(以下引用)
自然な遺伝子ドライブとは、特定の遺伝子が通常のメンデルの遺伝の法則とは異なる形で、他の遺伝子よりも優勢に子孫に伝わる現象のことです。つまり、ある遺伝子が偏って遺伝するシステムのことです。
自然な遺伝子ドライブは、有性生殖を通じて、一つの生物からその子孫に遺伝要素が継承される能力を強化するという、遺伝的形質を偏らせるシステムです。自然界では、様々な遺伝子ドライブが起こっていると考えられています。
AI による概要
はい、自然な遺伝子ドライブは白人の遺伝子に存在します。遺伝子ドライブとは、特定の遺伝子の変異を効率的に集団に広める仕組みです。これは、人間を含むあらゆる生物種で自然に起こりうる現象であり、白人の遺伝子にも同様の仕組みが存在します。
遺伝子ドライブは、CRISPR-Cas9などのゲノム編集技術を用いて人工的に誘導することもできますが、自然な遺伝子ドライブは、遺伝子の構造や環境、行動など、さまざまな要因によって生じます。
白人の遺伝子にも、自然な遺伝子ドライブによって特定の遺伝子の変異が広がる可能性は十分にあります。このことは、人間の進化や適応に関する研究において重要な要素の一つです。
日本人の遺伝子に自然な遺伝子ドライブが直接的に存在するのかどうかは、現時点では科学的に明確に証明されているとは言えません。しかし、Y染色体のハプログループDは、日本人の遺伝子多様性において特徴的な要素であり、遺伝子ドライブの一種として考察されることがあります。
■第二章「血盟団とテロリズム」
第1節「血盟団の性格」
一方民間においては井上日召なる日蓮宗に強く影響を受けた布教師(僧籍はない)の指導による「血盟団」(裁判官が後に付けた名前で井上が当初から名乗っていた団体名ではない)が影響力を持つようになる。血盟団は井上の思想に感化されたカルト集団である。井上の思想の根底にあるものは、仏教的神秘主義と言ってよい。井上は日召と称して日蓮主義を基本とする仏教的神秘主義であると指摘する書籍もある。仏教的神秘主義に皇国思想、国家改造に対する熱情が重なって、井上日召の独自な思想が形成されたのではないか。井上が田中智学(明治の宗教家)から大きな影響を受けていることは明白である。特に国家主義者である田中の著書「日蓮上人乃教義」から大きな影響を受けているという指摘は、当たっているのではないかと思われる。それと同時に北一輝、大川周明にも会って国家改新を論じているようであるが、彼等の主張とは相入れず、自己の思想の理論化は放棄している。彼の関心があったのは、あくまで実力行動にあったと考えられる。
血盟団は多くの要人を殺害したが、暗殺後の国家改造計画に関する具体策を何等持ち合わせていなかった。彼等の論理は、自分たちがテロを行うことによって捨て石になることで、後に続く者達の国家改造の先鞭をつけたという単純なものであった。血盟団事件自体はクーデター計画でもなく、クーデター未遂事件ですらなかった。井上自身自分は単なるテロではなくクーデターを指向していたと云っているが、その結果は要人暗殺というテロ事件以上のものではない。
第2節「血盟団の形成」
井上日召は1886年(明治19年)群馬県の出身で、父は明治維新後に起こった熊本の士族の反乱「神風連の乱」に参加しその後医師となる。本人は早稲田大学、拓殖大学を経て大陸に渡り、天津駐在の日本軍の通訳やスパイを務めたいわゆる大陸浪人である。帰国後先に述べたように日蓮宗に帰依して、茨城県の大洗にあった大洗護国堂に入り「日本精神の尊重」という思想のもとに、青年の教育に努めていた。その主要なメンバーが後に血盟団といわれ暗殺事件に関わる一般に大洗組といわれる小沼正、菱沼五郎、古内栄治、さらに東大グループといわれる四元義隆、田中邦雄、京大グループの田倉利之など16名のグループである。
このように井上は立正護国堂を道場にして、地元の若者や一部インテリの学生を集めて彼らを鍛え上げた後、各地の農村に派遣して同志を増やし、自らの教団を起こして信者の数を数年間で数十万人に迄増やして国家改造の一大勢力を先ず築き、これらの同志をかたらって国会議事堂を取り巻き、国家改造を迫るといういささか誇大妄想じみた計画(井上はこれを「倍加計画」と称していた)を実行しようとしていたのであって、1929年(昭和4年)の時点では、テロリズムによる実行行動を考えていたわけではなかった。
第3節「血盟団をテロリストに変えた原因」
それでは井上がテロによる直接行動を考えるようになったのは何故か?その原因は護国堂に集まる海軍の青年将校達、特に藤井斉(第一次上海事変で戦死)の影響が大きかったと云われている。藤井を介して井上と海軍との関係が生まれたことにより、血盟団の性格が大きく変わった。具体的には1929年(昭和4年)に藤井は、第20期飛行学生となり霞ケ浦海軍航空隊に赴任し、この時期に井上日召や橘孝三郎、権藤成卿と交わるようになる。藤井は、1904年(明治37年)佐賀県の生まれである。彼は海軍兵学校入校以来目立った存在だった。在校中から大アジア主義を唱え、当時問題となっていたワシントン、ロンドン海軍軍縮条約を非難して、兵学校上部からマークされる存在であった。血盟団員の中で重要な役割をはたしたのは、大洗グループ内の古内(小学校教員出身)と東大グループの四元の2人である。また血盟団員ではなく、先に述べた海軍将校の藤井斉の影響は大きい。藤井こそ元々実力行使には慎重であった井上日召を、テロリストに仕向けた張本人である。また東大グループや京大グループ、海軍将校と井上を緊密に結び付け、大洗の小さなグループに過ぎなかった血盟団を、広域に活動するグループに変貌させたのであった。
