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ニーチェの「深淵を見つめる者は深淵からも見つめ返されるのだ」という言葉は有名だが、その言葉を言ったニーチェ自身が発狂したことは、その言葉の正しさを見事に証明している。もちろん、その直接の原因が梅毒だったにしても、梅毒患者がみなニーチェのように深淵を見つめていたわけではない。逆は必ずしも真ならず、である。
で、ここで論じるのは、「笑い」というのは、人が思っている以上に危険な「深淵」なのではないか、ということだ。
漫画家の中で、ギャグ漫画家の作家生命が非常に短いことを知っている人は多いと思うが、それがなぜかを論じた人はいないだろう。
そこで、私があっさり言えば、笑いとは深淵だから、ということだ。奥深く、得体の知れない存在を見つめ続けるうちに精神の変調を来すのである。
なぜ笑いが深淵かと言えば、人はなぜ笑うのか、と問うのが早いだろう。何かを見て笑うのはなぜか。それが異常だからである。その異常を見つめ続け、異常を自分で作り出すことが「笑いの創作家」の仕事なのだ。つまり、正視するに堪えないものを正視し続けること。これがどれほど精神的にきつい作業か、想像のつかない人が多いかと思う。しかし、古来のユーモリストの多くは日常生活では陰鬱な人間で、発狂した人間も多いのだ。
スイフトは別に笑いを見つめ続けた人間ではないが、そのユーモア感覚の鋭さは誰でも知っている。つまり、異常を見る目が鋭かったのである。だから彼は発狂したのではないだろうか。
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思考テーマとしてメモだけしておく。筒井康隆が昔、小説に刺激(面白さ)だけを求める層に「感動乞食」とか「何とか乞食」と言っていたのがヒントになる。

「消耗品としての『感動』」


(追記)「感動を作り出すメソッド」というのを考えてみようと思うのだが、その前に、「泣かせるのは簡単だが笑わせるのは難しい」という、脚本家や映画界の定説(私もそう思う)について言えば、人は、「自分が見ている物に同化する」性質があり、悲しんでいる人を見ると自分も悲しくなる。そして、身近な人の死や愛するペットの死は人を容易に泣かせるのである。つまり、「泣かせるには作中の『愛すべき存在』を殺せばいい」わけで、これをゆうきまさみが漫画で「タッチメソッド」と冗談で言っていたが、実は漫画の神様手塚治虫がその事をかなり昔に言っている。つまり、「読者が、死ぬと思っていなかった人物を殺す」ことで泣かせるというテクニックである。まさに、「読者が、死ぬと思っていなかった重要人物を作品序盤で殺す」のはタッチメソッドであり、それは手塚メソッドの派生である。
しかし、これは「泣かせる」テクニックであり、また、泣かせる方法はこれだけではないが、「感動」というのは別にたいしたものではなく、人は状況が揃えば容易に感動する、つまり心を動かされるものだ、とは言えるかと思う。
人や動物の死という、安易な感動より少し「上級感動」を言えば、その代表は「自己犠牲」だろう。人は、自分ならとてもできないような自己犠牲を行って誰かを救うという行為に激しく感動するものだ。特攻隊を美化する話もその一種だろう。つまり、あのキチガイ行為を「国や愛する人を救うための自己犠牲だ」と飾ることで感動をさせる、いわゆる感動ポルノである。
まあ、フィクションにおける感動はすべて感動ポルノだと言えないこともないから、「感動ポルノ」は便利な言葉だが、技巧論としては無視するべきだろう。



「左利きの(プロの)書家はいるのか」と疑問を持って調べて行き当たったブログで、内容には一切共感しないが参考までに転載する。世界が右利き有利にできていることは(野球を除いて)事実だが、書の世界はそもそも右で書かれた字を美として成立しているのであり、何も左利きが無理に書いた書を美だと考えるように意識変革をする必要性を私は認めない。それより、胴長短足で平たい鼻こそ美だと世界に認めさせるほうが有益だろう。
なお、漫画家には左利きが結構多いらしい。絵では特に右利きが有利ということはないのだろう。

(以下引用)

レフティやすおの新しい生活を始めよう!

50歳からが人生の第二段階、中年の始まりです。より良き老後のために良き習慣を身に付けて新しい生活を始めましょう。

書道家・武田双雲氏の左利きの子の習字指導発言について思うこと

2012-12-02 | 左利き
テレビでおなじみの書道家・武田双雲氏が、11月22日、自身のブログ<書道家・武田双雲 公式ブログ『書の力』>で左利きの子の習字指導をどうするかについて、以下↓のような記事を書いていらっしゃいます。

左利きの子はお習字はどうする?

