「pretender」というのは訳しにくい言葉だが、「自己詐称者」というのは口語としては無理すぎるのではないか。単純に、「大嘘つき」でいいと思う。pretendは「装う、そう見せかける」だから、確かに「詐称」でも間違いではないが、「自己詐称」はくどいし、日本語、特に歌詞(の訳)として耳に入りにくい。
まあ、pretendは「嘘をつく」のとは違うと言うなら、pretenderは「仮面人間」くらいでもいいし、「演技者」でもいい。greatを(歌詞全体を読めば当然だが)「偉大な」とせず、「大した」と訳したのは良いと思う。
まあ、pretendは「嘘をつく」のとは違うと言うなら、pretenderは「仮面人間」くらいでもいいし、「演技者」でもいい。greatを(歌詞全体を読めば当然だが)「偉大な」とせず、「大した」と訳したのは良いと思う。
フレディ・マーキュリー「グレート・プリテンダー」(87年)プラターズの名曲に託して自らの人生を最も赤裸々に振り返ったビデオです。「ああ、そうだよ。僕は大した自己詐称者さ。うまくやってるふりをしてきたよ。僕の孤独に誰も気づかなかった」
https://youtu.be/ly-JZowFHDA via @YouTube
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井上やすし「キネマの天地」読了。良作。
演劇界、映画界の実態を喜劇的に描きながら、読後感が非常にいい。特に、美人女優の現実の悲惨さや汚さがよく分かる。しかし、それも「演劇の魔」に魅入られたことによる幸福な悲惨である。
「選ばれてあることの恍惚と不安 我にあり」
太宰治の或る作品の冒頭のエピグラフである。「選ばれてある」とは、「選ばれた者として存在する」ということ。
なお、言葉の使い方が面白い。「しょっちゅう」を「初中終」と書いて、「しょっちゅう」と振り仮名を付けたり、「つよい」を「強い」ではなく「勁い」という漢字を用いたりしている。
前者は、たしかに「初中(しょちゅう)」だけでは全体にはならないから「終」を入れることで完全になるし、また「終」の「しゅう」と「中」の「ちゅう」は音として融合するとすれば、「初中終」で意味も音も完全な「しょっちゅう」になる、と考えられる。実際に、「初中終」で「しょっちゅう」と読むというのが前例があるのか、夏目漱石的な当て字なのかは知らない。
後者は、私も「強い」と「勁い」から受ける感じが違うし、作中の使い方も確かに「勁い」がニュアンスとしていいと思う。要するに、「強い」はレスラー的、力士的なパワーの「強さ」であり、「勁い」は「毅然として、すっと立ち、外部の力によって倒れることのない」感じだ。首の立った感じ(「勁」は頸部の「頸」と似ている。)であり、「疾風に勁草を知る」の疾風を物ともせずに立ち続ける草の勁さだ。
演劇界、映画界の実態を喜劇的に描きながら、読後感が非常にいい。特に、美人女優の現実の悲惨さや汚さがよく分かる。しかし、それも「演劇の魔」に魅入られたことによる幸福な悲惨である。
「選ばれてあることの恍惚と不安 我にあり」
太宰治の或る作品の冒頭のエピグラフである。「選ばれてある」とは、「選ばれた者として存在する」ということ。
なお、言葉の使い方が面白い。「しょっちゅう」を「初中終」と書いて、「しょっちゅう」と振り仮名を付けたり、「つよい」を「強い」ではなく「勁い」という漢字を用いたりしている。
前者は、たしかに「初中(しょちゅう)」だけでは全体にはならないから「終」を入れることで完全になるし、また「終」の「しゅう」と「中」の「ちゅう」は音として融合するとすれば、「初中終」で意味も音も完全な「しょっちゅう」になる、と考えられる。実際に、「初中終」で「しょっちゅう」と読むというのが前例があるのか、夏目漱石的な当て字なのかは知らない。
後者は、私も「強い」と「勁い」から受ける感じが違うし、作中の使い方も確かに「勁い」がニュアンスとしていいと思う。要するに、「強い」はレスラー的、力士的なパワーの「強さ」であり、「勁い」は「毅然として、すっと立ち、外部の力によって倒れることのない」感じだ。首の立った感じ(「勁」は頸部の「頸」と似ている。)であり、「疾風に勁草を知る」の疾風を物ともせずに立ち続ける草の勁さだ。
