忍者ブログ
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9
「太平記」を完全にフィクション化した「妖異太平記」という話を書こうかと思っているが、鎌倉幕府末期の将軍がどういう人物だったのか、メモしておく。
一番の問題は、なぜ「将軍」という職を無視して北条氏が「執権」職で政治の実権を握ることができたのかだ。単に「北条氏」という名前がそれほど巨大化したということなのだろうか。
もちろん、北条氏が常に善政を敷いてきたことは、知っている人は知っているが、知らない人のほうが多いだろう。
ちなみに、鎌倉幕府滅亡から建武の新政、南北朝の動乱の責任は、一にかかって後醍醐天皇という大馬鹿天皇に責任がある、というのが「尊皇主義者」である私の考えだ。天皇が政治の実権を握ると、それは貴族だけの利益を求める「特権階級保護」政治にしかならないのである。そう考えると、平安時代の藤原氏の専横は、天皇は(政治の実権が無く)単なるお飾りで、まだ天皇の責任は小さい。



鎌倉将軍一覧(かまくらしょうぐんいちらん)では、鎌倉幕府征夷大将軍の一覧を示す。

概要

[編集]

一般的には、征夷大将軍の地位は鎌倉殿(鎌倉幕府の長)の地位を公的に担保するもの、と考えられている。

だが征夷大将軍はもとは源頼朝鎮守府将軍である奥州藤原氏を凌駕する官職として望んだもので、鎌倉殿の本質的属性ではなかった。実際、2代目鎌倉殿となった源頼家が征夷大将軍職に就いたのは家督相続から3年後であり、源実朝の死後に鎌倉殿となった藤原頼経も征夷大将軍職に就いたのは鎌倉下向から7年後であって(鎌倉幕府公式記録「吾妻鏡」では実朝死去後から北条政子が6年間鎌倉殿だったとしている)、その間は征夷大将軍職が空席であったが、「鎌倉殿」であることは変わらず、特に問題とされなかった。

源実朝が暗殺されたあと頼朝の子孫(源氏将軍)が絶え、京都朝廷に対抗し、有力御家人たちを抑えられるだけの高貴な血統の出身者が必要とされたことから、初めは摂関家の子弟を将軍職に就けたが(摂家将軍)、北条氏に離反した。このため、北条氏は摂家将軍を廃して皇族宮将軍・親王将軍)を京都から迎え将軍職に就けた。その結果、実権が北条氏に握られることとなり、将軍は名目的存在となったが、形の上では将軍はあくまでも幕府の長であり、全ての御家人の主君であることから、御家人たちに対して一定の求心力を持ち続けた。これを警戒した北条氏は、幼少の将軍を迎えては成人すると解任して京都に送還するということを幕末まで繰り返した。

北条氏が幕府内では将軍を遥かに凌駕する権力を握り、また朝廷に対して将軍職任命を容易に強要できるだけの実力を持ちながら自らは将軍にならなかったのは、北条氏を支持する御家人たちが北条氏の将軍職就任を推したが、朝廷が拒絶した、とする説が存在する。また、北条氏の出自が伊豆の地方豪族でしかなかったことから、仮に将軍職に就いても有力御家人たちの心服を得ることができないため、将軍職就任を断念せざるを得なかった、とする説も存在する。

一覧

[編集]
  • 氏名、院号、墓所は50音順ソート
  • 官位は位の高い順にソート
氏名肖像院号官位在職期間出身家享年墓所
1 みなもとのよりとも
源頼朝
武皇 正二位
権大納言

建久3年7月12日 (1192年)
- 建久10年1月13日 (1199年)

6年 6か月 河内源氏 53 大倉法華堂
白旗神社
2 みなもとのよりいえ
源頼家
法華院 正二位
左衛門督

建仁2年7月22日 (1202年)
- 建仁3年9月7日 (1203年)

1年 2か月 河内源氏 23 修禅寺
3 みなもとのさねとも
源実朝
大慈寺 正二位
右大臣

建仁3年9月7日 (1203年)
建保7年1月27日 (1219年)

15年 4か月 河内源氏 28 寿福寺
白旗神社
4 ふじわらのよりつね
藤原頼経
- 正二位
権大納言

嘉禄2年1月27日 (1226年)
寛元2年4月28日 (1244年)

