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これから幾つか、創作の土台となる基本思想を考察して明確にしておくつもりだが、それは或る意味、哲学でもある。我々があまりに当然だと思っていることを、改めて、それは当然なのか、と考察しようということだ。まあ、さほど考察ネタがあるとは思わないので、二つか三つで終わるかもしれないが、一応「創作のための哲学」という項目を立てておく。
忘れないように書いておくと、「少数者による多数者の支配の原理・手段」というのもその一つである。

だが最初はまず、「戦うことの意味」を考えたい。
意味も何も、人はふつう戦いに「巻き込まれる」のであり、自分の意志で戦いを起こす、あるいは参加するのは稀である。後者(参加)はたとえば戦争(広義のそれ)が勃発した際に起こる。前者はその戦いによって経済的利益を得る資本家や支配階級が積極的に戦いを起こすことなどである。だが、それは「戦う当事者」の問題ではないので、ここでは深くは追究しない。

だが、フィクションにおいて男は(稀に女も)ほとんど常に「戦う人間」である。そこにどういう意味があるのか、というのがここでの主な考察主題だ。
もちろん、創作側から言えば単純に「戦いは面白い」からであることは明白だ。いろいろな冒険、危険、スリルに満ち、感動的場面も作りやすい。人間性の本性も出る。特に相手は悪、こちらは善、とするなら受容者(読者・観客)の共感も得やすい。そして、たとえフィクションでも「死」の切実さは読者や視聴者を興奮させやすいのだ。

では、現実とフィクションを問わず、戦う当人は「何のために」戦うのか。
1:自分の生命や身体、財産を守るため。
2:自分の家族、恋人、友人を守るため。
3:自分の属する組織や国家を守るため。
4:戦うこと(暴力・殺人)が好きで楽しいから。
5:戦いでカネ(利益)を得るため。
6:国家や組織に強制されてやむなく。

まあ、ほかにもあるだろうが、これくらいにして後で思いついたら付け加える。
この中で、4は稀少な例だろうが、実は武道漫画の本質はこれである。自分の中の暴力衝動の解放と満足が勝負の勝ち負けでとどまれば武道やスポーツであり、殺人に至れば戦争だ。
6が、徴兵された兵士の大多数だろう。その内心の葛藤を描けば反戦小説や反戦漫画になる。
5は、たとえば「ブラックラグーン」や「ゴルゴ13」の世界である。ハードボイルド小説にもしばしばこの種の「殺し屋」は出てくる。そして受容者はそのクールな殺し屋(或る種の「超人」として描かれる。)たちをカッコいいと思うのである。いや、これは非難しているのではない。ただ、受容者のそうした「暴力や殺人への嗜好」を直視して論じた人は少ない気がする。べつにPTA的モラルだけの問題ではなく、大きな社会的影響が、案外そこにあるかもしれない、という話だ。

で、以上3つを除けば、他の3つが「何かを守る」でくくられるのは面白い。6もそのひとつであると言える。徴兵を拒否したら非国民扱いされ、自分も家族も生きづらくなるのが明白だから、自分や家族を守るために徴兵に応じるわけだ。
つまり、或る種のサイコパス(武道家も軽度サイコパスと私は見ている。いや、勝敗が基本要素のスポーツ、つまり勝負事を好む人間も広い意味ではそれに属するかもしれない。)を除けば、人は「自分やその関係者を守る」ために戦うわけである。
何を当たり前のことを仰々しく書いているのだ、と言われそうだが、哲学とはそういうものだ。
「当り前のこと」が本当に当たり前か、丁寧に検証していく作業が哲学なのである。

