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大和朝廷がやたらと朝鮮に介入した理由が、朝鮮の進んだ技術や技術者を輸入する意図であったことが、下の記述などから読み取れる。
なお、雄略天皇記は事実と虚構が入り乱れているようだが、「百済が献上した技術者」といったような、特に嘘を書く必要性も無いこうした細部にこそ重要な情報はあると思う。
ちなみに、今読んでいる本によると、(朝鮮半島からのものが大半だと思うが、)渡来人は年間数千人いたと想像されている。弥生時代初期から七百年までの一千年で三百万人にのぼるらしく、渡来した人数はそのまま日本の人口の一部となり、増えこそすれ減りはしないのだから、700年頃の総人口と推定されるのが四、五百万人と推定されているので、人口構成としては(書き方が曖昧で、とりあえずそう読み取れるが)縄文人より多いらしい。つまり、弥生人とは渡来人であり、朝鮮はその故郷だから大和朝廷はしきりに朝鮮を気にするわけである。なお、この本、集英社「日本の歴史2『倭人争乱』」では、その弥生人(農業文化民族)を「倭人」と書いており、縄文人と区別している。一般的理解では「倭人」とは日本人と同義だから、つまり、「現在の日本人の主な祖先は朝鮮人である」と言っているに等しいのである。



雄略天皇(二十四)弟君と吉備海部直赤尾の新羅行き

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原文

田狹、既之任所、聞天皇之幸其婦、思欲求援而入新羅。于時、新羅不事中国。天皇、詔田狹臣子弟君與吉備海部直赤尾曰「汝、宜往罰新羅。」於是、西漢才伎歡因知利在側、乃進而奏曰「巧於奴者、多在韓国。可召而使。」天皇詔群臣曰「然則宜以歡因知利、副弟君等、取道於百濟、幷下勅書、令獻巧者。」於是弟君、銜命率衆、行到百濟而入其国、国神化爲老女、忽然逢路、弟君就訪国之遠近、老女報言「復行一日而後可到。」弟君、自思路遠、不伐而還、集聚百濟所貢今來才伎於大嶋中、託稱候風、淹留數月。

現代語訳

田狭(タサ)は任所(ヨサシドコロ=任じられた所=任那)に行きました。天皇が婦(メ=田狭の妻の稚媛のこと)を幸(ツカワ=妃とした)せたのを聞いて、助けを求めて新羅に入ろうと思いました。そのとき、新羅は中国(ミカド=中つ国=倭のこと)に仕えていませんでした。天皇は田狭臣の子の弟君(オトキミ)と吉備海部直赤尾(キビノアマノアタイアカオ)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「お前、行って新羅を罰を与えよ」
西漢才伎歡因知利(カウチノアヤノテヒトカンインチリ)は側にいました。すぐに進んで天皇に申し上げました。
「わたしめよりも巧みな人が多く韓国にいます。呼び寄せて仕えさせるべきです」
天皇は群臣に詔していいました。
「そうならば、歡因知利(カンインチリ)をもって、弟君に添えて、道を百済に舵を取って、併せて勅書(ミコトノリノフミ)を与えて、巧(タクミ)の者を献上させろ」
弟君は命令を承って、衆(モロモロ)を率いて行って、百済に到着して、その国に入りました。国神(クニツカミ)は老女に化けて、路で会いました。弟君はこれから行く国が遠いか近いか尋ねました。老女は答えました。
「また1日行くと、到着するでしょう」
弟君は自然と路が遠いと思って、新羅を征伐しないで帰りました。百済が献上した今来(イマキ)の才伎(テヒト=技術者のこと)を大嶋(オオシマ=未詳)の中に集めて、候風(カゼサモチラウ=風の様子を見ること)ことになって、長く留まることになって月が経ちました。





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「BLEACH」についてのコメントのひとつで、私はこの漫画は一度も読んだことがないが、漫画のどういうところが現代の人間に評価されるのか、参考にはなりそうだ。論評の仕方、言葉使いが編集者風で気持ちが悪いことは悪いのだが、昔の人間が単に「面白い」で終わったものを分析的に考察する、という姿勢があるのが分かる。
なお、他のコメントに紹介されている、作中の人名のセンスは私には「?」というものばかりで、そのどこにセンスの良さがあるのかさっぱり分からない。「台詞回し(「台詞」ではなく「台詞回し」というところが今風だ。)」「コマ割り」「キャラデザ」が良さそうなのは、断片的に紹介されている漫画の一部を見ても何となく感じはする。
最終回のあたりがファンに不評なのは、「読者の生理」「読む快感」を無視して、「お前らの期待や展開の予測など裏切ってやるぞ、見ていろwww」という創作姿勢が作者にあったのではないか、と一連のコメントを見ていて感じる。



