私は推理小説というのはあまり好きではないのだが、読む以上は、それが論理的なものだろうと期待して読む。論理的でない推理小説というのは、羽根の無い鳥のような存在だと思うからだ。まあ、そういう鳥もいないこともないだろうが、それを鳥と呼んでいいものかどうか。
で、先ほどまで読んでいた小説(まあ、ジュブナイル的な小説で、真面目に推理小説扱いしていいものかどうかとは思うが)の中に、こういう描写があった。
西洋の城の階段を、明かりを手にして主人公と語り手が降りていく場面だ。カギカッコは引用のために私がつけたが、引用部分は地の文で、語り手の少女(私)の視点による描写だ。
「壁では、私たちのデフォルメされた影が、奇妙なダンスを踊っている。」
何がおかしいのか、と思う人もいるだろうが、明かりを手にした場合、影は真後ろにできるのである。その影を見るためには、明かりは前方に維持したまま、首だけ「エクソシスト」の例の少女のように180度真後ろに回転させなければならないはずだ。
つまり、作者は、映画的なカメラワークで、人物たちが階段を下りていく様子を「横から」撮影した映像を思い描きながら、それを登場人物の一人称視点で描いてしまうというミスを犯しているのである。
この作者の作品にはこうした描写のおかしな部分がたくさんあるのだが、子供にはけっこう人気があるようで、私の娘なども子供時代から愛好している作者なので、家にあったその作品を読んでみたわけだ。なお、本筋のトリックも、あるいは問題解決に至るまでの経緯も突っ込みどころ満載だが、軽い内容なので、かえって最後まで読んでしまった。まあ、脇筋に漫画的ネタを無理やり文章で描いたような表現の多い文章で、そこがある層にはウケるのかもしれない。(勘違いしてほしくないが、私は漫画を軽蔑しているどころか、漫画の一部は最上級の文学に比肩すると思っている。)
で、先ほどまで読んでいた小説(まあ、ジュブナイル的な小説で、真面目に推理小説扱いしていいものかどうかとは思うが)の中に、こういう描写があった。
西洋の城の階段を、明かりを手にして主人公と語り手が降りていく場面だ。カギカッコは引用のために私がつけたが、引用部分は地の文で、語り手の少女(私)の視点による描写だ。
「壁では、私たちのデフォルメされた影が、奇妙なダンスを踊っている。」
何がおかしいのか、と思う人もいるだろうが、明かりを手にした場合、影は真後ろにできるのである。その影を見るためには、明かりは前方に維持したまま、首だけ「エクソシスト」の例の少女のように180度真後ろに回転させなければならないはずだ。
つまり、作者は、映画的なカメラワークで、人物たちが階段を下りていく様子を「横から」撮影した映像を思い描きながら、それを登場人物の一人称視点で描いてしまうというミスを犯しているのである。
この作者の作品にはこうした描写のおかしな部分がたくさんあるのだが、子供にはけっこう人気があるようで、私の娘なども子供時代から愛好している作者なので、家にあったその作品を読んでみたわけだ。なお、本筋のトリックも、あるいは問題解決に至るまでの経緯も突っ込みどころ満載だが、軽い内容なので、かえって最後まで読んでしまった。まあ、脇筋に漫画的ネタを無理やり文章で描いたような表現の多い文章で、そこがある層にはウケるのかもしれない。(勘違いしてほしくないが、私は漫画を軽蔑しているどころか、漫画の一部は最上級の文学に比肩すると思っている。)
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