通常の冒険ものとたとえばゾンビ物との違いは、前者がふつう自分から積極的に戦いに参加するのに対し、後者は「襲撃されて、その防御としてやむなく」戦うということだろう。そのため、私などから見れば、後者にはホラー性やスリラー性はあっても「爽快感」は少ないように思う。そもそも、明るい美しい自然の中でゾンビと戦う映画やドラマはあまり無いのではないか。美しい野原や陽光とゾンビは似合わない。ゾンビ物の「束縛感」「閉塞感」とその舞台は対応しているようだ。
つまり、「戦う」とは言っても、その「快感」(見る側の快感)は戦いの種類(戦に至る状況や戦いの必然性)や相手によって異なるのではないか、という「断片的思想」をここで提出したわけだ。
ただし、私が途中で視聴放棄したアニメだが、「ゴブリンスレイヤー」などは、相手がゾンビ的存在だのに、主人公側が積極的に戦いを挑むわけで、これは「害虫駆除」アニメと言うべきかと思う。「ゴーストスイーパー」の類だ。「GS美神」の非コメディ版と言える。ただし、「ゴブリンスレイヤー」は視聴にうんざりするほど欠点は多かったが、「戦略」の面白さを追求した姿勢だけは私は良いと思っている。
この「害虫駆除」というのは、実は「殺し屋もの」と共通性があり、殺し屋たちが殺す相手はたいてい社会の悪的存在に描かれている。そうでないと視聴者に不快感を抱かせることを作り手側は熟知しているからだ。「必殺シリーズ」と言うか「仕置人シリーズ」などもそれで、殺される奴はたいてい悪い奴である。だが、現実には政権や上級国民にとって都合の悪い野党政治家などが暗殺されるのであり、そこは現実とは大違いである。

「戦うことの意味」については、考察は不十分(たとえば仲間うちの戦い、内ゲバの問題など)だが、長くなったのでこれくらいにしておく。



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思想というより、考察のヒントとして面白い。
確かに、遊牧民族はリーダーシップというものを非常に重んじる。その最大の例証が、部族の長を決めるのに、血統主義を用いないことだ。部族の中で最も優秀な人間が長になる。それでなければ、野獣との闘争や他部族との闘争に勝ち抜き、部族を存続させられないからだろう。のちに元が当時の文明世界のほとんど制覇したのは、まさにその「闘争能力」の卓越によると思う。だが、いったん築いた帝国を維持する能力には乏しかった。そもそも、制覇した土地の住民は定住民族であり、その支配システムが遊牧民族には無かったのだ。その反省が清朝にはあったのだろう。
民族的精神としてのリーダーへの強い信任というのが、ソ連におけるスターリン(共産党)の独裁政治を招いたというのは興味深い考えだと思う。つまり、ソ連人は、遊牧民族の末裔でもある(あった)、ということか。


(以下引用)

世に倦む日日 @yoniumuhibi

私の個人的な見解だけれど、一党独裁の共産党支配のシステムには、(マルクス以上に)レーニンの思想の影響が色濃くて、ロシア人の本来的な社会的感性が強く反映されている。その歴史的な起源と由来はモンゴル人の遊牧集団のリーダーシップと社会システムだ。司馬遼太郎がヒントになる話をしていたが。
 

佐藤さとるのファンタジー論だが、私もこれに近い考えだ。だが、これはファンタジーに限定せず、普通の小説にも童話にも漫画にも言えることだろう。つまり、読み手の脳内に「もうひとつの現実」を作るのが、フィクションの本質だ。
私と同じ考えだ、というのは、たとえばSFなどでも、描写のリアリティが無いと読者にはその「世界像」は伝わらないし、興味や感動を生むこともない、ということだ。ただし、そのリアリティは「疑似リアリティ」である。細部の描写ひとつでフィクションの「観客(受容者)」は、その世界と一体化する。
たとえば、アラン・ドロンの「お嬢さんお手やわらかに」の中で、主人公のハンサムなプレイボーイ(男の敵! www)が、部屋でひとりで勉強をするシーンひとつで、観客の男性の多くは「自分と同じだ」と彼に感情移入をする。そうした細部の描写が作品に生命を吹き込むのである。