この写真で、封蝋の使い方が初めて理解できた。私は、単に封した紙(手紙)の上に封蝋をするのだと思っていて、それなら、剥がしてから封し直すこともできるのではないかと思っていた。
下のように、封した上から紐で縛り、その縛り目に封蝋をするのなら、紐を切るか封蝋を壊さないと手紙が読めないわけで、信書の秘密が守られるわけである。
下のように、封した上から紐で縛り、その縛り目に封蝋をするのなら、紐を切るか封蝋を壊さないと手紙が読めないわけで、信書の秘密が守られるわけである。
封蝋ってまだ売ってるのね。https://www.hankoya.com/shop/sealingstamp/ …
持明院統と大覚寺統という名前の由来は下の回答にある通りだろうが、その寺自体、現存していないだろうから、イメージが湧かない。後深草統、亀山統と呼ぶべきではないのか。なぜ、御所の名前を二つの皇統の名にする必要があるのか、理解できない。
暗記するなら「(南・)90・亀山・大覚寺」と、一方を中心に(強調して)覚えるといいかもしれない。「北・89・後深草・持明院」よりは語呂がいい。(下の記述の順序どおり、持明院統が北朝としての話である。)
(以下引用)
88代の後嵯峨天皇の子の89代後深草天皇(持明院統))と90代亀山天皇(大覚寺統)が退位後に御所とした寺院の名前に由来します。二つの皇統で後継者争いが起きて幕府の調停で交互に天皇を出すようになり、これが後に北朝と南朝に分裂します。
暗記するなら「(南・)90・亀山・大覚寺」と、一方を中心に(強調して)覚えるといいかもしれない。「北・89・後深草・持明院」よりは語呂がいい。(下の記述の順序どおり、持明院統が北朝としての話である。)
(以下引用)
88代の後嵯峨天皇の子の89代後深草天皇(持明院統))と90代亀山天皇(大覚寺統)が退位後に御所とした寺院の名前に由来します。二つの皇統で後継者争いが起きて幕府の調停で交互に天皇を出すようになり、これが後に北朝と南朝に分裂します。
これは、真実を実に簡単明瞭に言っている。名言。
そもそも、男は(フィクションにおいては)助けられる立場ではなく、助ける立場というのがお約束である。それが怪物に襲われて悲鳴を上げるのでは情けない。悲鳴を上げるのも女性の権利である。ただし、それが美女に限るというのもフィクションのお約束。
現実世界では、美女ではなくても魅力的な女性はたくさんいるが、視覚的な表現においてはやはり美女でないと、「見て気持ち良い」というわけにはいかない。
ちなみに、近年のハリウッド映画では、美女でないヒロイン(つまり主人公の恋人など)が出ている映画がたくさんあり、むしろハリウッドの女優で美人を探すほうが難しい。美人はどうやらモデル業界の方に行くようである。
そもそも、男は(フィクションにおいては)助けられる立場ではなく、助ける立場というのがお約束である。それが怪物に襲われて悲鳴を上げるのでは情けない。悲鳴を上げるのも女性の権利である。ただし、それが美女に限るというのもフィクションのお約束。
現実世界では、美女ではなくても魅力的な女性はたくさんいるが、視覚的な表現においてはやはり美女でないと、「見て気持ち良い」というわけにはいかない。
ちなみに、近年のハリウッド映画では、美女でないヒロイン(つまり主人公の恋人など)が出ている映画がたくさんあり、むしろハリウッドの女優で美人を探すほうが難しい。美人はどうやらモデル業界の方に行くようである。
SFとかのポスターでモンスターに襲われてる被害者が美しい女性なの、何より男だと「勝手に●ね」で終わるからだと思う。(危険なので伏字にしましたw
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
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