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下記記事にあるように、ジャカルタの旧名がバタヴィアだが、歴史書などにバタヴィアと出てくると、戸惑ってしまう。17世紀ごろの航海の要地で、喜望峰からバタヴィアまで船で6週間、バタヴィアから長崎まで8週間ほどかかったらしい。(これはある航海の場合の数字であり、平均的にそうだったわけではないが、参考にはなる。)







バタヴィア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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1897年のバタヴィアの地図
バタヴィア開城前のジャカルタ

バタヴィア (Batavia) はインドネシアの首都ジャカルタオランダ植民地時代の名称。インドネシア語では通常バタフィアと発音する。

解説[編集]

ジャワ島西部の北岸に位置し、古くはジャヤカルタジャカトラなどと呼ばれていたが、1619年オランダ東インド会社東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンバンテン王国からこの地を占領、堅固な要塞バタヴィア城を築いてオランダ東インド会社のアジアにおける本拠地とした。

バタヴィアの名は、古代ローマ時代に今のオランダにあたる地に住んでいたゲルマン人の一部族、バターウィー族(Batavii)に由来し、オランダ地方の古称でもある。この名称はオランダ本国でもフランス支配下のバタヴィア共和国1793年 - 1806年)として使われたことがある[1]

以後、バタヴィアはオランダ植民地時代を通じてこの名称で呼ばれた。朱印船時代の日本人は現地式に「ジャガタラ(咬吧)」と呼んでいる。

17世紀末頃のバタウィアは、優に80年の歴史を刻み落ち着いた町になっていた。城壁を巡らした地区のなかにはいくつもの砲塔を備えた政庁があり、チャイナタウンやたくさんの倉庫も築かれ、街路には小さなテラスハウスが無数に立ち並び、運河や酒場もあった。チャイナタウンがあるのは、当時オランダが日本と中国の間で中継貿易を営み、日本に中国の品物を含めて輸送する役割を担っていたからである。また、気候としては赤道直下ということもあって一年中高温多湿の町でもあり、ここへ移住してくるオランダ人はさほど満足していなかった。マラリアコレラデング熱などの熱帯病に倒れることが多かった。[2]

旧バタヴィアは、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンによって創られた。18世紀には疫病が蔓延するヨーロッパ系住民の「墓場」として、東洋中に悪名を届かせていた[3]

1808年に総督に任命されたナポレオン麾下の元帥ヘルマン・ウィレム・ダーンデルスは、バタヴィアをイギリス軍のあらゆる攻撃から守り抜くために、海岸沿いにあった城・要塞・倉庫などを放棄し、「ベネデンスタッド(下の方の町)」と呼ばれ見下されていた古くからのバタヴィアを事実上閉鎖した。そして、海からの攻撃に対して安全と考えられる内陸で、海岸より8キロメートルほど入った場所に新しい首都を築いた。新都は「ウェルトフレーデン(十分満足した)」と名付けられた[3]

1942年日本軍が占領して当地に軍政を敷いた際にジャカルタと都市名を変更し、第二次世界大戦後にインドネシアがオランダから独立した後も、スカルノ政権が日本統治時代の『ジャカルタ』の名称を引き続き使用することを決定し、現在に至っている。



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