によると…
「天皇は自ら熊襲を撃ちましたが、賊(アタ=敵)の矢に当たって崩御しました」

皇后と大臣の武内宿禰(タケノウチノスクネ)は天皇の死を隠して、天下に知らせませんでした。皇后は大臣(=武内宿禰)と中臣烏賊津連(ナカトミノイカツノムラジ)・大三輪大友主君(オオミワノオオトモヌシノキミ)・物部膽咋連(モノノベノイクヒノムラジ)・大伴武以連(オオトモノタケモツノムラジ)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「いま、天下(アメノシタ)は未だ天皇が崩御したことを知らない。もし百姓(オオミタカラ)が知れば懈怠(オコタリ=怠けること)が有るだろう」
すぐに四人の大夫(マヘツノキミ=部下=上記の連達のこと)に命じて、百寮(ツカサツカサ)を率いて、宮中(ミヤノウチ=出先の宮の中)を守った。
密かに天皇の遺体を収めて、武内宿禰に授けて、海路から穴門(アナト=長門=現在の山口県)へと移りました。そして豊浦宮(トユラノミヤ)で殯(モガリ)して、无火殯斂(ホナシアガリ=火を焚かない秘密のモガリ)をしました。

21日に大臣の武内宿禰は穴門から帰って皇后に報告しました。

この年、新羅(シラギ)の役(エダチ)のために天皇を葬り祀ることができませんでした。
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解説

仲哀天皇の死
古事記と日本書紀の本伝では「仲哀天皇は(神の祟りにより)病死」ですが、「異伝」では熊襲との戦いの中で死んだ、とあります。仲哀天皇の父のヤマトタケルの死が「神の祟り」だということを考えると、「英雄」の死は「神の祟り」というのが、物語のスタンダードだったか、戦争で無くなるということは天皇にとってミットモナイと考えていたのかもしれません。なにせ天皇はケガレの無い存在でないといけません。戦争という死穢に関わることが天皇にはあってはならないのかもしれません。

つまり、本当は熊襲との戦いで死んで、朝鮮半島へと目的を変えたという経緯が、住吉の神託の物語に変換されたのではないか?と。



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例によって例のサイトからの転載だが、なかなか示唆的な内容だ。「審神者(サニワ)」という存在やその字面が興味深い。
また、仲哀天皇が側近か皇后によって暗殺された可能性というのも話としては面白い。西洋や中国では珍しくないが、日本史では「天皇暗殺」というのは明治維新での、明治天皇の前の天皇の不審死くらいしか思い浮かばない。仲哀天皇と皇后は意見の対立があり、かなり勝気な皇后だったと思われるので、主犯が皇后でも不思議ではない。

(以下引用)


解説

仲哀天皇の反抗
ここでは神功皇后ですが、古代では巫女が神を体に神を下ろして、それによって神託を得ます。となると、「ある意味では」巫女の言うことが神の意志ということになります。その代表が邪馬台国の卑弥呼です。でも、巫女がマジにトランス状態になって神掛ることもあります。そういう巫女の方がリアリティがあって巫女に適していると思われたはずです。そうなると、巫女が権力者ということにはなりませんが、完全に神掛ると何を言っているのか分からない精神状態になるものですから、困ります。そこで、神がかった巫女のめちゃくちゃな言葉を「翻訳する」人物が必要になります。それが審神者(サニワ=沙庭)です。この審神者にあたる人物が武内宿禰(タケノウチノスクネ)でした。ちなみに仲哀天皇神功皇后が神を下ろしているときに「琴を弾いていた」と古事記にはあります。

そういうことを考えるとこの時代の権力者は「武内宿禰」だった、のかもしれません。
もう一つの事情
他のページでも散々書きましたが…
ヤマトは貿易立国でした。その貿易を円滑に行うためのツールが米でした。米を「税金」として徴収していたのもありますが、米を貿易をする際の「共通価値」としていたのではないかと思うのです。その稲作を伝播した象徴が「ヤマトタケル仲哀天皇の父)」であり「白鳥」です。ところが九州南部では火山灰のために水はけが良すぎて「米作」ができない。それに鹿児島は沖縄や台湾を通じて中国やインドやもっと遠方とも交易があったのでしょう。だから大和朝廷に参加しなくても問題がなかった。しかし大和朝廷としては、九州南部が欲しい。そこから文化が入ってくるからです。

