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ピョートルは、中上川彦次郎の名を借りて、鳥居彦次郎とする。

(以下引用)


明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)とは、開拓使官有物払下げ事件に端を発した明治時代の政治事件。大隈重信一派が明治政府中枢から追放された事件である。

概要[編集]

1881年(明治14年)に自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法イギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生(主に交詢社系)を政府から追放した政治事件である。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったといえる。

経緯[編集]

立憲体制の導入を巡る議論[編集]

明治10年代の明治政府において、大久保利通亡き後、国会開設運動が興隆するなかで政府はいつ立憲体制に移行するかという疑問が持ち上がっていた。そのような状況下で、政府は消極論者の右大臣岩倉具視を擁しながら、漸進的な伊藤博文井上馨(長州閥)とやや急進的な大隈重信参議大蔵卿肥前藩出身)を中心に運営されていた。

大隈は政府内にあって、財政政策西南戦争後の財政赤字を外債によって克服しようと考えていた)を巡って松方正義らと対立していた。更に宮中にいた保守的な宮内官僚も「天皇親政」を要求して政治への介入工作を行うなど、政情は不安定であった。薩長土肥四藩の連合が変化し、薩長二藩至上主義的方向へ姿を変えていた。またこのとき、太政大臣三条実美が薩長と談合し、「自由民権運動と結託して政府転覆の陰謀を企てた」として、大隈の罷免を明治天皇に願い出た場面が記録されている。[要出典]

1880年(明治13年)に入ると、立憲体制に消極的であった岩倉も自由民権運動への対応から、参議や諸卿から今後の立憲体制導入の手法について意見を求めることにした。伊藤は同年暮れに意見書を提出し、漸進的な改革と上院設置のための華族制度改革を提議した(後者は公家出身の岩倉が嫌う点であるが、伊藤は敢えて提出したのである)。ただし、どこの国の制度を参考にするかは明らかにしなかった。

伊藤に相前後して参議らから次々に意見書が出され、様々な意見が出される中で1人大隈だけが意見書の提出を先延ばしにしていた。1881年(明治14年)3月、漸く大隈が左大臣(岩倉からみて上位)の有栖川宮熾仁親王に対して「密奏」という形で意見書を提出、その中でイギリス流の立憲君主国家を標榜し、早期の憲法公布と国会の2年後開設を主張したのである。5月に内容を知った岩倉はその内容とともに自分を無視して熾仁親王に極秘裏に意見書を出した経緯に激怒し、太政官大書記官井上毅に意見を求めた。

井上毅は大隈案と福澤諭吉の民権論(『民情一新』)との類似点を指摘して、一刻も早い対抗策を出す事を提言、岩倉の命令を受けた井上はドイツ帝国を樹立したプロシア式に倣った君権主義国家が妥当とする意見書を作成した。だが、大隈の密奏も岩倉・井上毅の意見書も他の政府首脳には詳細が明かされなかったために、伊藤がこの事情を知ったのは6月末であった。ただし、伊藤は大隈に対してのみではなく、岩倉・井上毅が勝手にプロシア式の導入を進めようとしていた事に対しても激怒して、説明に来た井上毅を罵倒した(6月30日)上で実美に辞意を伝えた。岩倉は伊藤に辞意の翻意を求め、井上毅も国家基盤を安定させてからイギリス流の議院内閣制に移行する方法もあるとして、自説への賛同を求めたが、伊藤はイギリス式かプロシア式かは今決める事ではないとして、岩倉が唱える「大隈追放」にも否定的であった。

この間にも井上毅が伊藤の盟友・井上馨(当初は将来的な議院内閣制導入を唱えていた)を自派に引き入れ、伊藤が薩摩と結んでまず憲法制定・議会開催時期の決定することを求めた。

政変勃発[編集]

