自領が野盗の襲撃を受けるとか、売られていく女子供を見かけたとか、行きずりの少女が火事に巻き込まれるとか、戦乱の被害といっても所詮他人事のエピソードにしかなっていない。もっと親密な人や自分自身が傷ついて、戦の痛みと悲しみが骨身にしみるようなエピソードが必要だったと思う。
実は、道具や機械も、「男の子」の心(大人の男の心の奥底にもある)をワクワクさせるものだと思う。
それはなぜかと言うと、道具も機械も、「自分の力を拡大する物」だからである。素手ではできないことが道具や機械を使うと可能になる。その「力が拡大した喜び」が、道具や機械を好む男の子には特に強い気がする。自動車やオートバイに乗ることで、ジャガーやチーターに劣らない速さで疾走できる。重機を使うことでとてつもない重さの物を自由に扱える。
些細な、あるいはごく身近な物で言えば、線引きを使うことで「自然界には存在しない」真っ直ぐな線を書くことができ、コンパスを使うことで、素手では描けない精密な円が描ける。それ以前に、ペンを使えば、一定の幅の線が描ける。これは筆の時代には無かったものだ。
で、道具や機械のいいところは、それがあくまで「自分の力の拡大」であることだ。
これは組織などを利用し、他人の力を利用する形の力の拡大、つまり「権力」とはまったく別の、ある意味では「身体性」から離れていない種類の力の拡大であり、だからこそ「気持ちがいい」のだろう。
私は、若いころ、異常に健康で、道を歩いているだけで「歩く喜び」「地面を踏み、地面から返ってくる反発力の感覚の喜び」を感じたものである。身体性を伴う喜びとはそういうものだ。これは、権力で人を動かしてその果実を得るだけの人間とは異なる、「自然に根差した」喜びだと思う。
「ヤクザと売春婦はどんな大根役者でも上手くできるという。現実のヤクザや売春婦が、自分自身を演じている役者そのものだからだろう。」
という文があり、これは卓見だ、と感心した。もちろん、後半(赤字部分)にである。
我々は日常生活の中でいつも演技をしている、というのは私の持論(まあ、べつにオリジナルな考えだと主張はしない)だが、特に「ヤクザと売春婦」がそうである、というのは彼女のほかには言った人はいないのではないか。たとえば、教師など、演じているように見えながら、「個性を出しているだけ」という人も多いだろう。あるいは、その演技が無意識的であったりする。それは既に「役者」ではない。
しかし、ヤクザは「演じないと務まらない」商売の最たるものではないか。つまり、「凄む、脅す」という演技の達人であるわけだ。実際の「暴力の能力」以上に、この演技が優れている人間がヤクザ界のエリートだと思う。
売春婦もまた役者である、というのも、何となく理解できる。つまり、「自分自身(の肉体)を相手に買わせる」には、演技が必要であるわけで、それはオーディションを受ける新人女優と変わりはない。
そもそも、大臣たちも別に「国民」のことなど考えてはいない。「税収の貢ぎ手」としての国民を「生かさず殺さず」に維持しないと特権階級である自分たちの存続も危うくなるという最低限の常識を持っていただけにすぎない。ところが、二代目三代目の国王にはその常識も無く、自分は生まれつき栄耀栄華を与えられており、すべての人間は自分に奉仕して当然だ、と思っているわけだ。政治などは「誰かが適当にやればいい」としか思わない。だから、悪大臣に政治の実権を握られたりする。悪大臣も、賢い人間だと、国王になるより、馬鹿な国王を飾り物にしているほうが得であると分かるから、大臣としての権力をふるっていわゆる「苛斂誅求」の残酷な政治を行い、国民の怨嗟を買う。やがて山賊のような連中が蜂起して政府を倒し、新王朝を打ち立てる。そして、以下、同じループである。
なお、「王座のゲーム」とは「ゲームオブスローンズ」の訳だが、あのテレビ映画(と言うべきだろう。)にも「国民」はまったくと言っていいほど登場しない。それが当然なのである。昔の政治に「国民(人民)などいない」のが当たり前で、政治とは権力をめぐる武力と陰謀の闘争しか意味しない。庶民とは「弱者」であり、軽蔑と収奪の対象でしかないのである。言い換えれば、上級国民の目には下級国民すべてが「奴隷」だったのである。(今でも内心ではそうかもしれないwww)
宦官を写した写真はいくつか残されています。例えば、次の写真は皇帝溥儀の寝所であり生活空間である養心殿の管理を任された太監たちです。
左から楊子真(養心殿禦前太監)、王鳳池(養心殿東夾道二帶班)、劉興橋(養心殿禦前太監)。王鳳池は宣統帝溥儀の同性愛のパートナーとして知られています。
宦官は、清朝が倒れた後も廃帝溥儀の暮らす紫禁城で彼に仕え、偽満州国建国とともに新京(長春)にも移り、中華人民共和国の時代になっても生き続けました。宦官の写真の中で、恐らく世界で一番有名なのは、「決定的瞬間」で知られるアンリ・カルティエ=ブレッソンによって、1948年、中華人民共和国建国前夜に北京で撮られた次の写真でしょう。
アンリ・カルティエ=ブレッソン「中国宮廷の宦官、北京、1948年」
確か大阪芸大だったかがブレッソンのコレクションを持っていて、まとめて展覧会をしたときこの写真を見ました。題名がないと「おばあさん」と間違えたでしょう。、
「麒麟がくる」という題名も、明智光秀を主人公にするというのも「失敗の匂い」が最初からするので見ていないが、見なくて正解だったか。そもそも、「麒麟がくる」というのは麒麟児(秀才)を迎える側の言葉や心理であり、期待感である。では、それは誰の言葉や心理なのか。普通に考えれば、織田信長だろう。では、織田信長は明智光秀をそれほどの期待感で麾下に迎えたのか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、それが失望に終わったことは確実である。ならば、この「麒麟がくる」とは、「実現されなかった空しい期待」を意味するわけで、視聴者がそれを無意識に感じ取るだろうという私の推定は無理だろうか。そもそも、明智光秀を「麒麟」(だった)と思う人間がどれだけいるか。