ひっくり返すと、当時の日本は九州南部が「貿易の重要拠点」であり、朝鮮半島は「無意味」という認識だった。朝鮮半島は土地が痩せていて、作物が実りづらいし、一部を除くと寒くて米作も出来ない。魏志東夷伝を読んでも、朝鮮半島が日本より発展しているとは思えない。だから仲哀天皇はあくまで九州南部を目指そうとした。そこに「朝鮮半島を通り、中国と貿易をするべきだ」と提案したのが「住吉大神」を信奉する「津守氏」と武内宿禰だったのでしょう。
仲哀天皇は暗殺されたか
そういう認識も可能です。なんら物証も無ければ、示唆するものも無いですが、当時の天皇に強い権力があったとは考えづらく、暗殺されたとしても不思議ではないです。ただ、古代のことですから、若くして亡くなったからといって暗殺とは言い切れず、トラブル(戦死か病死)によって「九州南部から朝鮮へ」政策を転換したということも十分あることです。
以下のページでは異伝という形ですが、仲哀天皇が熊襲征伐の途中で死亡したと書かれています。
参考
仲哀天皇(十二)異伝によると…自ら熊襲を撃ちましたが、賊の矢に当たって崩御しました

もう一つ、仲哀天皇はヤマトタケルの子で、ヤマトタケルも東西の交易路を開拓した最後は神の怒りを買って呪い殺されてしまいます。仲哀天皇もほぼ同じ経緯です。この時代には「そういうストーリー」が英雄の定番だったのではないか?とも思うのです。



崇神記の最後に任那が出てくるのでメモしておく。
このサイトの筆者は「任那は倭人の国だった」と考えているが、私は単なる「大和朝廷にゆかりの地だった」と考えている。まあ、構想中の小説の中では任那と言うより「百済」が皇室の祖国だとして構想している。そうでないと、白村江の戦いでの百済への日本のあの異常な肩入れの理由が分からない。

(以下引用)


崇神天皇(二十四)依網池・苅坂池・反折池を造る(日本書紀)

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原文

六十二年秋七月乙卯朔丙辰、詔曰「農、天下之大本也、民所恃以生也。今河內狹山埴田水少、是以、其国百姓怠於農於農事。其多開池溝、以寛民業。」冬十月、造依網池。十一月、作苅坂池・反折池。(一云、天皇居桑間宮、造是三池也。)

六十五年秋七月、任那国、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者、去筑紫国二千餘里、北阻海以在鶏林之西南。

天皇、踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩、時年百廿歲。明年秋八月甲辰朔甲寅、葬于山邊道上陵。

現代語訳

崇神天皇即位62年秋7月2日に詔を発しました。
「農業は天下の大きな本(モト)です。民の力を頼りにしているものだ。今の河内の狭山(サヤマ=大阪府南河内郡狭山町)の埴田(ハニタ=粘土質の田)には水が少ない。その国の百姓は農業が出来ない。そこで沢山の池溝(ウナネ=ウナデ=農業用水路)を掘って、民の業(ナリワイ)を広めよう」

冬10月に依網池(ヨサミノイケ=大阪市東住吉区の地域?)を造りました。

11月には苅坂池(カリサカノイケ)・反折池(サカオリノイケ)を造りました。
ある書によると、天皇は桑間宮(クワマノミヤ=不明)にこの三つの池を造ったとも。


即位65年秋7月。任那国(ミマナノクニ)が蘇那曷叱知(ソナカシチ)を派遣して朝貢してきました。任那は筑紫から二千里あまり。北へ海を隔てて、鶏林(シラキ)の西南にあります。

崇神天皇は皇位を継いで68年の冬12月5日に崩御しました。年は120歳。翌年秋8月11日に山邊道上陵(ヤマノヘノミチノヘノミササギ)に葬りました。
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解説