18年 3か月 藤原氏
(九条家)
39 -
5 ふじわらのよりつぐ
藤原頼嗣
- 従三位
左近衛中将

寛元2年4月28日 (1244年)建長4年2月20日 (1252年)

7年 10か月 藤原氏
(九条家)
18 -
6 むねたかしんのう
宗尊親王
- 一品
中務卿

建長4年4月1日 (1252年)
文永3年7月20日 (1266年)

14年 3か月 皇族 33 -
7 これやすしんのう
惟康親王
- 正二位
中納言右近衛大将
二品

文永3年7月24日 (1266年)
正応2年9月14日 (1289年)

23年 2か月 皇族 63 -
8 ひさあきらしんのう
久明親王
- 一品
式部卿

正応2年10月9日 (1289年)
徳治3年8月4日 (1308年)

18年 10か月 皇族 53 -
9 もりくにしんのう
守邦親王
- 二品

延慶元年8月10日 (1308年)
元弘3年5月22日 (1333年)

24年 9か月 皇族 33 -

系図

PR
恋愛の(歴史的)発生機序について考察すること
私は英語力の無さには自信があるので、下の解釈が英語的に正解かどうかは分からないが、論理的には正解だと思う。つまり、これまでの無数の「誤訳」は、問題箇所の文脈をきちんと考えてこなかったための「誤訳」だったということだ。
「このままでいいのか、だめなのか、そいつが問題だ」
これこそ、この時のハムレットが抱えていた最大の問題であるのは明白である。つまり、「生きるか死ぬか」という問題ではなく、母親の不倫(父王の生前からの関係がどうかは不明だが、父王を殺したのが叔父なら、その可能性大)と、叔父による王(ハムレットの父)の殺害に対して立ち上がるか否かという問題だ。
そして、立ち上がることは、自分の死をもたらす可能性もあり、母の不倫を世に知らしめることにもなる。だからこそ、ハムレットは悩みに悩み、オフェーリアさえも「女という、不倫予備軍」と見てしまうのである。彼のオフェーリアへのあまりに無情な態度の意味はそこにある。だから「尼寺へ行け」なのである。それは「性欲を断て」という厳しい命令なのであり、そこに母親の不倫に苦しむ息子の怨念があるわけだ。

(以下引用)



「生きるべきか死ぬべきか」、それは誤訳だ。『ハムレット』の"例の箇所"について(透明なシェイクスピア(1))

実村 文 (theatre unit sala)
2020年1月28日 01:34

To be, or not to be, that is the question.

『ハムレット』三幕一場の「例の箇所」だ。いま、この記事を読んでくれているあなたは、どういう日本語訳で覚えているだろうか?
「生か死か」? 「世に在る、世に在らぬ」?
「生きるべきか死ぬべきか」?

あえて言おう。どれも、誤訳だ。

え、どこが誤訳なの? と、あなたは問うかもしれない。
"be"という動詞には「存在する」という意味があるから、その不定詞"to be"は「存在すること」つまり「生きること」「この世にあること」と訳せる。さらに、to不定詞はしばしば「~べき」という意味合いを含むから、「生きること」から一歩踏みこんで「生きるべきだということ」とも訳し得る。
その否定形"not to be"も、「生きること」の反対だから「死ぬこと」。「生きるべきだということ」の反対なら「死ぬべきだということ」。
ほら、どこも間違っていない。

そう、どこも間違っていない。文法的にはね。
でもそれは、この一行だけ訳したときの話なのだ。

この一行だけ見ていては、何も見えてこない。

この一行は、長い長い独白の冒頭にある。いわば「フック」だ。
よくある手だ。「え、なにそれ」と注意を引きつけておいて、そのあとにパラフレーズ(わかりやすく展開した言い換え)が続く。
こんなふうに。

To be or not to be, that is the question;
Whether ’tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune,
Or to take arms against a sea of troubles
And, by opposing, end them.  (Hamlet, Act 3 Scene 1)

このまま生きるか否か、それが問題だ。
どちらがましだ、非道な運命があびせる矢弾やだま
心のうちに耐えしのぶか、
それとも苦難の荒波にまっこうから立ち向かい、
決着をつけるか。(拙訳)

