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日露戦争への寄り道も興味が尽きたので、「剣と鏡」に戻る。
小林恵子の「二つの顔の大王」に、皇極女帝(宝王女)が舒明と結婚する前に高向王と結婚し一児を得ている、その高向王とは高向玄理ではないか、という説を出している。さらに、高向玄理は韓国人だっただろうとしているが、これは大いに蓋然性がありそうである。つまり、「高」姓である。
もしそうだとすると、高向玄理は思いがけない重要人物だ、ということになる。あるいは大海人皇子か中大兄皇子の父親ということになるかもしれない。大化の改新の時に暗殺現場を見た何とか皇子が「韓人が入鹿を殺した」と言ったというのも、中大兄皇子あるいは(暗殺実行者の)大海人皇子が韓人であるのは周知のことだったから、となるわけだ。
ちなみに、下記記事の「隋へ留学する」は、高向玄理(ら)が韓国人で中国の文明に詳しいからこそ選ばれたと見ることができる。
留学からの帰国後5年目で大化の改新が起こったというのも暗示的である。
またたとえば大海人皇子もその留学に同行していた、というのも考えられる。皇極が高向王との間に産んだ漢王子が大海人皇子であり、最初は(父親の出自のために)皇位継承資格が低かったから、父親と危険な海外旅行に同行する決意をするのも容易だった、というわけだ。
かなり話が錯綜してきたので、いずれ年表や相関図を作ってみたい。


高向玄理

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高向 玄理(たかむこ の くろまろ、生年不詳 - 白雉5年(654年))は、飛鳥時代の学者。名は黒麻呂とも記される。高向古足の子[1]は漢人のち史。冠位大錦上

出自[編集]

高向氏(高向村主・高向史)は応神朝に阿知王とともに渡来した七姓漢人の一つ段姓夫(または尖か)公の後裔で[2]文帝の末裔を称する渡来系氏族[3]。一説では東漢氏の一族とする[4]。高向の名称は河内国錦部郡高向村(現在の河内長野市高向(たこう))の地名に由来する[5]

経歴[編集]

遣隋使小野妹子に同行する留学生として聖徳太子が選んだと伝えられており、推古天皇16年(608年)に南淵請安らとともにへ留学する[6]。なお、留学中の推古天皇26年(618年)には、が滅亡しが建国されている。舒明天皇12年(640年)に30年以上にわたる留学を終えて、南淵請安百済新羅朝貢使とともに新羅経由で帰国し、冠位1級を与えられた[7]

大化元年(645年)の大化の改新後、とともに新政府の国博士に任じられる[8]。大化2年(646年遣新羅使として新羅に赴き、新羅から任那への調を廃止させる代わりに、新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめ[9]、翌647年(大化3年)に新羅王子・金春秋を伴って帰国し、金春秋は人質として日本に留まることとなった(この時の玄理の冠位は小徳[10]。大化5年(649年)に八省百官を定めた[11]白雉5年(654年遣唐使押使としてに赴くこととなり、新羅道経由で莱州に到着し、長安に至って3代目皇帝・高宗に謁見するものの病気になり客死した[12]

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