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日本版「風とともに去りぬ」の舞台は、会津藩ということにする。幕府の滅亡の荒波を一番受けた、悲劇の藩であり、米国南北戦争の南部に等置できるだろう。とすれば、現実の会津藩の明治維新の時の史実を下敷きにする必要も出てくる。面倒な作業になりそうだ。まあフィクショナルな部分と史実をうまくミックスできればいいのだが、とりあえず、明治維新時の会津藩について、ネットから拾っておく。



江戸時代
   
時代 年号(西暦) 主な出来事
江戸時代 文久2年(1862年) 会津藩主松平容保、京都守護職になる。
慶応2年(1866年) 京都蛤御門の戦いが起きる。
明治時代 慶応3年(1867年) 大政奉還・王政復古 京都守護職が廃止。
慶応4年(1868年) 鳥羽・伏見の戦いが起きる(戊辰の役が始まる)
明治元年(1868年) 薩摩・長州などの西軍が会津を攻撃。
戸の口原の戦い(8月22日)から白虎隊が出陣・活躍したが、
飯盛山にて自刃。
会津軍、鶴ヶ城に篭城。
会津藩降伏、鶴ヶ城を開城(9月22日)。
会津に世直し一揆が起こる。
明治3年(1870年) 旧南部領内斗南藩に会津藩士族が移される。
明治7年(1874年) 鶴ヶ城がとりこわされる。
   
会津藩第九代藩主 松平容保(まつだいらかたもり)
  まつだいらかたもりの写真 悲運の会津藩最後の藩主。岐阜県高須藩松平義建(まつだいらよしたつ)の子で、会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となる。戊辰戦争では藩祖の教え 「家訓(かきん)」を守り、最期まで幕府への忠誠を守った。
 幕末、徳川家茂(いえしげ)の強い要請で京都守護職を引受け、京都の治安と公武合体に力を尽くし、時の考明天皇(こうめいてんのう)の厚い信頼を得たが、将軍家茂・孝明天皇が病没すると倒幕派は形勢を逆転、1867年(慶応3年)大政奉還(たいせいほうかん)が行われると、容保も京都守護職の任を解かれて新政府側の怒りを一気にかうことになる。
 鳥羽伏見の戦いで戦わずして敗れると、白虎隊の悲劇で有名な戊辰戦争(ぼしんせんそう)へ突入する。会津に戻った容保は、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成し新政府に対抗するが、1868年(明治元年)、会津藩は敗れ同年9月に一ヶ月にわたる篭城(ろうじょう)の末「鶴ヶ城(つるがじょう)」は落城、容保は官軍に捕らえられ市内妙国寺(みょうこくじ)に謹慎の身となりのちに和歌山藩に移された。明治5年に謹慎を解かれ、13年より東照宮宮司に任ぜられた。
 のちの生涯は、職のかたわら歌道にのみ没頭し世を去った。
   
白虎隊(びゃっこたい)
 
旧滝沢本陣の写真
白虎隊が出陣した
「旧滝沢本陣」
 8月22日の朝、白虎隊にも出陣命令が出され、藩主容保(かたもり)にしたがって城下町の北東にある滝沢本陣に到着。しかし、既に本陣には兵力が無く、戸ノ口(とのくち)に向かった一隊から本陣に助けの兵を求められた。
 容保は、白虎隊一番中隊を護衛のために残し、二番中隊に戸ノ口原(とのくちはら)(猪苗代湖西岸付近)への出陣を命令。滝沢峠を越えて戸ノ口原の布陣と合流した時にはすでに夕暮れ時で、激しい風雨であった。
古戦場跡地に建つ記念碑の写真
白虎隊士奮戦の地
「戸ノ口原古戦場」

