忍者ブログ
[601]  [600]  [599]  [598]  [597]  [596]  [595]  [594]  [593]  [591]  [590
例によって、構想も何も無しに、思いつくまま書きながら考える。
思索のテーマは「ポエジー」とは何か、である。

或る情緒が詩的であると感じるのはなぜか、どういう物事を我々は詩的と感じるかという考察だ。

これには、詩そのものよりも、「詩情を感じさせる映画」「詩情のまったく無い映画」などから考察するのがいいかと思う。
たとえば、「第三の男」などは、詩情性が高いからこそ多くの映画ファンに愛され、名画とされたと思う。単にストーリーだけなら凡百のスリラー映画やサスペンス映画と異なることは無いだろう。一方、最近のハリウッド映画には詩情を感じさせる映画は極端に少ない。これはファンがそれを求めていないのではなく、作り手側が詩情というものを認知する能力が無いのだと思う。70年代くらいまでのハリウッド映画には詩情が存在したのである。これは映画音楽との関連もある。映画音楽がロック系統になると、詩情も糞もなくなり、アクション一辺倒になる。例外は「ジーザス・クライスト・スーパースター」くらいではないか。この場合は題材が題材だから、ロックとの落差で逆に部分的に詩情が際立ったとも思える。

では、詩情とは何か。仮説を立ててみる。
「晴れた天気」と「曇り空」と「雨降り」と、どれが一番詩情があるだろうか。これは異論もあるだろうが、私は「雨降り」「曇り空」「晴れ」の順だと思っている。木々の葉から雨の滴がしたたり落ちるさまは実に詩情がある。たとえば新海誠の「言の葉の庭」はそれだけを映画にしたようなアニメである。一方、雲一つ無い快晴の空は気持ちいいが、詩情はさほど無い。強いて詩情らしいのを言えば、深い青い空の中に一種の深淵を感じるくらいだろうか。
「第三の男」のラストシーンで、道の傍で女を待っている男に、女は目もくれず歩み去っていく。男は、何かを噛みしめるようにゆっくりと煙草を吸う。そして男の姿が小さくなって風景の中に飲み込まれ、映画が終わる。まさに、人生の悲哀を凝縮したシーンである。愛する女に愛されない悲しみ。いろいろと献身したつもりの女にむしろ憎悪され無視され去られる悲しみ。愛する価値の無い男(ハリー・ライム)を愛する女という不条理。言葉にはならなくても、観客はそれらの感情を感じ取り、そこに詩情を感じたのである。
さて、詩情とは何か。「悲哀感」に似ている。しかし、悲哀感のようなマイナスの気分とも少し違う。人生の悲哀、あるいは閉塞された状態に対し、それをむしろ肯定し美化的に眺めるもの、という仮説をここで提出しておく。
例えば雨によって自分は今いる場所からほとんど動けない。外の雨を眺めるしかない。しかし、眺めてみると、木々の葉から滴り落ちる雨の粒は宝石のように美しい。その美しさ(の認知)は、自分が置かれた閉塞的状況がもたらしたものでもある。
恋愛が大成功した状況には詩情は無い。失恋にこそ詩情がある。
いわば、芭蕉の「わび・さび」のようなもので、この世界のマイナスとされる事柄の中に美を見出す高度な心的姿勢が詩情の正体ではないか、というのが私の仮説である。
まあ、これはあまりに単純化しすぎていそうだから、特に強弁はしないが、詩情についての一考察である。

















PR
この記事にコメントする
color
name
subject
mail
url
comment
pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.