任那
崇神天皇に限らず、「○○天皇」という表記は死後につけられた名前で、生きているときは「個人名」で呼ばれていました。崇神天皇の場合は「御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエノスメラミコト)」です。長い名前なので、他の部分では「ミマキイリヒコ」と略されています。この「ミマキイリヒコ」と「ミマナ」は関連があるのか?というのが、よくある議論です。

大和朝廷が飛躍的に発展したのが崇神天皇の時期です。神武天皇が建国の父なら、崇神天皇は「国」という形を作った天皇です。分かりやすく例えると、神武天皇が中小企業を起業した田舎の社長で、崇神天皇は世界企業に押し上げた敏腕社長です。

その崇神天皇だから任那(ミマナ)から朝貢が来ました。
これがどういう意味を持っているのか?はまだハッキリとはしていません。よくある説は、記紀が成立した8世紀には日本が朝鮮半島の影響力を失っているので、その反発というもの。ようは「恨み」ですね。しかし記紀を読むと、決して天皇を持ち上げるばかりでは無いですし、天皇のかっこわるいところもしっかりと書いてあります。だいたい、「一書によると…」なんて書き方は「ねつ造する」という観点から言うと不利ですし、記紀には客観的に正確に書こうという意図が見えます。むしろどうしてこれほど正確に書こうとしたのかと思うほどです。
任那の誤解
この記事を読むと、朝鮮人が日本人に朝貢した…つまりへりくだったという印象を受けるかもしれません。でもそれは違うのです。魏志倭人伝によると「倭人」は朝鮮半島の南部に住んでいたとあります。つまり任那の地域は「倭人」の地域だったんです。任那=倭人とは限りませんが、魏志倭人伝を読むと、倭国と韓人の国では人口も国力も雲泥の差がありました。当然「倭国が上」です。倭を駆逐して韓人が朝鮮半島を完全に占拠するのは白村江の戦いまで無いと考えていいでしょう。つまり任那は倭人の国だった。史書を読む限りそう考えるのが妥当です。「倭」と「大和朝廷」はイコールではありませんが、文化として「倭」と「大和」はかなり近かったのでしょう。大和朝廷から見れば「任那」は同じ文化の異国だったのです。そこから朝貢があった。そういう史実でしょう。

ミマキイリヒコとミマナは、そういう「同じ文化を持つ」という残り香のようなものではないでしょうか? ミマキイリヒコがミマナを造ったり、ミマナから来たからミマキイリヒコということではないのでしょう。

例えば藤原氏の子孫は「藤」という名前がついています。藤田も藤岡もです。でも全国の藤田さんと藤岡さんはほぼ無関係です。そりゃ多少は親戚筋も居るでしょうが、藤田さんと藤岡さんは同じ「藤」がついているから、「藤田さんと藤岡さんは親戚に間違いない」と私が言ったら、「アホ」と言われます。でも、「藤田さんと藤岡さん」は同じ日本語…つまり同じ言語圏の名前なのは間違いないでしょう。「ミマキイリヒコ」と「ミマナ」の関係はそういうことだろうと思っています。










神武天皇は伝説の存在であって、実在しなかったという説もあるが、渡来系の古代の実在人物で、大和朝廷を北九州から奈良大和に移した大王だろう。ただ、日本書紀が作られた時には、その後継者たちの事績が不明だったために神武以降の八代の天皇は存在しなかったと学界では思われたのではないか。しかし、先代が実在したからこそ「実質的初代天皇」とされる崇神がその血筋によって皇位に就けたわけで、記録が無いから実在しない、というのは短絡的すぎるだろう。要するに、書くほどの資料の無い天皇の事績は書かなかっただけだと思う。ただし、「天皇」という呼称は実際には天智天皇か天武天皇の時代に作られたと思われる。