一方、自由民権運動は3月に起きたロシアアレクサンドル2世暗殺事件で過激な論調が現れるようになっていた。そんな折の7月末に『東京横浜毎日新聞』及び『郵便報知新聞』のスクープにより、薩摩閥の開拓長官黒田清隆が同郷の政商・五代友厚に格安の金額で官有物払下げを行うことが明るみに出ると(開拓使官有物払下げ事件)、政府への強い批判が起こり自由民権運動が一層の盛り上がりを見せた。

更に大蔵省内の大隈派が黒田の払い下げ内容が不当に廉価であるとして中止を公然と主張したことから、伊藤が大隈派の「利敵行為」に激怒して一転して「大隈追放」に賛成する。8月31日、政府は大隈と民権陣営が結託した上での陰謀と断じて大隈の追放を決定した。政府内で払下げに反対していた大隈の処分と反政府運動の鉾先を収めるため、岩倉(ただし岩倉は7月から10月まで休養を取って有馬温泉に行っていたので現在では岩倉の関与を否定し、伊藤が主な計画者とする説が有力)、伊藤、井上毅らは協議を行い、明治天皇の行幸に大隈が同行している間に大隈の罷免、払下げ中止、10年後の国会開設などの方針を決めた。

天皇が行幸から帰京した10月11日御前会議の裁許を得て、翌日国会開設の詔勅などが公表された。また大隈邸を伊藤と西郷従道が訪れて辞表提出を促し、大隈は了承した。なお、この際に「建国の本各源流を殊にす。彼れを以て此れに移すべからず」という政府首脳間の合意が為され、結果として自由民権運動や大隈の唱えるフランス流やイギリス流を否定したものの、岩倉らの進めようとしたプロシア流についても一旦は白紙撤回されることとなった(勿論、これによってプロシア(ドイツ)流論者の政府内での立場が強化されたのは事実であるが)。

政変の影響[編集]

一方、既にプロシア式の憲法導入に積極的であった岩倉や井上毅と違い、政変後の伊藤個人は立憲体制導入の決意は固めていたものの、どの形態を採るかについてはまだ確信は得ていなかった。また、華族制度改革や将来の内閣制度導入を巡って、岩倉との間に見解の相違があることも明らかになってきた(岩倉は華族に維新の功臣が加えられることや既存の律令制・太政官制度に基づいた大臣制が廃止されることで、公家出身の自分が政府の中枢から排除されることを警戒していた)。

このため、1882年(明治15年)、伊藤はドイツ(プロシア)の憲法事情を研究するという名目でドイツを訪問するが、それもあくまでも岩倉の意に沿ったというだけではなく、単にイギリスやフランスの事は自由民権派の人達が研究するだろうから、彼らが研究しないドイツを選んだ(末松謙澄充ての書簡など)という選択に過ぎなかった。伊藤がプロシア式の憲法導入の決意を固めたのは、現地で指導を受けたロレンツ・フォン・シュタインの助言(シュタインはドイツの立憲体制を批判してドイツを追われた学者であったが、日本の国情を研究した上でむしろ日本の方がドイツ本国以上にプロシア式の条件に符合していると説いた)によるものであるとされている。伊藤は1883年(明治16年)に岩倉の死に合わせるかのようにして帰国して、本格的な憲法制定作業に取り掛かることになった。

政府から追い出され下野した慶應義塾福澤諭吉)門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することになる。特に下野し、三井に採用された中上川彦次郎はその後、三井に多くの慶應義塾出身者を雇い入れ、財界への基盤を確固たるものにした。

また、野に下った大隈も10年後の国会開設に備え、翌1882年(明治15年)3月には小野梓矢野文雄とともに立憲改進党を結成、また同年10月、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に開設した。後に、大隈はこの時のことについて『大隈伯昔日譚』において自信がありすぎたと述べている。 また、明治10年代の日本ではすでに近代的な郵便制度が発足していたが、明治十四年の政変に際して政府高官は使用人を介した私的な書簡によって対処を相談しており、明治初頭においては機密保持のため私的使用人による情報交換がなされていた点が指摘される[1]



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