ハムレットの二択。1か2か選ばなくてはならない。
1.「非道な運命があびせる矢弾を心のうちに耐えしのぶ」= to be
2.「苦難の荒波にまっこうから立ち向かい、決着をつける」= not to be
1はようするに、このまま生きていくことだ。"to be"は「存在すること」だが、「いまのままの形で存在すること」でもある。ほら、ビートルズの"Let It Be"って「存在させてやれ」って歌じゃないでしょ、「あるがままにしておきなさい」でしょ。

2は1の否定だ。
1が「生きること」ではなく、「このまま生きていくこと」なら、
その否定は、「このまま生きていかないこと」。
ここで、慎重に考えてみてほしいのだ。「このまま生きていかないこと」=「死ぬこと」、なのか?
そうではないだろう。「いまの生き方をやめること」ではないのか。

ハムレットだけが、彼の父親を暗殺した真犯人を知っている。そいつは何重にも守られて、ぬくぬくと生きている。ハムレットは歯ぎしりしながら、それを「心のうちに耐えしのんで」、日を送っている。
いいのか、俺。いいわけないだろう、と彼は思う。
復讐しろ、俺。父上の敵を討て。「決着をつけろ」。

だが、キリスト教では、個人の復讐は大罪なのだ。復讐すればほぼ確実に自分も天罰を受けて死ななければならない。
死ぬのか、俺? 人を殺して死ぬのが俺の使命か?
俺はそれだけのために生まれてきたのか?

この二択、迷って当たり前だ。
とくに、若くて、才能と可能性にあふれた人間だったら。

いまの生き方をやめて、立ち上がって戦うと、結果としてたぶん死ぬ。だけどそれは「死ぬべき」を選んだのとはぜんぜん違う。だいたい「死ぬべき」って何だ。「生きるべき」はわかるが「死ぬべき」って何だ死ぬべきって。

「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」という小田島雄志訳を初めて読んだとき、本当に衝撃だった。これこそ正解だと思っていた。
でも、小田島先生ごめんなさい、それさえも違う。
だって、わかっているじゃないですか、ハムレットも私たちも。
このままでいいわけがないのだ。

わかっているのに、まだ、変えられないでいる。

このまま生きるか否か、それが問題だ。

この独白全体の拙訳を、以下に挙げておく。
私には、ハムレットの言葉が、刺さる。泣ける。私自身の気持ちを語ってくれてるんじゃないかと思うほどだ。
難解でも哲学的でもなんでもない。ひじょうにクリアだ――痛いほど。
ひりひりする。
あなたは、どうだろうか。

このまま生きるか否か、それが問題だ。
どちらがましだ、非道な運命があびせる矢弾やだま
心のうちに耐えしのぶか、
それとも苦難の荒波にまっこうから立ち向かい、
決着をつけるか。死ぬ、眠る、
それだけだ。眠れば終わりにできる、
心の痛みも、体にまつわる
あまたの苦しみもいっさい消滅、
望むところだ。死ぬ、眠る――
眠る、おそらくは夢を見る。そこだ、つまずくのは。
死んで眠って、どんな夢を見るのか、
この世のしがらみから逃れたあとに。
だからためらう。それが気にかかるから
苦しい人生をわざわざ長びかせる。
でなければだれが耐える、世間のそしりや嘲り、
上に立つ者の不正、おごるやからの無礼、
鼻先であしらわれる恋の苦痛、法の裁きの遅れ、
役人どもの横柄、くだらぬやつらが
まともな相手をいいように踏みにじる場面、
なにもかも終わりにすればいいではないか、
短剣の一突きで。だれが耐えるというのだ、
人生の重荷を、あぶら汗たらして。
つまりは死のあとに来るものが恐ろしいだけだ、
死は未知の国、国境を越えた旅人は
二度と戻らない、だから人間は
まだ見ぬ苦労に飛びこむ決心がつかず、
いまある面倒をずるずると引きずっていく。
こうして、考えるほど人間は臆病になる、
やろうと決心したときの、あの血の熱さも、
こうして考えるほど冷えていく、
一世いっせ一代いちだいの大仕事も
そのせいで横道にそれてしまい、
はたせずじまいだ。

こちらにもう少し多めに載せてあります。


(追記)
紙の本、神保町の共同書店PASSAGE(パサージュ)で取り扱っていただいています。
どうぞよろしく。

単なるメモである。正確な歌詞がどうだったか気になったので調べた。私は「あーれは長州征伐せよとの錦の御旗じゃないかいな」と思っていたww 正反対である。現在では長州(田布施)こそが朝敵というか、国賊という潜在意識があったようだ。

