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北村薫「太宰治の辞書」読了。
例の文学少女の主人公が、中年の職業婦人になって、仕事関係もあって、「文学探偵」をする話。私はこのシリーズの探偵役の円紫師匠というのがあまり好きではないのだが、全体の話の進め方は好きだ。読書の快楽、知識を得ることの快楽、考えることの快楽が読む人の心に伝わる。
「いやあ、本っていいもんですねえ」と言いたくなる。

この本の中で、太宰治の「女生徒」の一節が出てくるが、その言葉がいい。



美しさに、内容なんてあってたまるものか。



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至言ですな。

「生計を立てる」などというスケールの小さい意識のもと、カネに汲々としながら活動する一切の活動は不自由ですよ。


まあ、「自由でありたい」という過度な思いが神経強迫症にならないことである。
どうせ人間は何かに縛られた存在なのだから。





            

【「プロブロガー」に自由はあるか?】"「生計を立てる」などというスケールの小さい意識のもと、カネに汲々としながら活動する一切の活動は不自由ですよ。それは、プロブロガーもサラリーマンも小説家もアイドルタレントもたぶん同じ。" 



鮎川哲也編「あやつり裁判」感想。
全体のレベルは高い。読後感もいい。推理小説というよりは怪奇小説や冒険小説と言うべきものも中にはあるが、読んだだけの甲斐はある作品がほとんどだ。
順位をつけて短評をしておく。

1位:古風な洋服(瀬下耽):謎の解明や小説の構成が見事で、文学的香気がある。小さな人間悲劇。モーパッサン風。読後に心に残るものがある、という点で一番。推理小説に限定せず、日本の短編小説ベスト100くらいには入れてもいいように思う。
2位:翡翠湖の悲劇(赤沼三郎):恐怖美がある。殺人トリックも説得力がある。「動物を使った殺人」トリックとしては世界短編推理小説のナンバーワンではないか。大正昭和初期風のエロが話にからんでくるのが気に障る人もいるかもしれない。映像化するなら、これが一番だろう。
3位:海底の墓場(埴輪史郎):推理小説というよりは冒険小説だが、読後感は一番爽やか。
4位:あやつり裁判(大阪圭吉):実に筆の立つ作家だと思う。作品も多いようだから、まとめて読んでみたい。推理小説というよりは、「文学的短編小説」がつい面白い方向へ行ってしまったという雰囲気。中島敦の庶民版と言えば褒め過ぎか。ペンネームで損をしている。大阪というだけで下卑た匂いがして嫌いだ、という人間は関東人以外でも多いだろうから。
5位:霧の夜道(葛山二郎):トリックは一番つまらないし、そもそも、話の筋自体が朦朧としているのだが、これも筆が立つ人で、「罪と罰」のポルフィーリーの長口舌を読むような面白さがある。作者自身、それを意識して書いているようだが、これだけ雰囲気を出せるだけでたいしたものだ。



