大和朝廷がやたらと朝鮮に介入した理由が、朝鮮の進んだ技術や技術者を輸入する意図であったことが、下の記述などから読み取れる。
なお、雄略天皇記は事実と虚構が入り乱れているようだが、「百済が献上した技術者」といったような、特に嘘を書く必要性も無いこうした細部にこそ重要な情報はあると思う。
ちなみに、今読んでいる本によると、(朝鮮半島からのものが大半だと思うが、)渡来人は年間数千人いたと想像されている。弥生時代初期から七百年までの一千年で三百万人にのぼるらしく、渡来した人数はそのまま日本の人口の一部となり、増えこそすれ減りはしないのだから、700年頃の総人口と推定されるのが四、五百万人と推定されているので、人口構成としては(書き方が曖昧で、とりあえずそう読み取れるが)縄文人より多いらしい。つまり、弥生人とは渡来人であり、朝鮮はその故郷だから大和朝廷はしきりに朝鮮を気にするわけである。なお、この本、集英社「日本の歴史2『倭人争乱』」では、その弥生人(農業文化民族)を「倭人」と書いており、縄文人と区別している。一般的理解では「倭人」とは日本人と同義だから、つまり、「現在の日本人の主な祖先は朝鮮人である」と言っているに等しいのである。
なお、雄略天皇記は事実と虚構が入り乱れているようだが、「百済が献上した技術者」といったような、特に嘘を書く必要性も無いこうした細部にこそ重要な情報はあると思う。
ちなみに、今読んでいる本によると、(朝鮮半島からのものが大半だと思うが、)渡来人は年間数千人いたと想像されている。弥生時代初期から七百年までの一千年で三百万人にのぼるらしく、渡来した人数はそのまま日本の人口の一部となり、増えこそすれ減りはしないのだから、700年頃の総人口と推定されるのが四、五百万人と推定されているので、人口構成としては(書き方が曖昧で、とりあえずそう読み取れるが)縄文人より多いらしい。つまり、弥生人とは渡来人であり、朝鮮はその故郷だから大和朝廷はしきりに朝鮮を気にするわけである。なお、この本、集英社「日本の歴史2『倭人争乱』」では、その弥生人(農業文化民族)を「倭人」と書いており、縄文人と区別している。一般的理解では「倭人」とは日本人と同義だから、つまり、「現在の日本人の主な祖先は朝鮮人である」と言っているに等しいのである。
雄略天皇(二十四)弟君と吉備海部直赤尾の新羅行き
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田狹、既之任所、聞天皇之幸其婦、思欲求援而入新羅。于時、新羅不事中国。天皇、詔田狹臣子弟君與吉備海部直赤尾曰「汝、宜往罰新羅。」於是、西漢才伎歡因知利在側、乃進而奏曰「巧於奴者、多在韓国。可召而使。」天皇詔群臣曰「然則宜以歡因知利、副弟君等、取道於百濟、幷下勅書、令獻巧者。」於是弟君、銜命率衆、行到百濟而入其国、国神化爲老女、忽然逢路、弟君就訪国之遠近、老女報言「復行一日而後可到。」弟君、自思路遠、不伐而還、集聚百濟所貢今來才伎於大嶋中、託稱候風、淹留數月。
現代語訳
田狭(タサ)は任所(ヨサシドコロ=任じられた所=任那)に行きました。天皇が婦(メ=田狭の妻の稚媛のこと)を幸(ツカワ=妃とした)せたのを聞いて、助けを求めて新羅に入ろうと思いました。そのとき、新羅は中国(ミカド=中つ国=倭のこと)に仕えていませんでした。天皇は田狭臣の子の弟君(オトキミ)と吉備海部直赤尾(キビノアマノアタイアカオ)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「お前、行って新羅を罰を与えよ」
西漢才伎歡因知利(カウチノアヤノテヒトカンインチリ)は側にいました。すぐに進んで天皇に申し上げました。
「わたしめよりも巧みな人が多く韓国にいます。呼び寄せて仕えさせるべきです」
天皇は群臣に詔していいました。
「そうならば、歡因知利(カンインチリ)をもって、弟君に添えて、道を百済に舵を取って、併せて勅書(ミコトノリノフミ)を与えて、巧(タクミ)の者を献上させろ」
