瀬戸の唐橋の位置 | |
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歴史と伝承[編集]
東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。1889年(明治22年)まで、瀬田川に架かる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝であり、京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」といわれた[2][5]。唐橋を舞台として繰り広げられた壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、橋は昔から様ざまな戦乱に巡り合ってきた[5]。そのため、古代より何度も焼き落されたとされるが、その度に当時の浅瀬の位置に橋が架けられた[12]。
古代[編集]
古代の橋が架けられた年代は不詳であるが、神功皇后の時代にはすでにあったといわれる[5]。201年(神功皇后摂政元年)、香坂皇子と忍熊皇子が反乱。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田の渡りで自害したという(『日本書紀』巻第9 気長足姫尊 神功皇后)。
本格的には近江大津宮遷都のときに架橋されたとも考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王宮秀郷社・雲住寺辺りを東端としていた[要出典]。川底の発掘調査により、1988年(昭和63年)、現在の橋より約80m南(下流)で橋脚が発見された。その橋の幅は8-9m、築造年代は7世紀と推定されている[6]。
672年(天武天皇元年)、壬申の乱では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ(『日本書紀』巻第28 天渟中原瀛真人天皇 天武天皇 上)。これが瀬田の唐橋の文献上の初見である。ちなみに、大津市大江の御霊神社の主祭神は大友皇子である。
藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)では、764年(天平宝字8年)、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回りし、これを焼く。押勝は高島郡に走り、そして滅びた(『続日本紀』巻第25 淳仁天皇)。