546: 風吹けば名無し 2020/03/19(木) 13:01:23.53 ID:XkwcAbbh0
名前作るセンスと台詞回しとコマ割りと大概のキャラデザは素晴らしいんだよな

575: 風吹けば名無し 2020/03/19(木) 13:02:45.81 ID:M32E7tbsa
>>546
日常パート最高やもんな
例のサイトの解説部分で、多くの氏族が名前の由来を偽っているという理由で天皇がクガタチを命じる話だが、下の解釈は「クガタチ」というものに実に合理的な説明を加えていて感心した。
同じ行為でも、時間的順序で明確な差が出る、ということ、「時間差」という「目に見えないもの」を利用する、というのは実に狡猾である。この詐欺に不満の声を上げた人間は、その反抗自体がケシカランとして処罰されたのではないか。中世西洋の魔女裁判も同じだっただろう。つまり、「権力犯罪」である。


(以下引用)



そこで、お湯を沸かして、次々に手を突っ込んでいった。泥を掴んでくれば「正しい」。火傷すれば「嘘をついていた」となります。

おそらく、お湯を炊き始めて、順番に有力者から探湯(クカタチ)をしていった。当然、火をつけて間もなくはお湯の温度は低いので、最初の氏族は問題が無かった。しかし、徐々にお湯の温度があがり、弱小氏族は火傷をしていった。そのまま弱小氏族は氏姓を失った。



前回引用した文章にこういう部分がある。


韓国式銅剣文化は紀元前5世紀頃から韓半島の清川江以南部地域を中心に発展していた青銅器文化に青銅器時代後期またはこの時期から鉄器が使用されはじめたことから初期鉄器時代とも呼ばれます。代表的な青銅遺物には刃部が直線的に伸びる韓国式銅剣をはじめ銅矛、銅戈のような武器と精文鏡、各種鈴類などの儀器があります。

つまり、朝鮮半島は紀元前五世紀のころには日本より「戦争の先進国」だったということであり、だからこそ大和朝廷が日本の支配政権になったのだろう。
なお、古代史における朝鮮半島は小さな集団が群立していただろうし、その総体を表すには「朝鮮」という呼び名と「朝鮮人」という呼び名しか適合しないわけで、私がいつもブログに「朝鮮」とか「朝鮮人」と書くのに差別的な意味はまったく無い。それが差別なら、日本を日本と言い、日本人を日本人と言うのも差別である。
国立博物館ホームページから転載。
写真の銅剣の形状は日本でこれまで出土した銅剣とほぼ同じで、銅剣は朝鮮半島から(銅剣のオリジナルは中国で、朝鮮半島は経由地にすぎないかもしれないが)日本に伝わったと見ていいのではないか。
そして、その金属の「柄」(中子?)の部分が異常に短いのは、これが木製の柄に付けて用いられたこと、そして、ここが重要だが、その金属の中子(と言ったか、木製の柄に収まる部分だ)の極端な短さは、これが「剣」ではなく、「槍」として用いられた事実を示すだろう。つまり、木製の柄の部分が後世発見されていないのは、金属部分だけが貴重品として特別に保管され、木製柄の部分は腐食して消滅したのだと思う。仮にこれが「剣」だったなら、横方向の打撃に耐えきれず、刀身が柄から即座に抜けて使用不可能になっただろう。刺突に用いる槍だから、打撃が縦方向で、木に埋める部分(中子)は短くても良かったのである。
なお、銅剣が祭祀のためのものだったという説は私は採らない。祭祀用なら、あれほどの数が作られたはずがない。数が増えれば「有難み」は減る道理である。たとえば「草薙の剣」が三つも四つも百以上もあったら、誰が有難がるか。
と書いた後で、写真の「銅剣」の形状(一見刃に見える部分の下から十センチくらいのところにすべてわずかな窪み、あるいは小さな欠落がある。)を見て、考えが変わった。
つまり、私は、「刃」に見える部分がすべて実際に刃だったと考えて、上記のことを書いたのだが、実は、一見刃に見える部分の一番下の十センチくらいは、木の柄に埋め込まれた、とすれば、やはり「銅剣」だったと見るのが正解かもしれない。つまり、丸い中子だけだと木の柄の中で刀身が回ってしまう(つまり、刃の向きが安定しない)可能性があるので、刀身が柄の中で回らないように、刀身の下十センチくらいは柄に埋め込んだ可能性がある、というわけだ。中心部を円筒状に少しくり抜いた二枚の木の柄で剣の両側から挟み、紐で柄全体をきつく巻くような形態だったのではないか。