弟君は命令を承って、衆(モロモロ)を率いて行って、百済に到着して、その国に入りました。国神(クニツカミ)は老女に化けて、路で会いました。弟君はこれから行く国が遠いか近いか尋ねました。老女は答えました。
「また1日行くと、到着するでしょう」
弟君は自然と路が遠いと思って、新羅を征伐しないで帰りました。百済が献上した今来(イマキ)の才伎(テヒト=技術者のこと)を大嶋(オオシマ=未詳)の中に集めて、候風(カゼサモチラウ=風の様子を見ること)ことになって、長く留まることになって月が経ちました。
「お前、行って新羅を罰を与えよ」
西漢才伎歡因知利(カウチノアヤノテヒトカンインチリ)は側にいました。すぐに進んで天皇に申し上げました。
「わたしめよりも巧みな人が多く韓国にいます。呼び寄せて仕えさせるべきです」
天皇は群臣に詔していいました。
「そうならば、歡因知利(カンインチリ)をもって、弟君に添えて、道を百済に舵を取って、併せて勅書(ミコトノリノフミ)を与えて、巧(タクミ)の者を献上させろ」
弟君は命令を承って、衆(モロモロ)を率いて行って、百済に到着して、その国に入りました。国神(クニツカミ)は老女に化けて、路で会いました。弟君はこれから行く国が遠いか近いか尋ねました。老女は答えました。
「また1日行くと、到着するでしょう」
弟君は自然と路が遠いと思って、新羅を征伐しないで帰りました。百済が献上した今来(イマキ)の才伎(テヒト=技術者のこと)を大嶋(オオシマ=未詳)の中に集めて、候風(カゼサモチラウ=風の様子を見ること)ことになって、長く留まることになって月が経ちました。
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「BLEACH」についてのコメントのひとつで、私はこの漫画は一度も読んだことがないが、漫画のどういうところが現代の人間に評価されるのか、参考にはなりそうだ。論評の仕方、言葉使いが編集者風で気持ちが悪いことは悪いのだが、昔の人間が単に「面白い」で終わったものを分析的に考察する、という姿勢があるのが分かる。
なお、他のコメントに紹介されている、作中の人名のセンスは私には「?」というものばかりで、そのどこにセンスの良さがあるのかさっぱり分からない。「台詞回し(「台詞」ではなく「台詞回し」というところが今風だ。)」「コマ割り」「キャラデザ」が良さそうなのは、断片的に紹介されている漫画の一部を見ても何となく感じはする。
最終回のあたりがファンに不評なのは、「読者の生理」「読む快感」を無視して、「お前らの期待や展開の予測など裏切ってやるぞ、見ていろwww」という創作姿勢が作者にあったのではないか、と一連のコメントを見ていて感じる。
なお、他のコメントに紹介されている、作中の人名のセンスは私には「?」というものばかりで、そのどこにセンスの良さがあるのかさっぱり分からない。「台詞回し(「台詞」ではなく「台詞回し」というところが今風だ。)」「コマ割り」「キャラデザ」が良さそうなのは、断片的に紹介されている漫画の一部を見ても何となく感じはする。
最終回のあたりがファンに不評なのは、「読者の生理」「読む快感」を無視して、「お前らの期待や展開の予測など裏切ってやるぞ、見ていろwww」という創作姿勢が作者にあったのではないか、と一連のコメントを見ていて感じる。
546: 風吹けば名無し 2020/03/19(木) 13:01:23.53 ID:XkwcAbbh0
名前作るセンスと台詞回しとコマ割りと大概のキャラデザは素晴らしいんだよな
575: 風吹けば名無し 2020/03/19(木) 13:02:45.81 ID:M32E7tbsa
>>546
日常パート最高やもんな
日常パート最高やもんな
例のサイトの解説部分で、多くの氏族が名前の由来を偽っているという理由で天皇がクガタチを命じる話だが、下の解釈は「クガタチ」というものに実に合理的な説明を加えていて感心した。
