これは、復元する側の人々の神経が凄いと思う。自分(たち)はダビンチ以上の能力を持っている、と自己認識しているわけだから。こういうのは一種の「進化論」主義者なのだろう。現代は過去より進歩している、という認識だ。進歩しているのは一部の技術や知識であって、人間の才能自体が進歩しているわけではない。現代の思想家に孔子やブッダやソクラテスやキリストを超える思想家はいたか。単に先駆者だから有利だという問題ではない。現代においても哲学は彼らの思想を超えていないのだ。
作品復元プロジェクトというものがある。この本では年月が経ち保存状態が悪かったり未完成だったりする作品が多いダヴィンチを取り上げている。しかしどれも圧倒的に復元前の作品の方が良いと感じるのはきっと私の趣味だろう。他の画家のも見てみたい。
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私は、なぜか大学生ノリというのが大嫌いで、「シュタインズゲート」の最初のあたり、主人公らしき男のクサい演説を延々と聞かされるのに辟易して初回の途中で視聴放棄したような記憶がある。登場人物の大学生ノリだけではなく、作り手の大学生ノリというのもあって、面白くもないギャグや奇矯なキャラクターや見かけだけ意味深な小物(たとえば「あの花」で主人公が着ているTシャツの「地底人」という文字)を出して、「これはウケるだろう」と自己満足している、あの雰囲気が嫌いである。小説で言えば森見登美彦の小説がまさにそれで、ほとんど読む気がしない。森見登美彦の小説を映画化したりアニメ化したりしたのも全部ダメである。
これはなぜなのか、よく分からない。
「自分ひとりでウケている」という作品は、ギャグ作品だけとは限らず、三流作品の多くに見られる特徴だと思う。一般的な言葉で言えば、夜郎自大だろうか。しかし、ほとんどの作品は自分が作るものの内容に自信があるから作るわけで、創作において夜郎自大が本質的に悪いというわけではなく、単なる実力不足(特に、人間性や笑いへの理解不足)から来るのだろうと思う。「大学生ノリ」というのは、未熟な内容を勢いで誤魔化すという不誠実さのことだ、と言っていい。もちろん、一部の層には「大学生ノリ」が受けているからこそ厄介なのである。
「大学生ノリ」はあるが、「高校生ノリ」は無い、ということは、高校生に比べて大学生は基本的に軽薄である、という事実から来ると思う。そして大学生ノリのままの人間が広告会社やアニメ制作会社などに入るわけだ。
(以下引用)
これはなぜなのか、よく分からない。
「自分ひとりでウケている」という作品は、ギャグ作品だけとは限らず、三流作品の多くに見られる特徴だと思う。一般的な言葉で言えば、夜郎自大だろうか。しかし、ほとんどの作品は自分が作るものの内容に自信があるから作るわけで、創作において夜郎自大が本質的に悪いというわけではなく、単なる実力不足(特に、人間性や笑いへの理解不足)から来るのだろうと思う。「大学生ノリ」というのは、未熟な内容を勢いで誤魔化すという不誠実さのことだ、と言っていい。もちろん、一部の層には「大学生ノリ」が受けているからこそ厄介なのである。
「大学生ノリ」はあるが、「高校生ノリ」は無い、ということは、高校生に比べて大学生は基本的に軽薄である、という事実から来ると思う。そして大学生ノリのままの人間が広告会社やアニメ制作会社などに入るわけだ。
(以下引用)
「このアニメ無理なやつだ」って思う瞬間・・・
15コメント
続々と出てくるのが女の子だけ
ステータスをオープンする
主役級が棒読み
題名が3行以上に分けられてるやつ
皆真面目な顔して真面目なストーリーして真面目に死ぬ奴
女向け
テンプレラノベ系は無理になった…
非合理的なまでに性格が悪いキャラが出てくる
>>9
テンプレの行き過ぎた狂気系とか観る気しないよな
胸糞悪いだけの展開のなろう系とかも無理
テンプレの行き過ぎた狂気系とか観る気しないよな
胸糞悪いだけの展開のなろう系とかも無理
シャフトの演出
急に歌う
やりすぎな俺つえー
>>1
分かるわ
分かるわ
分かりやすい復讐もの
男が出てくる
イキリトが出てくる
大学生が出てくる
色々知ってそうな謎のキャラが意味深なことを言う描写が多い
やたら豊富なパロネタ
まじめなやつ
ヒロインの主人公の友達に対する態度が酷い
「主人公一筋」みたいなのを強調したいんだろうけど普通にドン引きする
「主人公一筋」みたいなのを強調したいんだろうけど普通にドン引きする
タイトルに「異世界」がついている
モンスターのデザインがきもい
主人公に共感できんのは全然良いけど
何考えてるかわからんってレベルまでいくと無理
何考えてるかわからんってレベルまでいくと無理
キャラ把握する前にオタク向けパロされるとキチい
悪役が全員男
たまに女が悪役の時はかわいそうな過去付き
たまに女が悪役の時はかわいそうな過去付き
パクリが多く既視感あるやつ
会話が一人語りが延々と続く
主人公がやれやれ系、恋愛偏重系、難聴系
ツッコミが説明口調の上に臭い