宮さん宮さん(トンヤレ節)

お馬の前に ヒラヒラするのは 何じゃいな♪

『宮さん宮さん』は、1868年の戊辰戦争(ぼしんせんそう)を新政府軍(官軍)側から描写した明治時代初期の流行歌

戊辰戦争時に実際に歌われていたとのことで、日本初の軍歌としても位置づけられる。歌詞から「トコトンヤレ節」、「トンヤレ節」とも題される。

有栖川宮記念公園内の熾仁親王像

写真:有栖川宮記念公園内の熾仁親王像(東京都港区南麻布)

「宮さん」とは、戊辰戦争時に新政府の総裁で東征大総督を兼任した有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう/1835-1895)を指している。

官軍の司令官となった有栖川宮熾仁親王は1868年2月、明治天皇から錦の御旗(にしきのみはた)と節刀を授けられ、同年4月には無血開城された江戸城へ入城している。

作詞:品川弥二郎、作曲:大村益次郎とされるが、実際の作曲者については、品川弥二郎と親しかった祇園の芸妓・中西 君尾(なかにし きみお/1844-1918)の名前を挙げる説もあるようだ。

【YouTube】 宮さん宮さん

歌詞

1.
宮さん宮さん お馬の前に
ヒラヒラするのは 何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵 征伐せよとの
錦の御旗(みはた)じや 知らないか
トコトンヤレ トンヤレナ

2.
一天万乗(いってんばんじょう)の 一天万乗の
帝王(みかど)に手向かい する奴を
トコトンヤレ トンヤレナ
ねらい外さず ねらい外さず
どんどん撃ち出す 薩長土(さっちょうど)
トコトンヤレ トンヤレナ

3.
伏見 鳥羽 淀 伏見 鳥羽 淀
橋本 葛葉(くずは)の戦いは
トコトンヤレ トンヤレナ
薩長土肥(さっちょうどひ)の 薩長土肥の
合(お)うたる手際じゃ ないかいな
トコトンヤレ トンヤレナ

4.
音に聞こえし 関東武士(さむらい)
どっちへ逃げたと 問うたれば
トコトンヤレ トンヤレナ
城も気概も 城も気概も
捨てて吾妻(あづま)へ 逃げたげな
トコトンヤレ トンヤレナ

5.
国を追うのも 人を殺すも
誰も本意じゃ ないけれど
トコトンヤレ トンヤレナ
薩長土肥の 薩長土肥の
先手(さきて)に手向かい する故に
トコトンヤレ トンヤレナ

6.
雨の降るような 雨の降るような
鉄砲の玉の 来る中に
トコトンヤレ トンヤレナ
命惜しまず 魁(さきがけ)するのも
皆お主の 為故じゃ
トコトンヤレ トンヤレナ

歌詞の意味・補足

一天万乗(いってんばんじょう)とは、天子、天皇のこと。中国由来の表現で、天子は天下のすべてを治め、兵車を一万台も動かす国土を有する、との意味合いがある。「一天万乗の君」。

薩長土(さっちょうど)は、明治維新の原動力となった薩摩藩、長州藩、土佐藩の「勤皇三藩」の総称。戊辰戦争の頃から肥前藩を加えて「薩長土肥(さっちょうどひ)」と呼ばれ、明治維新の母体となった。

葛葉(くずは)の戦いは、鳥羽・伏見の戦いにおける楠葉台場(くずはだいば)での戦いのこと。現在の楠葉台場跡史跡公園。

吾妻(あづま)とは、上方から見て東の国々のこと。

魁(さきがけ)とは、先駆け、すなわち合戦において他の者よりも先に敵の中に攻め入ること。

面倒くせえww
まあ、欧米人や英語圏の人間は基本的に相手を思いやる、忖度する、ということは無いわけだ。相手の表現が自分の気に入らない場合は、即座に相手を悪意ある存在と見るわけである。しかも、なぜか非英語圏の人間は知能的品性的に自分たちより劣等の存在だと見ている。


