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小山慶太氏の「漱石とあたたかな科学」という本の中に、一般人がほとんど意識していない日本語最大の陥穽ともいうべき「修飾語の問題」の好例(よくある係り受けの問題ではなく、修飾語の修飾範囲の問題である。)があるので、書いておく。と言っても、小山氏がその問題を論じているのではなく、小山氏自身がその穴に陥っているのではないか、という話である。

漱石の「虚名嫌い」の事例となるエピソードなのだが、漱石自身の東京帝大辞任・朝日新聞入社の際の手紙の中にある

「新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。(中略)新聞が商売である如く大学も商売である。新聞が下卑た商売であれば、大学も下卑た商売である。」


という一節に、小山氏は

「実をいうと、そこに展開されている論理には、注意して読むと、少しおかしなところがある。『新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である』というのはわかる。しかし、だからといって、『新聞が下卑た商売であれば、大学も下卑た商売』とは必ずしもならない。どちらも商売であることは共通しているとしても、その共通性がそのまま、下卑ているか否かまで同一に括れるものではあるまい。ここには、作品の中にも時折見られる、漱石特有のレトリックがある。」

と書いている。
私の考えでは、これは「レトリック」ではない。しかも、ここで小山氏は「レトリック」を「詭弁」の意味で使っているように思う。小山氏は理学博士だから、物事を論理的に捉える性質が当然あると思われるが、これは詭弁でも修辞(本来の「レトリック」の意味)でもなく、単なる言葉の本然的限界である表現範囲(の曖昧さ)の問題だと私は思う。つまり、「漱石特有」ではまったくない。(この小山氏の一文で漱石が「論理的な誤魔化し」をする作家だと読者が印象づけられることを私は懸念している。漱石の「レトリック」は「詩的効果」のために使われるのであり、論理的な誤魔化しのために使われることは、まず無い、と私は思っている。漱石は日本の作家の中でも珍しいほど「理系的」な頭脳を持っていたというのが私の考えだ。)

要するに、「下卑た」は「商売」を修飾している(係っている)のだから、問題は漱石が

「商売」を下卑た商売と下卑ていない商売に区別していたのか、
それとも商売はすべて下卑たもの、としていたか

なのであり、私は後者だったと思っている。漱石が金銭問題に苦しみ、金銭そのものを憎悪すらしていたことは、漱石を少し読んだことのある人なら誰でも知っているだろう。ならば、金銭を得ることを目的とした営為である「商売」自体を漱石が「下卑た営為」であると考えていたのは当然の話である。(ここでは、商売に関するその思想の妥当性は問う必要は無いだろう。「当然の話」とは、「漱石の一連の著作を概観すれば、漱石が『そう考えていた』と見做すのは当然だ」ということであり、「漱石の思想が正しい(当然だ)」としているわけではない。)
しかし、「下卑た商売」という表現は、上に書いた二つの解釈(被修飾語を限定し、その一部だけを指示するか、それとも被修飾語全体を覆うか)を引き起こすのであり、それは言葉というものが常にそうした曖昧さを持っている、ということだ。小山氏は言葉を常に一義的に表現できるものと考え、そうでないものを「レトリック」だと考えてしまう傾向があるのではないか。
なお、邪推的に言えば、小山氏自身が「大学屋」であるため、それを「下卑た商売」と言われたことで氏は冷静な判断力を失って、その感情の昂ぶりが、漱石の言葉を「論理的におかしい。レトリックだ」と非難させたのではないかと思う。
小山氏のこの一文が、漱石の作を読む人々に、「漱石は非論理的だったのだな」「漱石は詭弁家だったのだな」という印象を植え付けかねないので、地下の漱石に代わって弁護を買って出た次第だ。何しろ、死人に口なしだから、後世の人は故人やその著作についていくらでも好き勝手が言える。(小山氏のこの著作自体は好著であり、漱石に対する敬愛の念も持っているとは思うが、「大学人」としてのプライドや虚栄心も当然有しているだろう。)
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