貨幣経済だけが経済ではない、という視点は目から鱗である。この現代においてすら、貨幣経済は全国を完全に支配しているわけではないようだ。ある意味、行き詰まりになった資本主義を、新しいフェイズに導く道が、ここにあるのかもしれない。
貨幣を使わない経済というのは、貨幣が無くても生存が保障されている、という点で「原始的ベーシックインカム」と考えればいいのではないか。田舎には最初からベーシックインカムがある、ということだ。インカムを「収入」ではなく「生存資源」と考えればいい。ベーシックインカムは難しいとか不可能だと考えず、こうした「現物支給」の方向から考えていくわけである。
こうした「原始共産主義」的コミュニティでは、他者とのコミュニケーションが濃密になり、それが嫌だ、という人は多いと思う。だが、そうしたマイナス面(ともプラスとも言えるが)を最小限にするような、新しい経済社会システムを作ることは可能なような気がする。
(以下引用)
2006-08-01
■ワーキングプアのNHK特集で取材された秋田県仙北町出身の友人と今日、昼飯を食いました
これは、ネタじゃないです。
ワーキングプアのNHK特集で取材された秋田県仙北町出身の友人と今日、昼飯を食いました。
明後日、あのテレビで映っていた田舎に帰省するそうです。
あの特集では、見慣れた近所の風景がたくさん写されたそうです。
また、知り合いがたくさんテレビに映ったそうです。
で、典型的ワーキングプアとして紹介された田舎でテイラーをやってるおじいちゃんですが、もともと、田舎の人は、あんな店では、あまりお金を使わないそうです。
なんでも、あそこらへんは、田沢湖あたりの観光地の商売で、観光地としての田沢湖から、客足が遠のいたので、店が苦しくなったんだそうです。
田沢湖は、周辺のスキー場なんかも客足が遠のいており、観光地全体の集客力が落ちていますが、それは、単に一つの観光地の商品的魅力がなくなったり、バブルがはじけたりという話であって、「田舎が貧乏になった」ということとは、別の話だろ、ということです。*1
また、米の値段が安くなって、生活が苦しくなった農家については、「そんなことは、ずいぶん昔から、経験的に分かっており、苦しくなっていく状況に対して、なんの手も打たないまま、苦しい苦しい言っているだけのマヌケではない。より高く売れる有機農業に切り替えたり、新しい作物、新しい売り方を工夫して切り抜けてきている農家も多い。いくら田舎者だからって、そういうことにまで知恵が回らないわけもなければ、何の創意工夫もしないほど愚かな人なんていない。それどころか、田舎者は、やたらと寄り集まって、寄ると触ると情報交換して、どこか一つの農家が上手いことやるやり方を見つけると、それがあっという間に、噂で広まって、次々に同じやり方をする農家が増えていく。」という論調でした。(←Web2.0がどうの集合知がどうのというが、田舎は昔から2.0なんじゃないか?とか思った)
でも、統計を見ると、田舎の人たちの年収は少ないじゃないか、とつっこむと、「田舎の経済は、現金で動いてないから、そんな統計で生活の豊かさを計るな」という話。
はあ?貨幣経済には違いないだろ?というと、そうではないとのこと。
田舎では、野菜は、庭に植わってるやつを引っこ抜いてくるか、あるいは、雪の下に埋めておいた野菜を掘り出してくるか、でかい樽につけておいた野菜や魚(はたはたとか)をとってきて、そのまま食事を作る。
東京の人間が、子供を保育園に預けるところを、じいちゃん、ばあちゃんが面倒を見てくれる。
また、近所との物々交換的なやりとりが行われていて、ちょっとした家や車の修理を格安でやってもらうかわりに、とれた野菜を届けたり、力仕事を手伝ったりし合うのだそうだ。
そもそも、東京の人間のように、「モノに遊ばれるような遊び」をしない(侮蔑口調)、ということらしい。テーマパークに行こうにも、テーマパークなど無いし、ショッピングを楽しもうにも、ろくな店がない。(追記:もちろん、ショッピングモールはあると言っていた。アメリカの地方の低所得者層が利用するような、という自嘲気味の注釈付きだったけど。たしか、ウォルマートの主要顧客はアメリカの田舎の低所得層だという話を聞いたことがある。それでミッションステートメントが毎日低価格なんだな)