 前日は十六橋(じゅうろっきょう)を越えてきた西軍との戦況は明らかに不利だった。さらに白虎隊に追い討ちを掛けたのは、隊長の日向内記(ひなたないき)が食料調達のため一度本陣に戻ったのだが、ふたたび前線に戻られなかったことであった。
 戦いは総崩れとなり、やむなく白虎隊の教導篠田儀三郎(しのだぎさぶろう)も隊員に退却を命じた。戸ノ口原で破れた白虎隊士は、滝沢峠から若松城下に入ろうとしたが、政府軍が進撃中だったため、飢えと疲労に悩まされながらも街道筋を避け、山道を這い飯盛山(いいもりやま)の下にある洞門をくぐりぬけ、やっとのことで飯盛山の厳島神社(いつくしまじんじゃ)の境内まで辿り着いた。
 しかし、そこで白虎隊士の眼に映ったものは、町は炎に包まれ、鶴ヶ城(つるがじょう)の天守閣が黒煙の中に見え隠れしているという信じがたいものであった。
 予想もしなかった光景に、少年達の落胆は計り知れないものがあった。そしてだれ言うともなく、「もう城へは入れない、殿は城と運命を共にされたに違いない。敵の手にかかり後の世までも恥をさらすより、会津の武士らしく潔く切腹しようではないか・・・」。
自刃の想像図。奥に黒煙がが上がり城下が燃えている。手前には茫然と立ち尽くす白虎隊士や、切腹したり、お互いのノドを刀で付き合って自刃している。
白虎隊 自刃の図
 こうして少年達は、お城を眺めながら静かに自刃して果てた。このとき、飯盛山で自刃した白虎隊士は20名であった。
 当時の白虎隊の様子について世間の風聞的な話が多かったのだが、ただ一人蘇生した飯沼定吉(いいぬまさだきち)によって、当時の白虎隊の様子がつまびらかになった。
 彼はその後仙台に移り住んだが、存命中に白虎隊について一切その口を開くことが無かったといわれている。没後、彼の手によってつづられた、白虎隊についての克明な資料が見つかり、史実を知る上で大変貴重な資料となった。
白虎隊十九隊士の墓の写真
白虎隊士が眠る飯盛山の「白虎隊十九隊士の墓」