それ以外の作品も、部分的には面白いし、読んで損をした、という作品は無いが、上記の作品には劣るように思う。もちろん、私の好みだけでの話だ。吉野賛十の「鼻」などは、盲人の生理や感覚が見事に描かれていて面白い。だが、トリックの解明が、何となくがっかりさせられる。上記5位の「霧の夜道」よりは、こちらを5位に入れてもいい。
エラリー・クイーン「チャイナ蜜柑の秘密」感想。
作中の「謎」の解答は、これまで読んだ中では一番合理的かもしれないが、西洋の衣服、特に神父などの衣服についての知識が無いので、なんとも言えない。ネクタイが無いくらいでこれほど大騒ぎでわざわざ隠蔽工作をする必要があったのか。そもそも、人が大勢出入りする事務室の待合室で殺人を犯すという神経が理解できない。
自分のいる場所を密室にすることで、自分には殺人ができなかったというアリバイにするというアイデアは、通常の密室殺人をひねった面白いアイデアだが、そのアイデアをもっとうまく生かせなかったのだろうか。
その「密室」の作り方は「名探偵コナン」風というか、横溝正史風というか、例の「針と糸」式の奴で、馬鹿馬鹿しく見える。こういう「ドアの鍵」を使った「針と糸」式のトリックは、ドアの下と上にはわずかな隙間があって、そこから紐くらいは通る、というのが前提のようだが、左右の隙間と上下の隙間とはそれほどの違いがあるのだろうか。あまりピンとこない話だ。この「チャイナ蜜柑の謎」の場合は、トリックの作り方が大げさすぎて阿呆くさい。死体の衣服を裏返したり、死体の重さを使ったトリックを作ったり、部屋じゅうのあれこれをひっくり返したりしているうちに別の来客があったらどうするのだ。(それに、槍を二本服の背中に通しただけで「殺したて」の死体が直立するだろうか。死体を直立させるに足る死後硬直が起こるほどの時間はこの場合無かったと思われるのだが。)
あまりに、この犯罪は、そういう無謀さの点で不合理だろう。まあ、好意的に解釈すれば、犯人が被害者を殺す機会はこの時しかなかった、ということで大胆な犯行に及んだ、と言えないこともない。
なお、犯行機会は、真犯人以外にも誰にでもあったのだから、「密室を作ったのは、密室を作ることでアリバイを作った人間しかいない」という探偵クイーンの追及で気弱にも犯人が白状しなければ、犯人は罪に服す必要は無かったのである。要するに、この「密室」は「犯人を保護する密室」ではあるが、「殺人可能性」という点では、密室でも何でもなく、誰でも出入りでき、そこに通じる外部への非常階段すらあったのだから。
要するに、この「かんぬきのかかったドア」は誰に利益を与えたか、という一点で、この犯人はすぐに分かるわけである。だから、探偵クイーン自身、この犯罪は簡単明瞭だ、と言ったのだろうし、それは正しい。作者クイーンがこの作品がお気に入りである理由も、そういう「答そのものの単純さ」が、数学の公理の単純さを思わせるからではないか。逆に言うと、クイーン式の煩雑なミスディレクションを削ぎ落としたら、何も無くなるような作品だとも言える。
なお、例によって小説のタイトルの「チャイナ蜜柑」は犯罪にはまったく無関係であり、それを推理の手がかりとしようとした読者は腹を立てることになる。
今回は、クイーンのアンフェアなやり口も分かってきたので、「読者からの挑戦」の前に考えようとすらしなかった。そして、案の定、であった。

長谷川法世「走らんか!」の感想。
ある意味、完璧に作られた小説世界だが、その存在意義が分からない。
つまり、ここまでリアルな「もう一つの現実」を作り、それが「ある種の小説読者には嫌悪感をもたらす小市民たちの世界」であるなら、そういう小説世界を作ることの意味は何か、ということだ。何より、博多の男や博多の女に対する作者の没入感(肯定的姿勢)が不快感を与える。ところが、そういう不快感を与えかねないことも作者は承知しており、その世界(博多意識)への批判もちゃんと描いているところに、「先回りして批判を封じられた」感じが読み手に残るのである。
実に実に嫌な気分なのである。これを読んで、博多という世界が大嫌いになったのだが、なぜ嫌いになるのか、分からない人には分からないだろう。たとえて言えば「ふんどしをつけた男の尻」を目の前に突き付けられたような不快感だ。実際、褌男の描写も作中にあるのだが。
しかし、小説としては完璧なのではないだろうか。作者の本業であった漫画よりも上手い。リアリズム文学として、完璧である。ただ、「現実と等身大の人間たち」が角突き合わせる小悲喜劇を読むことに、私は小説を読む価値を見いだせないのである。まあ、花登匡の作品が私は昔から嫌いだったが、多分私は小説の中に実人生の匂いを感じること自体が嫌なのだろう。小説自体が卑小化されたような嫌な気分になる。
19世紀から20世紀初頭にかけてのイギリス文学には、そういう卑小さがまったく無い。ある意味、「小説の面白さ」をひたすら追求したからこそ、そういう卑小さを振り捨てたのではないかと思う。要するに、「生活などは召使いに任せておけ」ということだ。これは、「生活よりももっと高尚なものが世界にはある」ということでもある。それが「生活など」という、生活を低く見る姿勢である。恋愛ですら、「ただの生活」でしかないこともある。ベートーベンの「第七交響曲」が世界に出現するためだったら世界の他のすべてが失われても良かっただろう、と私はかつて思ったことがあるが、芸術だけが「至高のもの」というわけでもない。
いずれにしても、人間を低い地上に縛り付けるもの、すなわち「生活」が「走らんか!」の通奏低音のように、読んでいる間私を不快にさせたのである。
三島由紀夫が「楢山節考」を読んでいる時に感じていた不快感もまた、「お前はただの人間にすぎない」という悪魔の嘲笑だったのではないだろうか。



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