もちろん、マクドナルドなど、クソ安い店は、利用されるが、とにかく、使う現金を徹底的に抑えようとする。(ちなみに、田舎のマクドナルドは、東京の窮屈でせせこましいマクドナルドよりも、店内が広々と余裕のある作りになっていて、快適なのだそうだ。値段は同じなのに。)
もちろん、現金は必要だが、現金は、極力使わないようにするのが当たり前だし、わずかな現金しかなくても、生活が苦しいという感じはないという。自分たちが貧乏だとは、思ってないらしい。
というか、実際、東京よりも、食い物は、ずっとうまいし(そいつは、トマトが大好きだが、東京のトマトは、メタメタしていて不味くて食えないという)、風が運んできた香りや湿度で、そちらの方の山や畑の様子が、いま、どんなかんじになっているか伝わってくる。
そもそも、四季の変化というが、季節は、四つどころか、もっとずっとたくさんの、複雑で楽しい、さまざまな季節の変化があり、それらの季節の変化と山菜や木の実などの楽しみがあるという。
また、田舎モノは、いっつもみんなと一緒にいて、みんなと一緒にテレビを見て、人間関係が濃密だから、東京みたいに寂しくならないらしい。(←オイラはなんかmixiを連想した)
現金が少ないから貧乏だ、というのは、現金がないと生活が苦しくなる東京者の発想に過ぎないという話だ。
実際に暮らしてみれば分かるが、田舎暮らしが性に合っている人間は、東京よりずっと現金収入の少ない田舎の方が、はるかに豊かに快適に暮らせるという。実際、東京で暮らしていた彼の妹は、あの番組で写されていた田舎に帰って、結婚する予定だという。現実に、東京の生活を知りながら、田舎の生活の方が、豊かで快適だと判断し、それを選ぶ人間がいるのだ。
でも、なぜか自殺者が多いらしい。
濃密な人間関係は、うまくいっているときは最高だけど、もつれると地獄だからか?
その辺をつっこむのを忘れたオイラは、つっこんでおけばよかったとちょっと後悔したのだけれども。
いずれにしても、統計と動画編集を用いて、「田舎では、構造的な問題で、働く貧困層が広がっている」「それらワーキングプアの人たちは、米の価格暴落などの構造的問題に対し、なすすべもなく転落していっている」というストーリーを作り出したNHK特集に疑問符がつく話である。
確かに、働いており、現金もないし、構造的問題も起きている、というところまでは、正しいのだが、そもそも東京のような完全に近い貨幣経済ではないから「現金がない」ということはそれがそのまま「貧困」ではないし、「構造的問題が起きている」からといって、別に「なすすべがない」わけでもないのだ。
そもそも、保育園に子供を預けるかわりに、じいちゃん、ばあちゃんに子供の面倒を見てもらうことなどの、物々交換的な目に見えない経済流通や、庭や近所の山や畑や川でとれる恵みを金額換算したら、田舎の経済規模や、平均年収は、実際よりも、はるかに大きくなるはずだ。
庭で完熟したトマトを、もいできて、それをすぐ切って食卓に並べられる贅沢さを東京で味わおうとしたら、いったいいくらになるだろうか?
厳選された超高級有機野菜しか使わない一流レストランで出るサラダの味に匹敵するのではないだろうか?
実際、私は、彼の実家から毎年送られてくる、イブリガッコ(スモークされたたくわんみたいなもの)や、はたはたの漬け物のおすそわけをもらって食べている。
それを食べると、ほかほか弁当や、コンビニ弁当のまずさに鬱な気分になるほどだ。
たしかに、これらの話は、彼一人からの伝聞にすぎず、その話をどこまで信用していいものか、僕自身は、判断がつきかねている。
しかし、田舎と都会、ほんとうに貧しい生活を送っているのは、いったいどちらなのか、分かりやすいテレビ番組のように、すぱっと割り切った答えが、そう簡単に出せる問題だとも思えなくなってきたのもまた、事実なのだ。
*1:あのおじいちゃんの店って、そんなに田沢湖に近かったのかどうか、僕は裏をとってないので、彼の話がほんとかどうかは、ぼくは知らない。