(以下引用)


和順大谷里遺跡出土遺物 : 李 真 旼

1971年、和順郡大谷里の住民が排水路作業中に青みがかった光を放つ奇妙なものを発見しました。この金属製のものは古物商は手に渡りましたが、数多くの古物を見てきた古物商は苦悩の末に全南道庁に発見申告しました。その4ヵ月後、青銅遺物が発見された場所に対する調査が実施されました。その結果、遺構は一部破壊された状態でしたが、墓壙を二段に掘って丸太の木棺を置いた後、その周囲を割石で詰めたことが明らかになりました。

 和順大谷里遺跡出土遺物、初期鉄器時代、直径(右側銅鏡)18 cm、国宝第143号

和順大谷里遺跡出土遺物、初期鉄器時代、直径(右側銅鏡)18 cm、国宝第143号
37年ぶりに一堂に会した和順大谷里の青銅遺物

驚くべきことはこの遺跡で計11点の青銅遺物が一括で発見されたということです。韓国式銅剣3点、銅斧1点、銅ヤリガンナ1点のみならず、精巧の極致を見せる精文鏡2面、八珠鈴2点、双頭鈴2点が出土し、翌年、国宝第143号に指定されました。それから37年が過ぎた2008年2月には現地を整備するために国立光州博物館が再調査を行いました。37年前の調査は緊急収拾という性格であったため、木棺の下の状況などに対する精密な調査が行われていない部分もあったのです。調査を終える頃、南側の床面から韓国式銅剣2点が新たに発見され、37年ぶりにこの墓のすべての副葬品が一堂に会することになりました。

支配者の象徴、韓国式銅剣

和順大谷里遺跡から出土した青銅遺物は韓国式銅剣文化を代表するものです。韓国式銅剣文化は紀元前5世紀頃から韓半島の清川江以南部地域を中心に発展していた青銅器文化に青銅器時代後期またはこの時期から鉄器が使用されはじめたことから初期鉄器時代とも呼ばれます。代表的な青銅遺物には刃部が直線的に伸びる韓国式銅剣をはじめ銅矛、銅戈のような武器と精文鏡、各種鈴類などの儀器があります。

和順大谷里遺跡では長さが異なる韓国式銅剣が計3点出土しました。3点とも金属製の柄は発見されておらず、木製の柄を使っていたものと推定されます。韓国式銅剣は遼寧式銅剣と同様に剣身と柄が別々に作られていますが、刃部が直線的に伸び、その一部に曲線をなす抉入部と節を持つことが特徴です。

遼寧式であれ韓国式であれ銅剣は簡単に作ることができないものであることから支配者の象徴物と考えられます。青銅器時代の剣自体が持つ象徴性は銅剣に限ったものではありませんでした。青銅器時代の墳墓から出土している大型石剣や柄が大きく作られた石剣、支石墓の上石に刻まれた絵画などから石剣もやはり当時の人々にとってはその所有を誇示すると共に邪気を退ける物品であり崇拝の対象でもあったことが分かります。しかし、石剣は遼寧式銅剣に続いて韓国式銅剣が本格的に製作されはじめるとともに徐々に姿を消していきます。このことは遼寧式銅剣と石剣に見られた象徴性を韓国式銅剣が持つようになったことを物語っており、剣が本来有している刺したり切るという「武器」としての機能以上の意味を持っていたと言えます。

青銅器製作技術の極致、精文鏡

韓国式銅剣文化の段階には以前の時期に比べて青銅器の種類が多様化して数的に豊富になります。それだけでなく質的にも高い水準を見せるものがあり、それは青銅器製作技術の頂点を物語る「精文鏡」と呼ばれる鏡です。精文鏡は粗文鏡から発展し、その文様がさらに精密になったもので、鏡の裏面には2つの鈕が付いており、全面にわたって直線を利用した幾何学的な文様が施されています。和順大谷里から出土した2面の精文鏡の直径はそれぞれ18cm(①)、15.6cm(②)で、文様は大きく外側部分、中央部分、内側部分に分かれ、他の文様との組み合わせが見られます。

