第八章 森の中(1)
グエンたちの一行がキダムの村を出てから三日が経った。キダムの村で荷車を買い、それを農耕馬に引かせて子供たちはそれに載せることにしたので旅ははかどるようになり、キダムからは100ピロほど東に来ていた。ここから先は森林地帯になり、民家はほとんど無くなるが、途中の村で食料を仕入れていたので特に食い物の心配は無い。ただ、国境をどこから越えるかが問題だが、それはその場の様子を見て決めればいいとフォックスは考えていた。
「ずいぶんはかどりましたね。あと少しで大森林です。大森林を抜ければエーデル川があり、その先がタイラス、その南がトゥーランです」
「タイラスの王妃さまが、私たちの叔母様ね?」
「そうです。エメラルド様とおっしゃって、とてもおきれいな方ですよ。まだ、とてもお若くて、おそらく22,3歳くらいだと思います。嫁がれたのがおととしですから、今頃は可愛い赤ちゃんをお産みになっているかも」
「赤ちゃん、見てみたいわ。可愛いでしょうね」
荷車の上のソフィにフォックスが馬上から話しかけると、さすがに女同士で話がはずむが、男の子のダンはすっかり退屈している。
「あーあ、早くタイラスにつかないかな。ぼく、車に乗るのはすっかり飽きちゃったよ」
宮廷を脱出した時の緊迫感も今は無い。それに、グエンという強い味方ができたもので、誰もが安心しきっていた。
大森林が目の前に見えた。樅の木がほとんどで、その森がどこまで続くのか、低い位置からではその範囲もわからない。その途中にエーデル川が流れる峡谷があるはずで、そこがサントネージュと他国の国境になっている。
針葉樹の爽やかな匂いがする。頭上を覆う木陰からは絶えず小鳥の声がする。木の葉を通して太陽の光が下に落ち、下を行く一行の顔をまだらにする。
彼らが通っているのは、古い街道である。今でも通商のために使われていて、馬車が通れる程度の幅はあるが、道の上には枯れ葉が深く積もっている。
グエンは馬を歩ませながら、物思いにふけっていた。ある思いが頭の中をぐるぐると回っている。それは、なぜ自分の頭はこのようになっているのか、ということと、なぜ自分の記憶は無いのか、ということ。一言で言えば、「自分は何者か」ということである。考えても答えの出ない問題を考えるのは空しいことだと分かってはいる。しかし、考えずにはいられない。
(俺の体は、通常の男より相当にたくましいらしい。また、体力も人並み以上で、剣をふるう技能もかなりある。ということは、やはり俺はこの世界のどこかで生れ、育ったが、ある時に記憶を失って、あの野原に倒れていたのだろうか。あの野原は、しかし、まったく見覚えは無かった。どこか別の場所で記憶を失わされて、あそこまで運ばれたのか。誰が、何のために? 俺は剣を扱うのに何一つ苦労はしなかった。考える前に体が動いていたという感じだ。そういう面での記憶、つまり体の記憶はあるようだ。それに、言葉を話すのは難しいが、他人の言葉は苦もなく理解できる。ならば、やはり俺はこの国の人間なのか? しかし、こんな頭の人間はほかにはいるまい。なぜか、そういう確信のようなものが俺にはある。俺は自分のこの頭に気づいた時、恐ろしい気持ちになった。それは、これが本来の自分の頭ではないと知っているからだろう。しかし、これが仮面などでないのも確かだ。それは何度も確かめた。無理にこの顔を剝がしても、他の顔など出てこないだろう。俺はいったいどうすればいい。この頭のままでこの世界に生きていくしかないのか?)
「ねえ、グエン、何を考えているの?」
フォックスが言った。
「俺は、何者か、という、ことだ」
たどたどしい口調だが、やっと文章になる会話ができるようにはなっている。
「どこかの宮廷に仕えていたんだと思うわ。あなたのあの剣の腕は、超一流の剣士だった。そういう剣士がどこの宮廷にも仕えていないということはありえない、と思う」
「あのう……」
控え目にソフィが口をはさんだ。彼女にしては珍しい行動である。
「なに? ソフィ」
他人のいない所でも、なるべくサファイアとは言わずにソフィと呼ぶようにしている。
「宮廷のお抱え剣士や騎士ではなく、もしかしたら王様だったのかも」
「えっ?」
この言葉はフォックスには盲点だった。何しろ、まっぱだかで出現した、虎の頭の男である。それがどこかの王様だという想像はまったく思い浮かばなかったのだ。
「ま、まさか。……でも、言われてみれば、どことなく威厳があるような……。でも、まさか」
「グエンは王さまだったの?」
ダンが遠慮なく聞いた。
「分から、ない。覚えて、いない」
「そのうち、虎の頭をした人がどこかから失踪したという噂でもないか、尋ねてみましょう。でも、それは私たちがタイラスについてからね」
突然、馬が足を止め、後ずさりをした。不安そうな嘶きを上げる。
「何か、前の方にいるわ」
フォックスが言った。
「確かめて、来る」
グエンは馬の腹を軽く踵で蹴って歩ませた。
森の中は静まり返り、鳥の声も今はやんでいた。