 彼の御霊(みたま)も自刃して果てた同士白虎隊十九士の眠る飯盛山に祀られてる。
   
会津開城
 
つるがじょう開城式のイラスト
鶴ヶ城 開城式の図
 新しく即位した明治天皇はまだ14歳の少年だった。倒幕派の中心勢力薩摩・長州の両藩はこの機をとらえ、不平公喞を通じて天皇の密勅を手に入れ、遂に倒幕の綿旗(きんき)のかつぎ出しに成功した。
 幕府は苦境に立たされ、15代將軍の座についた慶喜(よしのぶ)は土佐藩主山内容堂(やまうちようどう)の強い勧告もあって、慶応3年(1867年)10月15日、大政を奉還。ここに幕府はその実体を消滅させたのだった。勢いに乗じた倒幕派勢力は、綿旗を押し立て、幕府勢力の一掃に乗り出し、慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いに発展し、この戦いで幕府軍は大敗を喫することになった。
 大坂(大阪)にあった慶喜は容保(かたもり)らをともない海路江戸に退くが、薩長のやり方は横暴であると言って、たてついた会津藩には、いつの間にか「賊国(ぞっこく)」の汚名がきせられていた。
 土佐藩主山内容堂は会津の立場をよく理解し、あくまでも会津を討とうとする薩長に対し、「幼帝を押し立てて権力を盗む野心があるのではないか」と注意したが、すべては時の流れに押しつぶされ、やがて会津は悲劇のときを迎えることになる。
 容保は江戸から会津に帰り、恭順の態度を明らかにしたが、薩長は容易に承服せず、降りかかる火の粉はふりはらわねばならなくなった。会津藩では老人から少年までを動員し、軍制改革を行い正規兵の朱雀・青龍隊(すざく せいりゅうたい)はもとより、50歳以上は玄武隊(げんぶたい)に、16・17歳の少年たちは白虎隊(びゃっこたい)に組織し、農町兵も募集して最後の抗戦に立ち上がることとなった。
 慶応4年(1868年)8月、奥羽越の31藩で結んだ攻守同盟もくずれ去り、西軍は東の国境に主力を投入、中山峠に陽動作戦を展開したあと、母成峠(ぼなりとおげ)から一挙に会津に侵入して来た。8月21日のことであった。手薄を突かれた猪苗代守備の会津藩兵は、城に火を放って後退、戸ノ口十六橋水門(とのくちじゅうろっきょうすいもん)の攻防戦になった。白虎隊の奮戦が伝えられるのも、このときの戦いである。破竹の勢いに乗った西軍は、やがてここをも突破し、翌日には城下に西軍迫るとの急報がもたらされた。老人や婦女子たちの中には、戦闘の足手まといになるよりはと、自から命を絶つというような悲劇が随所に発生した。会津藩兵や他藩からの脱藩兵は、最後のよりどころである鶴ヶ城(つるがじょう)篭城(ろうじょう)、最後の抗戦を続けた。
 かくて篭城すること1ヶ月、ときには一昼夜に砲弾2,500発を撃ちこまれるとういう熾烈(しれつ)な戦いのなかでもよく抗戦はしたが、容保は西軍の陣頭にひるがえる綿旗を見て、「これ以上の抵抗は皇恩に報ゆる道ではない」ことをさとり、遂に万感胸にのんで降伏の決意をすることになった。
 かくして9月22日午前十時、追手門(おいてもん)前には白旗が掲げられ、翌23日、難攻不落を誇った鶴ヶ城は、開城となった。
   
戊辰(ぼしん)戦争後の会津
   戦後の若松は戦火によって荒れ果て治安は乱れていた。戦死者を葬ることもできず、武家屋敷の大半と町家の3分の1は焼失。避難した町人は帰れない者も多く、財産や商品の強奪もあり、贋金(にせがね)・盗賊がはびこるなど、町民は不安におびえていた。
 政府は治安を回復させ、領民の生活を安定させるため若松に「民生局」を置き、戦死者を長命寺と阿弥陀寺には葬らせ、戦災を受けた貧困者には食料と生活資金を与えている。また、御蔵米を安く払い下げたり、住宅再建のため、旧藩の材木や材木手当金を与えている。翌年この民生局を廃止し、若松県を置いた。
   
世直し一揆
   藩が解体するとともに封建的な圧政を無くすため、世直しを要求する農民の一揆が各地で起き、肝煎(きもいり)郷頭(ごうがしら)などの村役人宅を襲い、その家を打ちこわした。
   
斗南への移住と鶴ヶ城取り壊し
  開城時、取り壊し前のつるがじょうの写真 明治3年(1870年)、会津の戦後は藩士とその家族1万7,000余名に新政府から陸奥国(むつのくに)(今の岩手県の一部と下北半島)、斗南藩(となみはん)3万石を与えられ移り住む。
 斗南藩は3万石の領地だったが、実収高は僅か7,000石ほどだった。「土地がやせていて灰のようで、米穀が実りにくく、産するものは雑穀だけである」といわれるように、藩が原野の開墾をはじめても冷涼で不毛な土地であり、作物は殆ど実らず、その生活は悲惨を極めた。多くは会津に帰ったが、中には東京・北海道などに移住するものもあり、斗南に残ったものは約300戸と伝えられている。
 その後、難攻不落を誇った名城「鶴ヶ城(つるがじょう)」が1874年(明治7年)に取り壊され、戊辰戦争後の会津は徐々に整備が進む。

<参考文献>
「わかりやすい会津の歴史」会津武家屋敷発行
会津若松市市制百周年記念誌
「会津若松ルネサンス」会津若松市発行
「体験学習の手引き」会津若松市教育委員会発行
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