外資・グローバル転職で役立つ英語表現(20)–Passive Aggressiveなフレーズ

前回、英語圏のZ世代の間では、 (thumbs up)が「失礼」「受動攻撃的(passive aggressive)」と捉えられると書きました。

この”passive aggressive”というのは、直接、不満や怒り、攻撃性を相手に示すのではなく、表面的にはやわらかい物腰で、暗に怒りや抵抗を表現して相手を攻撃することを言います。

たとえば、「怒っていない」「気にしていない」と言いながら、態度は明らかに怒っている、いやなこと、やりたくないことをはっきり「いや」「やりたくない」と言わずに、わざとゆっくりやったりしてサボタージュする、といったことです。誘われて「イヤ」と言わずに、ドタキャンする、ネガティブなことを遠回しに言うといったことも含まれます。

たとえば、下記のような表現ですが、日本語でいう「マウントをとる」に重なっている部分もあります。

「それ、すてきな服。私も着れればいいんだけど、やせすぎてて無理」
「掃除、手伝ってよ」と言わずに、「〇〇さんは、いつも掃除、手伝ってくれたんだけど」

日本語で「受動的攻撃性」というと心理学の専門用語に聞こえますが、英語の”passive aggressive”は、日常会話でもよく使われます。

Don’t be passive aggressive.(受動攻撃するなよ=言いたいことがあるなら、はっきり言えよ)

It’s not easy to deal with a passive aggressive person.

(受動攻撃的な人と関わるのは楽じゃない)

Passive Aggressiveなフレーズ

昨年、アメリカの会社がネットユーザーを相手に調査した結果(英語の非ネイティブも含まれている)、一番よく使われるpassive aggressiveは下記の表現だそうです。皆さんも、避けるべき表現として覚えておいてください。

1. Please advise

これは、古めかしく、もったいぶった表現で、(アメリカの)中年層ですら使う人がいるのか、疑問です。昔、取引先のアメリカ企業で、これをよく使う男性がいたのですが、その人は、今では60代です。

これに代わる一般的な表現は、”Please let me know”です。また、本文中に質問であることがわかっているのですから、何もなくてもいいのです。質問した後に、日本語で「よろしくお願いします」と書くようなもので、(余白を埋めるだけの)あまり意味のない表現です。

2. Noted

これを頻繁に使う(ほぼメールで毎回)在米の日本人女性がいます。その人が以前、勤めていたアメリカ企業では、よく使われていたのかもしれませんが、私はアメリカで30年働いて、これを使うアメリカ人に出会ったことがありません。

これは相手からのメッセージに対し「了解」という意味です。ちょっと上から目線なので、上司から来たメールに部下が”Noted”と一言返信するというのは考えられません。同僚間では「別に返答するほどの内容でもないし、はい、はい、わかりました」という感じで受け取る人もいるかもしれません。

3. Friendly Reminder

私も、ビジネス英文メールなどの著書で、支払を催促する場合に、第一弾として”Friendly Reminder”の送信を勧めています。期日通りに支払をしていないのなら、いかなる”reminder”を送られても仕方ないと思います。

一方、社内で締切のリマインダーなんかで送ると嫌がられる可能性はあります。”Friendly”と言いながら(passive)、要求している(aggressive)点がpassive aggressiveだと思われるのでしょうが、単に”reminder”ならいいのか…

4. Will do

これはアメリカ人がよく使うフレーズで、「そうします」「その通りします」という意味です。私は、passive aggressiveだとは思わないのですが、シチュエーションによっては、そうとらえられる可能性はなきにしもあらず。


5. Thanks in advance

「前もってありがとう」という意味で、たとえば、質問をしたり、何かを依頼したときに、前もって感謝の念を伝えておく、ということですが、答えてもらう、やってもらうのを前提とすることで、相手がプレッシャーに感じることもあるということでしょう。

6. Per our last conversation (この間、話し合ったとおり)
7. As per my last email (前回の私のメールどおり)
8. As promised (約束したとおり)
9. As discussed (話し合ったとおり)

この4つが、上記リストの中で、一番passive aggressiveだと思います。私も、たまに使うのですが、暗に「ちゃんと言ったよね?」「前回のメール、読んでないの?」「聞いてないとは言わせない」と言っているようなものです。そこまでaggressiveではなくても、「ひょっとして、言ったのに、読んだのに、忘れた?」くらいのニュアンスは含まれているかも。できるだけ使うのは避けた方がいいでしょう。

<<< 前のページ HOME 次のページ >>>
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.