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私が不思議に思うのは「陰部を箸で突いて死ぬ」という死に方で、これは「古事記」ではスサノオノミコトの暴力で怯えた天照大神の侍女たちが機織り機の何かで陰部を突いて死ぬ、という話があったと思うが、それを想起させるが、しかし死に方としては異常である。もともと空洞である陰部を棒状のもので突くことで死ぬというのはあまりに不自然ではないか。つまり、これは何かの隠喩になっていると思う。たとえばレイプした後殺害した、など。あるいは女性性そのものへの侮蔑の意識など。フェミニズムの立場からの批判があってもよさそうである。

(以下引用)

箸墓古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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箸墓古墳
Hashihaka-kofun zenkei-2.jpg
墳丘全景(右に前方部、左に後円部)
別名 箸中山古墳
所属 纒向古墳群
所在地 奈良県桜井市箸中
位置 北緯34度32分21.34秒 東経135度50分28.42秒座標北緯34度32分21.34秒 東経135度50分28.42秒
形状 前方後円墳
規模 墳丘長278m
高さ30m
出土品 特殊器台形埴輪・壷形埴輪
築造時期 3世紀後半
被葬者 宮内庁治定)倭迹迹日百襲姫命
笠井新也ほか)卑弥呼
陵墓 宮内庁治定「大市墓」
史跡 国の史跡「箸墓古墳周濠」
特記事項 全国第11位/奈良県第3位の規模[1]
全国最古級の前方後円墳
日本書紀』崇神天皇紀に記述
地図
箸墓古墳の位置(奈良県内)
箸墓古墳
箸墓古墳
奈良県内の位置
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倭迹迹日百襲姫命大市墓 拝所

箸墓古墳(はしはかこふん)、箸中山古墳(はしなかやまこふん)は、奈良県桜井市箸中にある古墳。形状は前方後円墳。実際の被葬者は不明だが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定(じじょう)されている。また、笠井新也の研究以来、邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかとする学説がある[2][3]。周濠部分は国の史跡に指定されているほか[4]、一部が「箸中大池」としてため池百選の1つにも選定されている[5]。百襲姫の陰部に箸が突き刺さり、絶命したことが名前の由来である[6]

概要[編集]

奈良盆地東南部、三輪山北西山麓の扇状地帯に広がる大和・柳本古墳群に含まれる纒向古墳群(箸中古墳群)の盟主的古墳であり、纒向遺跡箸中地区に位置する。出現期古墳の中でも最古級と考えられている前方後円墳である。

築造年代は、墳丘周辺の周壕から出土した土器土師器)の考古学的年代決定論と、土器に付着した炭化物による炭素14年代測定法により、邪馬台国卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀中頃から後半とする説がある。一方で、近年炭素14年代測定法では、実年代より50-100年程度古く推定されることが明らかとなっていることや、古墳の規模および様式が魏志倭人伝の記述と異なっていることなどを理由に、4世紀中期以降とする説もある。 現在は宮内庁により陵墓として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。『古事記』では、夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)命である。

考古学の世界では、大正期から邪馬台国畿内説を唱えていた笠井新也により「女王卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」説が提唱され[7][8]、後に「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説へと進展[2][3]、今日の議論にも繋がる先駆的研究となった[9]

名の由来[編集]

名前の由来は、百襲姫の陰部に箸が突き刺さり絶命したという説話に基づく。『日本書紀崇神天皇10年9月の条には、つぎのような説話が載せられている。一般に「三輪山伝説」と呼ばれている。

倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめ大物主神おほものぬしのかみの妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみみたす。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀みすがたたてまつらむと欲ふ」といふ。大神こたへてのたまはく、「言理ことわり灼然いやちこなり、吾明旦に汝が櫛笥くしげに入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥くしげを見れば、まことに美麗な小蛇こおろちがいた。その長さ太さは衣紐きぬひもぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾にはじみせつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸にほときてかむさりましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)

また、築造について『日本書紀』には、

「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも」

と記されている。

なお、が日本に伝来した時期(7世紀か)と神話における説話との間に大きなずれがあるところから、古墳を作成した集団である土師氏の墓、つまり土師墓から箸墓になったという土橋寛の説もある。

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