ハワードの「コナン・ザ・バーバリアン」での描写は知らないが、映画化されると必ずシュワルツェネッガーみたいな「ボデイビル体型」俳優を主演にするというのはもうやめてもいいのではないか。現実の蛮族にはボディビル体型の人間はほとんどいないと思う。ボディビルはあらゆる筋肉をプロティン使用で発達させるから、現実の生活の中からは生まれない不自然な体型だ。そして、格闘技的にはまったく役に立たない筋肉であるのも知られている。まあ、プロレスのような台本ありのショーではそうした体型のレスラーもいるが、それでもかなり脂肪をつけないとスタミナも無いし体の保護ができないはずである。
ロバート・E・ハワード原作ファンタジー小説『英雄コナン』を、Netflixが実写ドラマシリーズ化!『コナン・ザ・バーバリアン』フレドリク・マルンベリ&『Blood Drive』マーク・ウィーラーが製作総指揮、現在ショーランナー/脚本家を選定中 deadline.com/2020/09/conan- #HIHOnews
まあ、どうでもいい話だし、こんなブログを読む人もほとんどいないだろうが、漫画の「花の慶次」の原作は確かに隆慶一郎の「一夢庵風流記」だろうが、その内容のほとんどは海音寺潮五郎のある中編小説(題名は失念)のパクリである。私は両方とも読んでいるし、書かれた時代的に隆慶一郎のほうがパクったのは明白である。たぶん、その時には海音寺潮五郎は既に死去していたのではないか。隆慶一郎(元脚本家。つまりパクリ、いや、翻案は平常運転)はベストセラー作家になってすぐに死んだので、故人の悪口は書かれないのだろうが、前田慶次関連作品に関して世人が間違った知識を持たないように、ここに書き残す。
- 2020年10月01日 10:51 ID:ROCxEe3T0
- 利家が高評価ってないわ、加賀百万石は利家の時代じゃなく孫の代だぞ。
前田慶次は上杉家に召し抱えられる時に泥つき大根持ってきた話もある。そもそも漫画は隆慶一郎の「一夢庵風流記」が原作だぞ、そっちを読んだほうが良い。
NHKの大河ドラマ「利家とまつ」にも慶次は出てきたな、あの忍者頭目の主馬も出てきて笑った。
映画(あるいは小説の)「飢餓海峡」と「砂の器」そして小説の「レ・ミゼラブル」に共通するのは何かと言えば、この三つとも「運命悲劇」と言えることだろうか。つまり、個人の努力ではどうしようもなく悲劇に巻き込まれていく人間(主人公)の姿に観客や読者は「他人事」ではない戦慄を感じ、それが劇のドラマチックさを増幅するわけだ。単なる人間対人間の闘争だと、闘いはむしろ爽快感さえ抱かせるだろう。しかし、運命との闘いは最初から敗北が決まっており、だからこそその戦う主人公の姿は「破滅の美」があるわけだ。
この滅びの美は主人公が優れた存在であるほど強烈になる。
こんなことを考えたのは、最初、三船敏郎も若山富三郎も自分が作って主人公を演じたかった作品が「西遊記」の孫悟空だということについて考えるうちに、この二人とも「レ・ミゼラブル」のジャン・ヴァルジャンをやらせても似合いそうだな、と思い、では、ジャヴェール刑事は誰が適役か、と考え、三船の相手ならやはり仲代達矢か、と考え、いや、三国連太郎でもいいな、と思い、いや、三国連太郎ならむしろ一番ジャン・ヴァルジャンに適役ではないか、と考えて、そこから「飢餓海峡」の犬飼太吉を連想し、そこから運命悲劇の主人公としての「砂の器」の和賀英良を連想し、そこで「運命悲劇」というものを意識したわけである。
ついでに言えば、昔の人気テレビ番組で「逃亡者」というのがあったが、あの作品が、逃げるジャン・ヴァルジャンと、追うジャヴェール刑事の姿を下敷きにしていたという説があり、それは信頼できると思う。つまり、古典的作品を映画化なりテレビドラマ化なりする方法は、「原作そのまま」だけではなく、「プロット」だけ借りて、時代も状況も変えてもいいということだ。黒澤明の「乱」はシェークスピアの「リア王」を日本の時代劇に翻案したものだということは誰でも知っているだろう。
この滅びの美は主人公が優れた存在であるほど強烈になる。
こんなことを考えたのは、最初、三船敏郎も若山富三郎も自分が作って主人公を演じたかった作品が「西遊記」の孫悟空だということについて考えるうちに、この二人とも「レ・ミゼラブル」のジャン・ヴァルジャンをやらせても似合いそうだな、と思い、では、ジャヴェール刑事は誰が適役か、と考え、三船の相手ならやはり仲代達矢か、と考え、いや、三国連太郎でもいいな、と思い、いや、三国連太郎ならむしろ一番ジャン・ヴァルジャンに適役ではないか、と考えて、そこから「飢餓海峡」の犬飼太吉を連想し、そこから運命悲劇の主人公としての「砂の器」の和賀英良を連想し、そこで「運命悲劇」というものを意識したわけである。
ついでに言えば、昔の人気テレビ番組で「逃亡者」というのがあったが、あの作品が、逃げるジャン・ヴァルジャンと、追うジャヴェール刑事の姿を下敷きにしていたという説があり、それは信頼できると思う。つまり、古典的作品を映画化なりテレビドラマ化なりする方法は、「原作そのまま」だけではなく、「プロット」だけ借りて、時代も状況も変えてもいいということだ。黒澤明の「乱」はシェークスピアの「リア王」を日本の時代劇に翻案したものだということは誰でも知っているだろう。
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冬山想南
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