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「剣と鏡」の思想的モチーフは、蘇我氏と中臣氏と天皇家を巡る三つ巴の権力闘争であると同時に、蘇我氏の手法を天皇家と中臣氏が学んで自家中のものにしていくプロセスである。

蘇我氏は朝鮮半島からの渡来人を利用し使役する中で、「経営手法」を熟達させ、朝廷内での立身につなげた。そのために旧来の権力者である「(皇室の傍流としての)神の血筋」を称していた物部氏や中臣氏はどんどん圧迫されていった。
仏教が伝来した時、蘇我氏がそれに飛びついたのは、「日本古来の神々」をアイデンティティの根拠とする物部氏や中臣氏への対抗策として当然であったが、それは神の直流である天皇家をも敵とする危険性も持っていた。しかし、天皇家が神と無関係であることは、天皇家自体が一番よく知っていたことなので、欽明天皇は「蕃神」である仏についての教えが現世利益が本当にあるのなら、受け入れてもいい、と案外柔軟な態度だった。(これはローマ皇帝のキリスト教受容と同じ。宗教の中心にいる者だけが、その宗教がインチキであることを良く知っている。これを「密教」といい、愚かな世間に示す宗教の姿を「顕教」と言う。)だから臣下たちに論争をさせたのである。「まあ、ためしに蘇我氏だけ仏を拝んでみたら」という天皇の言葉で一応の決着はつく。
その後、疫病の流行は仏教を受け入れたためだ、という噂なども流されるが、官僚能力の高い蘇我氏の地位は揺るがず、それに伴って、「仏教にはご利益があるかもしれない」と、仏教を信じる人も朝廷に増えていった。
そして、物部氏を蘇我氏が打ち滅ぼしたことで「崇仏廃仏論争」は蘇我氏の勝ちとなった。
その仏教を本気で信じたのが聖徳太子で、太子は仏教の本質を理解していたから「世間虚仮唯仏是真」という態度で、権力闘争を好まず、蘇我氏の傀儡として一生を終えた。
聖徳太子が亡くなり、その子供である山背大兄王は王位への欲望が強く、蘇我氏に逆らうことがあったため、蘇我氏の入鹿が短慮から彼を打ち滅ぼす。だが、これが蘇我氏滅亡のきっかけとなる、というのは蝦夷自身がよく分かっていた。世間の人望の高い聖徳太子の一族を滅亡させたことで、世間の批判が蘇我氏に集まることを熟知していたからだ。
こうしたすべてを長い間じっと観察していたのが中大兄皇子と中臣鎌足であった。(以上、第一部と第二部)


*天智天皇は死亡時に46歳、中臣鎌足はその2年前に死去。死亡時56歳。つまり、鎌足は天智より12歳年長。



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