藤井は日召の唱える倍加運動を聞いて、日召に対して「貴君は寺に居て世間の事情にうといからそのような呑気な事を云っているのだ。最近の国家の様子をもっと勉強しろ。国家の現状が今程行き詰っているのがわからないのか。国民大衆の苦境を救うためには、一刻も早く我々殉国の志士が立ち上がって、国家の改造を行わなければならない」と日召に迫ったのであった。
日召は、藤井を初めは嘲笑していたが、次第に考えを変え、暴力を肯定する方向に変わっていった。それ以来藤井は頻繁に護国堂に出入りするようになる。その後日召は護国堂を出て東京で活動するようになる。先に述べた陸軍の未遂に終わった3月事件(1931年(昭和6年)3月)及び10月事件(1931年10月)に日召を始めとして血盟団のメンバーは関係している。
ある集団(人間)が、異星人との交渉で、「この交渉がお前たちにとっていかに利益であるか」を滔々と弁じると、相手は態度を硬化させる。「この話し合いは、我々がお前たちを助けるための話し合いであって、我々は利益など考えていない。利益という下司な考えを話し合いの最初にするお前たちは信頼できない種族だと我々は判断した」ということで、戦争が始まる、という話である。
窓から流れ込む五月の風を肌に感じていると、何とも言えない幸福感に包まれる。
それは、自分が誰よりも自由で、これからおそらく60年かそれ以上の人生があると信じているからだろう。12歳の中学1年生が、それ以上何が必要だろうか。
中学生活は自由などではないって? まあ、それは考え方次第だろう。少なくとも僕は自由だと感じている。
すべて世は事もなし、という幸福感だ。たかが中学生ごときに、何の人生の難問があるだろうか。
などと言えば、いじめなどに遭っている人たちに憎まれそうだが、なあに、学校でいじめられるなら学校を換えればいい。地域でいじめられているなら引っ越せばいい。それが一番の解決法だろう。なぜ被害者の方が逃げなくてはならないのか、などと文句を言うなら戦えばいい。それができないなら、逃げるしかないではないか。親に相談してもその解決法を取らないなら、それは家庭の問題であって、親が悪い。まあ、そういう親を持った運命を恨むしかない。
などという話をする気ではなかった。筆の滑りである。
なお、この記録は大学ノートに2Bの鉛筆で書いている。私は2Bの鉛筆が好きなのである。細い筆で書くみたいな気がする。
さて、時は春、日は朝、朝は七時ではなく、もう十時過ぎだが、今日は日曜日なのでゆっくりしているのである。
自分の部屋で、窓から流れ込む五月の風を受けていると、それだけで幸福だ。
だがそればかり言っていても仕方がないので、自己紹介をしておこう。
僕の名前は高嶺昇という、少しふざけた名前だが、高嶺という姓は、この土地ではありふれた姓である。下の名を昇とした例は少ないかもしれないし、登山なら「登」にすべきだろう。まあ、高天原昇でないだけましだ。少なくとも、登れる高い嶺はたくさんある。
さて、家の二階などと言うと、豪邸を想像するかもしれないが、実は、ここは連れ込みホテルなのである。
1965年、つまり去年始まったベトナム戦争には、このO県からも米国の兵士がたくさん戦地に行き、あるいは待機しており、彼ら兵士が戦地から一時休暇で基地に戻ると、酒を飲み、女を買うのが定石である。そこで、連れ込みホテルが大繁盛というわけだ。彼らは明日をも知れない命だから、金払いがいい。どころか湯水のように散財する。そのおこぼれが、こうした連れ込みホテルにも下るわけだ。
つまり、人間、先の命は分からないのだから、些細な事でくよくよしても馬鹿馬鹿しい、というのが私の考えなのである。誰かの警句を借りれば「明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように生きよ」ということである。
(以下引用)
バルカン同盟
1912年成立のバルカン半島のスラヴ系諸国を主とした秘密軍事同盟。セルビア・モンテネグロに、ブルガリア・ギリシアが加わった。
なお、セルビアとモンテネグロはともに南スラヴ系民族でパン=スラヴ主義に立ち、1878年のベルリン会議でオスマン帝国からの独立を承認されていた。ブルガリアはこの時期にはスラヴ化しており、ロシアとの関係も強く、ベルリン条約でオスマン帝国を宗主国として自治権を認められた後、1908年に青年トルコ革命の混乱に乗じて独立を宣言した。ギリシアはオスマン帝国からの独立戦争を闘い、1829年独立を達成していた。この4国は、民族系統は異なっていたが、共通点はギリシア正教会の信者が多いことである。
バルカン戦争の勃発と同盟の解体
バルカン同盟諸国は、かねてからオスマン帝国の衰退に伴うバルカン問題のなかで、パン=ゲルマン主義をとるオーストリア=ハンガリー帝国の侵出に神経をとがらせていたが、青年トルコ革命後も混乱を続けるオスマン帝国に侵攻してそれぞれ領土を拡大しようとしてバルカン同盟を結成、1912年10月にロシアの支援のもとで第1次バルカン戦争を起こした。しかし、この戦争でもっとも広大な地域を占領したブルガリアに対して他の同盟国が反発し、翌1913年6月には第2次バルカン戦争となって同盟は解体した。同盟解体によって孤立したブルガリアは、他のスラヴ諸国と敵対することとなり、翌年勃発した第一次世界大戦ではドイツ・オーストリアの同盟側に加わることになる。