いや、「麒麟」とは、「麒麟児」ではなく、国家の瑞祥だ、とするなら、織田信長は明智光秀を迎えたことで天下布武への足掛かりをつかんだ、という話になるが、そんな史実はまったくないだろう。
まあ、単にフィクションとしてでも、明智光秀のような「裏切り者」を主人公にするというのは、大冒険である。庶民は、そういう「暗い人間」を嫌うからだ。老年期の好色性や残忍さが知られるようになったとはいえ、秀吉とは明るさが段違いだ。
私は大久保利通を、近代日本を作った一番の功績者だと思っているが、彼を主人公にした大河ドラマを作るのは無理だろう。それも、「明るさ暗さ」の問題だ。
その他
「戦のない世の中」のために戦う主人公というのは大河ドラマでは月並みなんだけど、戦国武将である以上、結局戦乱のなかに埋没する人生を歩むことになる。その根本的な矛盾と葛藤にきちんと向き合って描けるのか? 第1話を見る限り正直期待薄し…
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山本貴嗣さんがリツイート
例えば、望月医師との会話。なぜか誇りがどうのと語っていたけど、そこはベタでも「武士は人殺しだから看てやらん。刀や鉄砲を提げたまま人を助けてくれと頼むのか?」みたいに言わせればテーマとも直結するし、以前は女子供を見棄てた光秀が今度は火に飛び込んで子供を助ける理由にもなろうに。
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山本貴嗣さんがリツイート
「麒麟がくる」2日たってもモヤモヤしてるので吐き出すことにする。 人殺しの道具である鉄砲を手に入れてはしゃいでるような奴が戦乱のない世を本気で願ってるとは到底思えないんだよ。 女子供が戦争捕虜として売られていくのを見て見ぬ振りするような奴が。 主人公のキャラが成立していない。
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小田嶋師のような感性は正常であるはずだが、DQN嫌悪と同様にむしろ異端視されるのがこの世界である。インテリでも精神的にはDQNという人間は案外多い。さらに、「女性のマッチョイズム」もあるし、女性の精神的DQNは膨大にいるだろう。
最近は「正義は相対的なものだ」という意見から出発して「正義など無意味だ」という考えになり、それが「力こそすべてだ」というプリミティブなマッチョイズムになっている傾向があると思う。
余談だが、80年代当時は、プロレスファンを公言することで「オレはそこいらへんの硬直したインテリとは違うんだぜ」てなことをアピールする実にイヤミったらしい文化人がいたものなのが、00年代以降になると、アイドルをネタによく似た自己演出を試みる人間が登場しはじめた気がしている。
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「公開当時はそれはそれで立派な映画だったのだろうな」とは思うものの、私が実際に見たのは1990年代以降だったので、ひとつひとつのエピソードの底に流れる精神性や、場面の演出手法の浅薄さにあきれた。「はいはい強い強いw」という感じかな。
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ついでに言えばだけど、「実録モノ」と呼ばれた「仁義なき戦い」以前の、いわゆる「任侠モノ」の一連のヤクザ映画(「昭和残侠伝」とか「唐獅子牡丹」とか)については、ほとんど共感を感じることができない。というよりも、ちゃんちゃらおかしくて見ていられない。
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だからたとえば「ゴッドファーザー」のような隅から隅まで完璧に作劇されている素晴らしい作品を見ても、いくつか「なにをイキがってるんだか」と、口を曲げて笑いたくなる場面を発見してしまう。因果なことだと思っている。
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たぶん私は、プリミティブで率直なナマのマッチョイズムを嫌っている以上に、意図的かつ演劇的に再構成されたエンターテインメントとしてのマッチョイズムに敵意を抱いているのだと思う。自分ながらやっかいな感情だとは思うものの、きらいなものはきらいで、これはもうどうしようもないのだよ。
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もう十分に時間が経過して、ほとぼりがさめたと思うので、あらためて蒸し返しておきたいのだが、私がプロレスに対して冷淡だった理由の大きな部分は、「一周回ってプロレスの味方であることを言明してみせるインテリ」の口吻のうさんくささに辟易していたからです。まあ、みんな死んじゃったけど。
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ずっと若い頃、プロレスに冷淡なものの言い方をしたことで、幾人かの知人と疎遠になってしまった。なので、ある時期から、この娯楽(なのか興業なのかスポーツなのか演劇なのかということも含めて)には、なるべく言及しないように心がけてきた。あれは、実にやっかいな話題だった。
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