 和順大谷里遺跡で発見された2面の精文鏡。幾何学的文様が引き立つ精文鏡は青銅器製作技術が頂点に達したことを物語る遺物です。

和順大谷里遺跡で発見された2面の精文鏡。幾何学的文様が引き立つ精文鏡は青銅器製作技術が頂点に達したことを物語る遺物です。

幅1mmの中に2〜3本の細い線で埋められた三角集線文が主な文様ですが、①のように同心円文が施されることもあります。これらの同心円文は国宝第141号の精文鏡、唐津素素里遺跡出土の精文鏡などでも確認されています。鏡の外側部分を見ると、三角集約文がまるで光が放たれるような形に配置されており、全体的に太陽を表現したものと推定されています。

粗文鏡の場合、鋳型が残っているのに対し、精文鏡の鋳型はまだ発見されていません。また、精文鏡の文様は非常に精巧で現代の科学を以てしても復元に失敗するなど、これまでその製作技法を把握することが困難でした。ところが、2007〜08年にかけて崇実大学校韓国基督教博物館が所蔵している国宝141号精文鏡の保存処理を行う過程で鏡の製作と関連する多くの疑問が解けました。分析の結果、大部分の鋳型が滑石で作られたのとは異なり、精巧な技術を必要とする精文鏡には鋳物砂(細かい砂)で作られた鋳型を使用していたことが明らかになりました。

剣と鏡、誰がどのように使ったのか?

このような青銅器に対する最大の疑問は「どのように」作られ、「誰」が「どのような用途」で使ったのかでしょう。青銅器は基本的に銅と錫を混ぜて作られ、材質を改善するために鉛、亜鉛などを追加で入れることもあります。これらの金属を得るためにはまず鉱石の採取が行われます。青銅製品はそれぞれの鉱石を溶かして液体にし、それらを製品の用途に応じて一定の割合で混ぜた後、鋳型に注ぎます。鋳型で形作った青銅製品は最後に砥石を用いて縁を磨いたり、刃をつけたりして形を整えて仕上げます。青銅製品を作る際にはこのように複雑で細心の注意を払う工程が必要となるため、社会の構成員全員が持つことはできなかったでしょう。

韓国式銅剣や精文鏡はその大部分が墓から玉、土器など様々な副葬品と共に出土します。和順大谷里遺跡は墓壙を二段に深く掘り木棺の上に石を詰めた積石木棺墓と呼ばれる墓です。韓国式銅剣文化段階の青銅遺物が多く発見された遺跡を見るといずれも積石木棺墓です。以前の時期に流行した支石墓が支配者の墓であると同時に「集団」の記念物のような性格を持っていたとすれば、積石木棺墓は埋葬される「一人」のために深い墓壙を掘り、最高水準の青銅器を大量に納めたという点で、より強い力を持った支配者が登場したことを物語っています。剣と鏡はそのような強い力を持った支配者が生前使用していた物品だったのでしょう。韓国式銅剣は遼寧式とは異なり、剣身の幅が狭くシャープに直線化されています。また、銅の含有率が70〜80%と高い数値を示しており、単に権威を示す象徴物としてだけではなく、支配者が実際に使用した武器であった可能性もあります。

精文鏡は鈴などの儀器と共に錫の含有量が銅剣に比べて高いですが、これは光の反射や澄んだ音色を出すという効果を狙ったものと推定されます。したがって、青銅鏡は顔を映すという美容的な目的よりは、太陽の光を反射させる機能を持った儀器で儀礼の際に使用されたものと考えることができます。

祭政一致の社会を意味する剣と鏡

支配者の墓から発見された剣と鏡、これは何を意味するのでしょうか?剣は支配者としての政治的権威を、鏡は祭祀長としての儀礼的な権威をあらわしています。つまり、祭政一致の社会の存在を示唆しています。青銅器時代になると本格的な農耕が始まるとともに多くの人々が一箇所に集まり大規模なムラが形成されるようになります。定着生活が行われるなかで集団内だけでなく集団間の葛藤の調整や重要な決定を下したり、自然に対して豊穣と安寧を願う儀式を執り行う強い力を持った支配者が必要となったのでしょう。

とすれば、韓半島南部でこのように強い力を持った支配者が最初に出現する地域はどこだったのでしょうか?この問題を解く糸口が和順大谷里遺跡にあります。和順大谷里を含む韓半島西南部地域では、青銅武器と儀器など韓国式銅剣文化段階の遺物が古い時期から多く発見されています。つまり、このことは韓半島西南部地域で最初に階級化のかなり進んだ政治集団が出現し発展していったことを物語っています。

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