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例によって書きながら考えていくつもりだが、「悲劇の本質は主観と客観の相剋だ」というテーゼを思い付いたので、それについての考察である。
たとえば、「ロミオとジュリエット」というのは、主人公の恋人たちが、お互いの家の敵対関係という客観関係を無視して、恋愛という主観を突き進めた結果の悲劇であると見做せる。
ほとんどの悲劇は、主人公の感情という主観が、周囲の客観的情勢とぶつかっている。そこに、周囲の人物の主観とのぶつかりあいも生じる。つまり、「主観対主観の相剋」という面もあるわけだが、だいたいにおいて強烈な感情を持っているのは主人公側であり、主人公が仏教的な諦念を信条としていたら、悲劇的な物語はまったく生まれないだろう。たとえば、自然災害では大量の人間が死ぬが、それ自体が物語性を持っているわけではない。その前の、幸福な生活の断絶が悲劇なのである。幸福とは感情、つまり主観によって生じるものだ。それが自然という客観の前に滅びるのが悲劇なのであり、大量死そのものは、人間が蟻の巣穴に水を流し込むのと変わりは無い。

私が物語を書くのが苦手なのは、人間の感情というもの自体があまりに主観的すぎて共感できないからかもしれない。人物を人形として扱って物語を書く、推理小説などは、それはそれで「文学的感興」には欠けるわけで、やはり芸術というのは、才能豊かな作家が作った世界を観客として楽しむのが私には合っているのだろう。別に人物が喜怒哀楽の行動をしなくても、たとえば梶井基次郎の作品のように、「感覚や超感覚を刺激する」作品もあるわけで、芸術というのは、やはり凄い世界だと思う。

今気づいたが、「客観」を引っくり返せば「観客」になるのが面白い。観客は出来事を第三者の客観的立場から見ることで、事態の喜劇性や悲劇性を「気持ちよく」楽しむわけである。
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