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このあたりはむしろ昔の直木賞選考委員のほうがマシだったような気がする。
私も文章の拙劣な作家は苦手で、たとえば時代劇小説にカタカナ外来語が出るのも嫌いである。ただし、意図的なギャグとして用いるのと、文章への神経が粗雑なために時代劇に外来語を使うのは区別されるべきだろうと思うし、前者の場合でもユーモア感覚が低レベルなためにうんざりする場合がある。高橋三千綱の時代劇小説などがそんな感じだ。
基本的には、作家としての「誠実さ」や「真剣さ」の問題であり、大衆小説だからいい加減な書き方でいい、という作家の作品は一時は受けても長続きはしない。久生十蘭など、無数のジャンルの作品を書いたが、真剣に書いてない作品はほとんど無いと思う。だから長い作品生命がある。
なお、「あらかじめ決められた結末に向かう」作品、つまり登場人物が単に作家の操る人形でしかない作品は私も嫌いで、ミステリなどもほとんどは嫌いである。私が「シャーロックホームズ」が好きなのは、あれはミステリではなく冒険小説で、キャラが絶妙に優れているからだ。
また、私は松本清張は昭和を代表する文豪だと思っているが、彼の推理小説がやはり「あらかじめ決められた結末に向かう」作品でしかなく、数作しか読んでいないがまったく面白いとは思わない。しかし、彼の時代劇小説(特に長編)は、最高のエンタテイメントである。
つまり、小説で大事なのは読者を先へ先へを引っ張る「小説エンジン」だと私は思っているが、謎というのはその小説エンジンのひとつではあるがキャラクターが生きているかどうかほどの重要性は無い、と思う。たとえばジェイン・オースティンの「高慢と偏見」は、主人公の結婚問題がどうなるかという謎しか謎は無いが、それでも読者を先へ先へと引っ張る力は古今無双なのである。それは作中の人物たちが現実の人物よりはるかに面白く、現実の人物よりもはるかに生きているからだ。

  1. それじゃオフビートな書き方や時代小説に外来語使うような文章は全部ダメじゃないかと。そういえば、井上ひさしの「直木賞のストライクゾーン」に関するエッセイで、あらかじめ決められた結末に向かうミステリは圏外と書いてあってゾッとしました。それらと無縁なライトノベルが爆発したのも当然ですよ

  2. 昔の時代小説には平気でカタカナ外来語が使われていた話、存外みなさんに喜んでもらえたんだけど、実はこういう書き方は今は否定されてんですね。前にある人から「直木賞を狙うなら(僕には何の関係もないが)まず文章です。原稿用紙何枚かの間に一つでも同じ形容詞があったらダメとされます」と聞いて






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