氏はこう答えるそうです。
「両方で書けたらもてます(^-^)v」
さらにこう続けています。
うちの息子も左利きですが、/両方で書きます。
そして、
うちの書道教室でも左利きの子はなぜか多いのですが、みんな器用に両方で書けます。/でもやはり自然と右で書くようになるんですよね。

理由として、
字は右ききが前提で開発されてるから。/結局、書きやすい方に流れますから

しかし、どうなんでしょうか。
私の体験では、確かに大筆を使う大きな文字は右手で書けても、脇に小筆で小さく書く自分の名前はなかなか書けないものです。

そのレベルまで行ってるのかどうか、私は怪しいのではないか、という気がします。
少なくとも大部分の子が、という点で。

それと、「左利きの子」と一口に言っても、左利きの度合いがどうかという問題があります。
一見左利きっぽい子―左もある程度使える子もいます。
そういう子供の場合は、書けるんでしょうね。

でも、そういう子供ばかりとは言えないという気もします。


そして、一番大事なことは、「両方で書けたら…」といわれるのは、常に左利きの子だという事実です。

多分武田双雲氏も、左利きの子にしか言わないのではないでしょうか?

教室に来る子供全員に対して、
「両方で書けたらもてます(^-^)v」
と言っているのでしょうか?


左利きの子供に対してよく言われる教育法―しつけの方法として、「両方使えたら便利でいいね」といった言葉があります。
「右手も使わせて、両利きにしましょう!」という場合もあります。

一見、筋の通った意見のように思えますが、実は立派な“差別”発言です。

なぜそう言えるのか?

いつも私は言うのですが、「両方使えて便利になるのは、左利きの子だけではない」ということです。
右利きの人だって、右手をケガした時などは、左手が使えれば便利です。

「両手が使えて便利になる」のは、決して左利きの子供だけではないのです。
右利きの子供だって両方使えれば、便利になります。

ところが、右利きの子供に左手も使えたら便利だから、と左手を使わせる教育を施す例は、ほとんどないという事実です。
また、それを訴える親や教育者もまずいない、と言えるでしょう。

特定の人にのみ特定の行動を“強要”する行為は、“差別”と呼ばれて仕方ないのではないでしょうか?


今回の武田双雲氏の指導も、同じことです。

私はその点を非常に憤るのです。
坊主憎けりゃ袈裟まで、という意味で言うのではないですが、単に彼は自分ができることを自慢しているだけではないか、という疑惑まで感じるのです。

これは以前、2011.6.23の記事、6月13日日テレ「深イイ話」武田双雲氏左利きの書道についてでも書いたことですが。

 ・・・

もう一言言えば―

氏は、
字は右ききが前提で開発されてるから。
と書いていますが、これも事実とは言えません。

元々文字の歴史を見てみますと、発明された当初は、右手での書きやすさというのは、考慮されていませんでした。
漢字でも楔形文字でも、左右性というのは考慮されていなかったようです。
ましてや、右手で筆記しやすいように、という考えはなかったのです。

今、日本語や中国語では、縦書きは右から左へ改行してゆきます。
英語などヨーロッパ系の言語では、横書きで左から右へ綴ります。
これらは確かに右手での書きやすさを考慮した結果です。

しかし、楔形文字でも、左から右へ綴るようになったのは、発明されて1000年ぐらいたってから、突然90度回転し、今のように左から右へ綴られるようになったのだそうです。

今の文字は、右手で書きやすいように、後に“改良”されたものに過ぎないのです。

最初から右手で書きやすいものとして開発された、というものではないのです。


そういう意味でも、左手で書くということを否定することはできません。
右手で書くことだけが習字ではないのです。

要するに、右手であろうと左手であろうとなんであろうと、自分が最も書きやすいと思う、最も自然に書くことが可能だと思う器官を用いて書けばよいのです。

その結果として、右利きの人では右手となり、左利きの人では左手となる、といった違いが生まれるだけのことです。
それがいいとか悪いとかいう次元の問題ではないのです。


「右手の方がきれいな字が書ける」と言う場合の、「きれい」とはなんでしょうか?