(以下「竹熊健太郎」のツィッターから転載)

見えないもうひとつの現実(じつは非現実)をも、やすやすと創りあげる能力を備えているのである。」 そして佐藤は、「ファンタジーとは本来あり得ないことを、あり得るかのように書いてみせる芸だ」と言います。そのために必要なものは「リアリズム」なのだと。
ニーチェの「深淵を見つめる者は深淵からも見つめ返されるのだ」という言葉は有名だが、その言葉を言ったニーチェ自身が発狂したことは、その言葉の正しさを見事に証明している。もちろん、その直接の原因が梅毒だったにしても、梅毒患者がみなニーチェのように深淵を見つめていたわけではない。逆は必ずしも真ならず、である。
で、ここで論じるのは、「笑い」というのは、人が思っている以上に危険な「深淵」なのではないか、ということだ。
漫画家の中で、ギャグ漫画家の作家生命が非常に短いことを知っている人は多いと思うが、それがなぜかを論じた人はいないだろう。
そこで、私があっさり言えば、笑いとは深淵だから、ということだ。奥深く、得体の知れない存在を見つめ続けるうちに精神の変調を来すのである。
なぜ笑いが深淵かと言えば、人はなぜ笑うのか、と問うのが早いだろう。何かを見て笑うのはなぜか。それが異常だからである。その異常を見つめ続け、異常を自分で作り出すことが「笑いの創作家」の仕事なのだ。つまり、正視するに堪えないものを正視し続けること。これがどれほど精神的にきつい作業か、想像のつかない人が多いかと思う。しかし、古来のユーモリストの多くは日常生活では陰鬱な人間で、発狂した人間も多いのだ。
スイフトは別に笑いを見つめ続けた人間ではないが、そのユーモア感覚の鋭さは誰でも知っている。つまり、異常を見る目が鋭かったのである。だから彼は発狂したのではないだろうか。
思考テーマとしてメモだけしておく。筒井康隆が昔、小説に刺激(面白さ)だけを求める層に「感動乞食」とか「何とか乞食」と言っていたのがヒントになる。

「消耗品としての『感動』」


(追記)「感動を作り出すメソッド」というのを考えてみようと思うのだが、その前に、「泣かせるのは簡単だが笑わせるのは難しい」という、脚本家や映画界の定説(私もそう思う)について言えば、人は、「自分が見ている物に同化する」性質があり、悲しんでいる人を見ると自分も悲しくなる。そして、身近な人の死や愛するペットの死は人を容易に泣かせるのである。つまり、「泣かせるには作中の『愛すべき存在』を殺せばいい」わけで、これをゆうきまさみが漫画で「タッチメソッド」と冗談で言っていたが、実は漫画の神様手塚治虫がその事をかなり昔に言っている。つまり、「読者が、死ぬと思っていなかった人物を殺す」ことで泣かせるというテクニックである。まさに、「読者が、死ぬと思っていなかった重要人物を作品序盤で殺す」のはタッチメソッドであり、それは手塚メソッドの派生である。
しかし、これは「泣かせる」テクニックであり、また、泣かせる方法はこれだけではないが、「感動」というのは別にたいしたものではなく、人は状況が揃えば容易に感動する、つまり心を動かされるものだ、とは言えるかと思う。
人や動物の死という、安易な感動より少し「上級感動」を言えば、その代表は「自己犠牲」だろう。人は、自分ならとてもできないような自己犠牲を行って誰かを救うという行為に激しく感動するものだ。特攻隊を美化する話もその一種だろう。つまり、あのキチガイ行為を「国や愛する人を救うための自己犠牲だ」と飾ることで感動をさせる、いわゆる感動ポルノである。
まあ、フィクションにおける感動はすべて感動ポルノだと言えないこともないから、「感動ポルノ」は便利な言葉だが、技巧論としては無視するべきだろう。



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