同じ行為でも、時間的順序で明確な差が出る、ということ、「時間差」という「目に見えないもの」を利用する、というのは実に狡猾である。この詐欺に不満の声を上げた人間は、その反抗自体がケシカランとして処罰されたのではないか。中世西洋の魔女裁判も同じだっただろう。つまり、「権力犯罪」である。
(以下引用)
そこで、お湯を沸かして、次々に手を突っ込んでいった。泥を掴んでくれば「正しい」。火傷すれば「嘘をついていた」となります。
おそらく、お湯を炊き始めて、順番に有力者から探湯(クカタチ)をしていった。当然、火をつけて間もなくはお湯の温度は低いので、最初の氏族は問題が無かった。しかし、徐々にお湯の温度があがり、弱小氏族は火傷をしていった。そのまま弱小氏族は氏姓を失った。
同じ行為でも、時間的順序で明確な差が出る、ということ、「時間差」という「目に見えないもの」を利用する、というのは実に狡猾である。この詐欺に不満の声を上げた人間は、その反抗自体がケシカランとして処罰されたのではないか。中世西洋の魔女裁判も同じだっただろう。つまり、「権力犯罪」である。
(以下引用)
そこで、お湯を沸かして、次々に手を突っ込んでいった。泥を掴んでくれば「正しい」。火傷すれば「嘘をついていた」となります。
おそらく、お湯を炊き始めて、順番に有力者から探湯(クカタチ)をしていった。当然、火をつけて間もなくはお湯の温度は低いので、最初の氏族は問題が無かった。しかし、徐々にお湯の温度があがり、弱小氏族は火傷をしていった。そのまま弱小氏族は氏姓を失った。
前回引用した文章にこういう部分がある。
韓国式銅剣文化は紀元前5世紀頃から韓半島の清川江以南部地域を中心に発展していた青銅器文化に青銅器時代後期またはこの時期から鉄器が使用されはじめたことから初期鉄器時代とも呼ばれます。代表的な青銅遺物には刃部が直線的に伸びる韓国式銅剣をはじめ銅矛、銅戈のような武器と精文鏡、各種鈴類などの儀器があります。
つまり、朝鮮半島は紀元前五世紀のころには日本より「戦争の先進国」だったということであり、だからこそ大和朝廷が日本の支配政権になったのだろう。
なお、古代史における朝鮮半島は小さな集団が群立していただろうし、その総体を表すには「朝鮮」という呼び名と「朝鮮人」という呼び名しか適合しないわけで、私がいつもブログに「朝鮮」とか「朝鮮人」と書くのに差別的な意味はまったく無い。それが差別なら、日本を日本と言い、日本人を日本人と言うのも差別である。
韓国式銅剣文化は紀元前5世紀頃から韓半島の清川江以南部地域を中心に発展していた青銅器文化に青銅器時代後期またはこの時期から鉄器が使用されはじめたことから初期鉄器時代とも呼ばれます。代表的な青銅遺物には刃部が直線的に伸びる韓国式銅剣をはじめ銅矛、銅戈のような武器と精文鏡、各種鈴類などの儀器があります。
つまり、朝鮮半島は紀元前五世紀のころには日本より「戦争の先進国」だったということであり、だからこそ大和朝廷が日本の支配政権になったのだろう。
なお、古代史における朝鮮半島は小さな集団が群立していただろうし、その総体を表すには「朝鮮」という呼び名と「朝鮮人」という呼び名しか適合しないわけで、私がいつもブログに「朝鮮」とか「朝鮮人」と書くのに差別的な意味はまったく無い。それが差別なら、日本を日本と言い、日本人を日本人と言うのも差別である。
国立博物館ホームページから転載。
写真の銅剣の形状は日本でこれまで出土した銅剣とほぼ同じで、銅剣は朝鮮半島から(銅剣のオリジナルは中国で、朝鮮半島は経由地にすぎないかもしれないが)日本に伝わったと見ていいのではないか。
