概要[編集]
公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。1869年(明治2年)に華族に列せられたのは、それまでの公卿142家、諸侯285家の計427家[1]。1874年(明治7年)1月に内務省が発表した資料によると華族は2891人[2][3]。
華族令発布による爵位制度の発足[編集]
1884年(明治17年)7月7日、華族令が制定された。これにより華族となった家の当主は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された[注釈 8]。
爵位の基準は、1884年(明治17年)5月7日に賞勲局総裁柳原前光から太政大臣三条実美に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、維新期の勲功を加味された一部の華族を除いては、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。公家の叙爵にあたっては家格はある程度考慮されたが、武家に関しては徳川家と元・対馬藩主宗家以外は江戸時代の家格(国主、伺候席など)が考慮されず、石高、それも実際の収入である「現米」が選定基準となった。しかし叙爵内規は公表されなかったために様々な憶測を産み、叙爵に不満を持つ者も現れた。
また華族令発布と同時期に、維新前に公家や諸侯でなかった者、特に伊藤博文ら維新の元勲であった者の家29家が華族に列せられ、当主は爵位を受けている。叙爵は7月中に3度行われ、従来の華族と合計して509人の有爵者が生まれた。これらの華族は新華族や勲功華族と呼ばれている。また、終身華族はすべて永世華族に列せられ、終身華族が新たに生まれることもなかったため、全ての華族は永世華族となった。これ以降も勲功による授爵、皇族の臣籍降下によって華族は増加した。
叙爵基準による最初の叙爵[編集]
- 公爵
- 侯爵
- 伯爵
- 公家からは大臣家、大納言の宣任の例が多い[注釈 12]。堂上家、武家からは徳川御三卿と現米5万石以上の大名家が伯爵相当となった。
- 公家の東久世家は参議を極官とする羽林家で大納言宣任の例も皆無だったが、維新における東久世通禧の功が特に考慮されて伯爵となった。また武家の対馬藩は数千石余で、肥前国内の飛地1万石を併せても表高の2万石を下回っていたが、藩主宗家は朝鮮外交の実務担当者として10万石の格式が江戸時代を通じて認められていたことが考慮されて伯爵となった。平戸藩主松浦家は本来は算入されないはずの分家の所領まで計算に繰り入れた上で伯爵となったが、これは中山忠能正室が松浦家の出身であることから明治天皇の外戚に当たることが考慮されたものとみられる。
- 西本願寺・東本願寺の世襲門跡家だった両大谷家も伯爵となった。
- 「国家に勲功ある者」として、伊藤博文・黒田清隆・井上馨・西郷従道・山縣有朋・大山巌などの維新の元勲も伯爵に叙された。
教育[編集]
学歴面でも、華族の子弟は学習院に無試験で入学でき、高等科までの進学が保証されていた。また1922年(大正11年)以前は、帝国大学に欠員があれば学習院高等科を卒業した生徒は無試験で入学できた。旧制高校の総定員は帝国大学のそれと大差なく、旧制高校生のうち1割程度が病気等の理由で中途退学していたため帝国大学全体ではその分定員の空きが生じていた。このため学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。
但し学習院の教育内容も「お坊ちゃま」に対する緩いものでは無く、所謂「ノブレス・オブリージュ」という貴族としての義務・教養を学ぶ学校であり、正に旧制高等学校同等の教育機関であった。