それは、従来の基準では、全体のバランス等はともかく、基本的には<右手で書くときの書き癖を活かした形をよし>とするものに過ぎないのです。
始筆の入り方や送筆の際の右上がりの線、終筆におけるハネやトメといった形などに現れるものです。

しかし、それらも工夫をすることで、左手書きでも“真似る”ことは可能です。

実際のコンクールでは、左手書きで受賞している人も少なくないのです。
なかには、右手が不自由になり、左手で勉強しなおしたという方もいらっしゃいます。

世の中には、見やすい、読みやすいといった機能美が満たされていればよい、とする見方もあります。

本来「美」というものは、基準などあってないようなものではないでしょうか。

 ・・・

氏の言葉によれば、
双雲@人は、楽しい方へ向かうとうまくいく。
のだそうです。

左利きの人や左手で書きたい人は、左手で楽しく書けばよいのです。
そうすれば、うまくいくそうです。
双雲先生のお墨付きです、自信を持ちましょう。


*参考:<左手書字>
『左組通信』
<私論4>左手で字を書くために
<私論4>左手で字を書くために(その2)実技
『お茶でっせ』
<左手書字>カテゴリ

*『お茶でっせ』「武田双雲」関連の記事
07.10.25
左ききでは書道は無理ですか?:武田双雲『書愉道 双雲流自由書入門』から
08.7.30
『女性自身』2008年8月12日号で左利き記事
11.6.23
6月13日日テレ「深イイ話」武田双雲氏左利きの書道について
12.9.26
Twitterの威力か?[武田双雲テレビ番組左利き書道]記事にアクセス集中!


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※本稿は、ココログ版『レフティやすおのお茶でっせ』より
「書道家・武田双雲氏の左利きの子の習字指導発言について思うこと」を転載したものです。
(この記事へのコメント・トラックバックは、転載元『お茶でっせ』のほうにお願い致します。ただし承認制になっていますので、ただちに反映されません。ご了承ください。)
昔から私が不思議だったのは、優れた小説家がなぜ老年になると創作能力が激減するのか、ということだった。もちろん、老化による記憶力の減退が創作の支障になるという面も大きいだろうが、それ以前に、創作意欲そのものを失うような気がする。
それはなぜか。
ひとつには、「自分の限界」が見えているからかと思う。どう努力しても、過去の偉大な作品や作家に並ぶことは不可能だ、という敗北主義があるのではないか。
もうひとつは、「創作という行為そのものへの疑問」があるのではないか。

若いころにはなぜ創作意欲があるのか、という問題に置き換えるといいかもしれない。
それは「小説世界への感動」が一番大きな原因だろう。「このような作品を自分でも書いてみたい」という気持ちだ。つまり、憧れである。
なぜ小説世界が感動を与えるかと言えば、それは「現実には手に入れることがほとんど不可能な体験を与えてくれる」からである。冒険、恋愛、気心の知れた個性的な仲間、あるいは戦い、苦悩までも、ロマンの一部なのである。もちろん、小説はそういうものばかりではなく、ヴォルテールの作品のように思弁的、哲学的な作品も小説だし、私小説的な、現実生活そのものを微細に描くことで現実生活を深化させる類の小説もある。
いずれにしても、「現実では得られない仮想体験や精神的経験を与えてくれる」のが小説の一番の価値だろうし、それを自分でも作ってみたいというのが若いころの創作動機かと思う。

だが、老年になると、ほとんどの「精神的体験」は経験済みである。現実に経験しなくても、多くの書を読んで経験している。その上に、自分が付け加える必要性など何も無いことを知るわけだ。

これが、老年における創作意欲や創作能力の減退の原因かと思う。
「たとえば人生の残り時間が五年なら何をしたいか」という問題だが、今日も酒は相変わらず飲んでいるがまだ酔いはさほどでもないので、酒のつまみに考えてみる。
一番にしたいことは、もっと自然と親しむことである。私は出不精なので散歩にも滅多に出ないが、出ると自然の風情に感動することが多い。そういう時に、雑草の花や木々の花を見て、その雑草や木々の名前を知っていれば良かったなあ、と思う。名前を知らないから俳句にも短歌にもならない。
二番目は、過去の記憶を探ることである。私は物覚えが非常に悪く、自分の経験したことをほとんど覚えていない。それで生きてきたと言えるのか、非常にこころもとない。まあ、私が悪いのではなく、記憶力のせいである、と迷亭みたいなことを言ってみる。
三番目は、何かいい小説なり脚本なりを一本書いてみたい、ということで、そのための準備などはこのブログに資料として少し残している。
四番目は、これは私が生きていることの「言い訳」みたいなものだが、もしかしたらある日突然、天からの啓示が降りてきて、「世界から貧乏や戦争を無くし、人類全体が幸福になり、地上の天国を作るアイデア」が心の中に生まれるのではないか、という期待というか、希望がある。
それを生み出せれば、私はただの飲兵衛の無能者から人類史上最大の偉人になるのであるwww
まあ、実はそれはウェッブ夫妻の「漸進的社会主義」思想で既に提示されてはいるのだが、それがなぜか(まあ、資本家がすべてを、特にマスコミと教育界と政治を牛耳っているからだが)全世界に広がっていかないのである。

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