そして、その金属の「柄」(中子?)の部分が異常に短いのは、これが木製の柄に付けて用いられたこと、そして、ここが重要だが、その金属の中子(と言ったか、木製の柄に収まる部分だ)の極端な短さは、これが「剣」ではなく、「槍」として用いられた事実を示すだろう。つまり、木製の柄の部分が後世発見されていないのは、金属部分だけが貴重品として特別に保管され、木製柄の部分は腐食して消滅したのだと思う。仮にこれが「剣」だったなら、横方向の打撃に耐えきれず、刀身が柄から即座に抜けて使用不可能になっただろう。刺突に用いる槍だから、打撃が縦方向で、木に埋める部分(中子)は短くても良かったのである。
なお、銅剣が祭祀のためのものだったという説は私は採らない。祭祀用なら、あれほどの数が作られたはずがない。数が増えれば「有難み」は減る道理である。たとえば「草薙の剣」が三つも四つも百以上もあったら、誰が有難がるか。
と書いた後で、写真の「銅剣」の形状(一見刃に見える部分の下から十センチくらいのところにすべてわずかな窪み、あるいは小さな欠落がある。)を見て、考えが変わった。
つまり、私は、「刃」に見える部分がすべて実際に刃だったと考えて、上記のことを書いたのだが、実は、一見刃に見える部分の一番下の十センチくらいは、木の柄に埋め込まれた、とすれば、やはり「銅剣」だったと見るのが正解かもしれない。つまり、丸い中子だけだと木の柄の中で刀身が回ってしまう(つまり、刃の向きが安定しない)可能性があるので、刀身が柄の中で回らないように、刀身の下十センチくらいは柄に埋め込んだ可能性がある、というわけだ。中心部を円筒状に少しくり抜いた二枚の木の柄で剣の両側から挟み、紐で柄全体をきつく巻くような形態だったのではないか。
(以下引用)
写真の銅剣の形状は日本でこれまで出土した銅剣とほぼ同じで、銅剣は朝鮮半島から(銅剣のオリジナルは中国で、朝鮮半島は経由地にすぎないかもしれないが)日本に伝わったと見ていいのではないか。
そして、その金属の「柄」(中子?)の部分が異常に短いのは、これが木製の柄に付けて用いられたこと、そして、ここが重要だが、その金属の中子(と言ったか、木製の柄に収まる部分だ)の極端な短さは、これが「剣」ではなく、「槍」として用いられた事実を示すだろう。つまり、木製の柄の部分が後世発見されていないのは、金属部分だけが貴重品として特別に保管され、木製柄の部分は腐食して消滅したのだと思う。仮にこれが「剣」だったなら、横方向の打撃に耐えきれず、刀身が柄から即座に抜けて使用不可能になっただろう。刺突に用いる槍だから、打撃が縦方向で、木に埋める部分(中子)は短くても良かったのである。
なお、銅剣が祭祀のためのものだったという説は私は採らない。祭祀用なら、あれほどの数が作られたはずがない。数が増えれば「有難み」は減る道理である。たとえば「草薙の剣」が三つも四つも百以上もあったら、誰が有難がるか。
と書いた後で、写真の「銅剣」の形状(一見刃に見える部分の下から十センチくらいのところにすべてわずかな窪み、あるいは小さな欠落がある。)を見て、考えが変わった。
つまり、私は、「刃」に見える部分がすべて実際に刃だったと考えて、上記のことを書いたのだが、実は、一見刃に見える部分の一番下の十センチくらいは、木の柄に埋め込まれた、とすれば、やはり「銅剣」だったと見るのが正解かもしれない。つまり、丸い中子だけだと木の柄の中で刀身が回ってしまう(つまり、刃の向きが安定しない)可能性があるので、刀身が柄の中で回らないように、刀身の下十センチくらいは柄に埋め込んだ可能性がある、というわけだ。中心部を円筒状に少しくり抜いた二枚の木の柄で剣の両側から挟み、紐で柄全体をきつく巻くような形態だったのではないか。
(以下引用)
37年ぶりに一堂に会した和順大谷里の青銅遺物
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青銅器製作技術の極致、精文鏡
剣と鏡、誰がどのように使ったのか?
祭政一致の社会を意味する剣と鏡
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