崇神記は異常に詳しいが、その最初に興味深い記述がある。
それは、宮中に「天照大神」と「倭大国魂」を二大神として祭っていたことで、その事が国に疫病という災厄をもたらしたと思われたことである。これは、天照大神が皇室の祖、つまり朝鮮から渡来した民族の祖神で、「倭大国魂」はその彼らが駆逐し支配した原日本人の神だったということだろう。しかも、この二神が同居できないとなった時、出て行かされたのは天照大神の方なのである。これは、「祟り神」としては、自分たちが滅ぼした相手の神のほうが怖い、ということではないか。逆に言えば、天照大神は「身内」なんだから多少失礼があっても許すだろう、ということだ。

(以下引用)



崇神天皇(四)疫病で国民の半数が死亡(日本書紀)

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原文

五年、国內多疾疫、民有死亡者、且大半矣。

六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大国魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故、以天照大神、託豊鍬入姫命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。神籬、此云比莽呂岐。亦以日本大国魂神、託渟名城入姫命令祭、然渟名城入姫、髮落體痩而不能祭。

現代語訳

崇神天皇即位5年。国内に疫病が多く発生して、民(オオミタカラ)の大半(ナカバスギ=半分以上)が死亡しました。

即位6年。百姓は流浪し、なかには背くものもありました。(国が荒れる)勢いはすさまじく、徳(ウツクシビ)を持って治めることは難しいほどでした。

そこで眠らず朝まで神祇(アマツカミクニツカミ=天津神国津神)に(疫病がやむように)お願いをしたのです。

これより先に、天照大神(アマテラスオオミカミ)・倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二柱の神を天皇が住む宮殿の中に並べて祀っていました。するとこの二柱の神の勢いが強くて畏れおおくて、共に住むのは落ち着かなくなりました。

そこで天照大神(アマテラスオオミカミ)を豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト崇神天皇の娘)を付けて、倭の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀りました。そして磯堅城(シカタキ=地名か施設名かは不明)に神籬(ヒモロキ=神が降りる場所。後には神社を表す)を立てました。
神籬は比莽呂岐(ヒモロキ)といいます。

日本大国魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)は渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ=崇神天皇の娘)を付けて祀りました。しかし渟名城入姫は髪が抜け落ちて祀ることが出来ませんでした。
日本書紀の神武東征記を読んでいて不思議に思うのは、近畿に着くまで、戦闘らしい戦闘がほとんど無かったことだ。その理由として考えられるのは

(1)神武軍の「威に恐れて」相手が戦わずして降伏した。
(2)交渉によって平和裏に友好関係が作られた。
(3)何かの代償(おそらく文化的贈答品や技術伝承)によって友好関係を作った。
(4)相手側が最初から神武軍を敵と見なさなかった。あるいは上位存在と見た。

などが考えられ、(4)はたとえば第二次大戦後の米軍兵士たちを日本人が敵と見なかったことに似ているのではないか。つまり、支配者が何者かを敵と認定し、敵対心を鼓舞しなければ、日本人はその何者かを敵と考える性質は無かった、ということだと思う。その温和さ、平和を好む性質は現在でも同じだろう。闘争性が日本人に生まれるのは「財産の蓄積」が生じて後のことであり、奪われる「財産」など無い狩猟漁労生活では、他の部族を敵と認定する必要は無いからだ。(財産蓄積が可能な)稲作文化が始まっても、闘争などする意義はほとんどなかっただろう。「敵」を皆殺しにして稲を奪っても、単に短期間の利益でしかなく、長期的には労働者がいなくなり、自分たちが困窮するだけである。稲は労働者とセットでの財産なのだ。別の言い方をすれば、労働者こそが真に貴重な財産なのだ。
そして、近畿に至って激しい戦争が発生するのは、そこに既に「王国」が存在し、その支配者はおそらく国と国が争う経験を重ねてきた朝鮮半島の出自だっただろうと推測する。たぶん、北九州経由の大陸朝鮮系部族の大和朝廷とは別に、日本海から北陸経由で近畿に入った大陸朝鮮系部族だろう。だから、神武伝の中でその首長は「自分たちも天孫である」と言っていて、神武もそれを認める発言をしている。
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